Essay
雑記
気に入った場所
三重県北西部の島ヶ原村から北へ入った山間に三国越林道がある。
入り口から一気に上り詰めると桜並木になっている。高原を見下ろす絶景と相まって、春は素晴らしい花見場所になる。
そこを通り過ぎて谷間の道を行くと、一本のねむの木が立っている。なかなか堂々たるものだ。ねむの木は6月から7月に開花する。
僕はねむの木がどんなものか知らなかった。ある日ふらふらひとりで通り掛かったときに、ちょうど満開のこの木を見つけた。
豆科独特の細かく分かれた葉っぱを茂らせ、これも糸を集めたように細かい花弁の先を薄紅色にした柔らかな花をそこここにのせている。桜のように花びらだけ散らせるのでなく、花ごとぽとりぽとりとおとしてゆく。
ちょっと陰気な感じもするが、気取らずに癖のあるまま生きてる感じがなんともいい。ちょうどポケット版の植物図鑑を載せていたから調べてみると、合歓木だという。これでねむのきと読むのはどうしてか知らないが、夜には葉を閉じて眠るのでこの名があるという。
どうせほかにあてがあって車を走らせていたわけでもなし、ちょっと昼寝もしながら、しばらく本を読んで過ごした。小さな谷間は下界と違って涼しい風が絶えることがない。合歓木の花のかすかな甘い香りを聴きながら、ほぼ交通量のないこの道で休むのは本当に気持ちが良かった。それでこの数年花の咲く時期になると、その時々に気に入った本を数冊選んで車に載せ、半日ほどを過ごすことにしている。
閉じられた谷間。おとなしく立っていい匂いのする木がある。風も抜けるし、誰も来ない。陽の光は間接光となり、寝て善し読んで善し。書斎というものを考えるなら、ここにひとつの理想型がある。
気に入った場所をたくさん持っている人は、それだけで幸せなのだろうと思う。都市化と情報化が進むに連れて、何事も固有性が失われる傾向があるが、そんな世界もその気になれば抜け出すことはとても簡単だ。ところが固有の、特定のものを求めるにも、既に何もなくなっているということがある。
時間の流れは何事も変化させてしまう。新しいものの誕生に喜ぶことはいいが、そのかわりに何かを失う場合もある。
少なくとも空間、場所というものは、突然の生成や消滅よりも、順当な歴史の積み重ねが切れてしまわないほうがよい。刺激や衝突は非日常的である範囲を超えないようにしなければ、まちも人も実体を失っていく。何を日常として育てているのか。それがまず大切だ。
僕だって人里はなれた所ばかりでなくて、自分のまちに何時いっても居心地よく本を読めるカフェが欲しい。
欲をいえば昼寝も出来るカフェはないものかと思うが、まあ自宅か恋人の家でいこごちよく過ごせるように努力するほかない。
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