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Diario
日々の記録
下へ行くほど新しくなります
2004.0202 月曜日
曇りときどき雨
息もつげない忙しさだった。まったく勤務中は、球技のラリーのよう。あるいはスキーのモーグルみたいだった。
元来、僕はかなりの怠け者で、ほうっておくと完全な「ふぬけ」になってしまうような人間である。いや、ほとんどいつも「ふぬけ」に近い。だから、外側からこうやってなにやかやとやらされていてちょうどいい。
ただ、まあ、喜びを感じないで、我慢ばかり重ねてやっているのなら、それも意味がない。人間、自分の人生は自分にしか生きられないのだ。
2004.0203 火曜日
曇りときどき雨
■節分
今日は節分である。僕の知る限り、二百十日の数えはじめの日に当たる。と、それは本当かと調べたら、間違いだった。二百十日は立春からだそうだ。ははあ、そうなのね。二百十日は、台風がよく来る日。
今日も忙しかった。夜半、これで寝てしまうのも口惜しいので一杯飲む。一番好きな酒である剣菱。肴はとくにないので、しかたなくモツァレラチーズ。塩とバジルを振りかけて。剣菱に合わないこともない。
そうそう、節分。僕はなぜか節分が何日なのか覚えられない。だから、毎年2月2日だろうかとおもったり、いや2月4日だと思ったりする。けれど2月3日だという。年によってかわるのだろうか?来年、2月3日に節分であると自信をもって思い出せるかどうか、いまからそれこそ自信がない。
剣菱。特撰。少し味が濃いけれど、やはり好きだなあ。さあ寝よう。4時になるぞ。かけているラジオはNHKの第一放送。サトウハチロー特集をやっている。
ではおやすみなさい。
2004.0205 木曜日
晴れ
■戦争を見る
そう言うことはできないけれど、でも、ついに見てしまった。たんに、それは夢でしかなかったのだが。
このところ日付が変わってからしか帰宅出来ない状況だったのに昨晩は3時頃まで仕事をしていたので、今日はかなり起きるのが辛かった。それを起きることが出来たのは、この夢をみたからだ。
僕は、どうもアフガニスタンのカブールか、どこかにいるらしい。そして、アフガニスタンの家人(?)のおじさんや子供達といっしょに、普通の集合住宅に住んでいる。そういう設定であるようだった。
家にいると、にわかに騒がしくなった。戦闘が始まった緊張感があった。僕は、集合住宅の2階だか3階から、外を見た。米兵がいた。
次の瞬間、身が凍った。こちらに気付くと、敵だと思いこんで、確認もなしに銃を構えて撃ってきたのだ。家中が騒然となった。
夢はまだ終わらなかった。
騒ぎの後、家の中で、家人達と無事を確認し合っていた。ずいぶんな騒ぎ方だった。
そうしたら、5歳くらいの子供がどこからともなく持ってきた手榴弾を転がしたのである。とんでもない騒ぎになった。みんな、逃げまどった。僕は目の前の階段へむかって弾けるように飛んで逃げようとした。
そこで目が覚めた。心臓が、まさしく早鐘のように鳴っていた。
そのうち見るだろうと思っていた夢だった。これは危機感に基づく、しかしあくまでも想像による夢である。僕は一歩進んで、もし本当の戦闘体験を持っていたら、と想像してみた。その場合見る夢についても。それはもう、本当に身のすくむような想像だった。
2004.0207 金曜日
晴れ
今日は早めに仕事をあがった。花小金井は電車で1時間ほど。こじんまりした鳥の料理屋に向かった。チリの協力隊員卒業生ばかり11人ほどが集まっていた。そのうちひとりは、みんながお世話になったSさんである。彼は調整員で、つまり事務所でみんなのコーディネータを勤めてくれていた方だ。今回、短期間の帰国があって、現在の任地であるアフリカの小国から戻ってきていた。だからみんなで集まろうという話になったわけだ。
わいわいと。
2004.0309 火曜日
冷える日であったという
■カンボジアのこと
2月11日に出発して、カンボジアに出張してきた。そして、ほぼひと月ぶりに今日、帰国した。今年はわりあい暖かな冬だったようだが、出発の日はまぎれもなく冬で、あたたかなカンボジアに着くまでの、というよりも空港までの時間をやり過ごすだけの格好というのが難しかったことを思い出す。向こうへ着けば半袖でよいから。今日は、出発したその日と全く同じ格好をしていた。それなりに冷えていたけれども、思いのほか、東京はあたたかだった。
出張期間中は忙しいだけでなく、なにかと落ち着かない日々だった。それで僕は全く日記など書く気になれなかった。ひと月もあるというのに、これは珍しいことだった。
何か書くのなら、それなりに落ち着いた眼差しが必要だと思う。そうする猶予もなく、次から次へと過ごしていく時間の連続は、いかに魅力ある環境であっても、砂を噛むような感覚しか与えてくれない。何事も、咀嚼してこそ味わえると言うものだ。
■虐殺資料館
トゥール・スレーンという名の、記念館を訪ねることがあった。ポル・ポト時代の虐殺に関する記録を納めてあり、見学者はそれらを目の当たりにする。建物は、虐殺が行われた場所、そのままである。もともとは中学校だか高校だかの、普通の学校だ。内部は養鶏場のような収容所に改造され、拷問のための部屋も幾つか用意されていた。校庭には、人をつるし上げるために改造された遊具も残されていた。
プノンペンがベトナム軍によって解放されたとき、トゥール・スレーンは目も背けるような凄惨な死体が遺棄され、放棄されていたという。その時の写真映像が掲示されていた。また、有名なキリング・フィールドでの残虐な大量殺人の風景を描いた絵も展示されていた。書くのもおぞましいが、嬰児を木に叩きつけて殺す兵士(?)の絵もある。母親は、むりやり引き離され、泣き叫んでいる。地獄でも、これほどにむごたらしくはあるまい。
日々接しているカンボジア人、すなわちクメールの人々は、ほんとうに穏やかで、控えめだった。日本人の持っているものとも似ていて、一層やさしく感じた。けれど、あのような歴史を最近刻んでしまったというのは、なんなのだろうか。実は内面に激しいものを秘めたひとびとなのだろうか。僕は、たぶんそうではないと思った。狂った時代であったというのが正しいのだろうと思った。もっといえば、僕もまた、そうした時代に、状況にまきこまれうる、ということなのではないかと感じた。
記念館にいて、僕は自分が冷酷に感じるくらい、なぜか冷静だった。骸骨の山も、犠牲者の無数の写真も、遠くにいて呼びかける人の声のように、ほとんどなにも僕の心の中に届いてこないような気がしていた。
しかし僕は、それが鈍い感受性のせいではないと思った。よしんばそうであるとしても、そんなことを一番の問題としてあれこれ考えるのは、このような大きな現実を前にしては意味がないと思えた。
けれど、これでいいのだろうか?なんだろう?この気持ちは?
資料館を後にして、僕がずっと追っていたのは、この気持ちのことだった。しかし、結局それはなんなのか分からずじまいになってしまった。
はっきりすれば、ここへそれを書いておきたいと思ったけれど、それは叶わなかった。だから、せめてそういう気分があったということだけでも、書いてとどめておきたいと思う。
■アンコールワット
ここにも休日に行ってきたが、これについては書ききれず。後への宿題とする。
2004.0320 土曜日
雨
■青梅はまた雨
昼ご飯はトマトソースのパスタで。トマトが酸っぱくておいしかった。
車を出して、青梅に向かった。昨日からそうしようと思っていたから。けれど、今日はあいにくの雨で、みぞれまで混じっている。寒気が入り込んで、今日は真冬のような天気になってしまった。
前に来たときも、やはり雨だった。晩秋近い青梅は、散り終えようとしていた紅葉も寂しく、しかし美しかった。今回は桜の咲く前の季節で、梅が終わろうとしていた。桃かと思ったのだけれど、どうも梅のようである。青梅、というだけのことはある、というところだろうか。
しかし、青梅とは、なかなかに綺麗な名前だと思う。
ところで、なぜ梅が青いのだろうか?道々眺める梅はほとんどが白梅で、ときどき紅梅があって目も覚めるよう。山は山で、雨でも爽やかに佇んでいる。ちょっと素敵なところだと思う。吉川英治記念館などもあったけれど、彼の文豪はここで仕事をしていたのだろうか?静かだけれど陰気くさくない気分を感じる。彼の作風に通じるものがないだろうか。
2004.0321 日曜日
晴れ
どうということはないいちにちだった。
実は僕の家は、今年の大河ドラマのいわゆるご当地である。おもしろいもので、公園の中にテーマパークのようなものまで市は作っていて、今年ばかりは静かな片田舎は賑わう予定のようだ。予定、というのは、もりあがりは今ひとつのように感じるからである。たしかに土方歳三ゆかりの土地といっても、名所旧跡には乏しい。あくまでも地元での再認識という枠を出るものではないように思われる。哀しいかな、新選組は幕府方の組織だからいわゆる賊軍になってしまっており、為に資料も何も、寂しいほどにしか残っていないのだそうだ。だから土方姓の末裔も多いこの土地は、そのゆかりがあるというだけで、好きな人には値打ちがある。
で、自転車で散歩したおりに、テーマパークのある公園に立ち寄った。公園は近所の家族連れが憩って平和そのもの。どのくらい平和かというと、涙が出るくらいに。どこかの国の人々を連れてきて見せたら、きっと信じないだろうと思うくらいに。そして、なんだか奇異なくらいに。でも、これは本当なのだ。そして危うく保たれているのではなくて、そこそこの安定の中にあるのだ。
などと考えながら、僕は売店で「オクラチップス」「ゴーヤチップス」、そして「オニオンチップス」を一袋ずつ購入。いやあ、ビールが欲しくなりますね、と言えば、店のおじさん、ジュースをおまけしてくれた。
僕はその後、買い物をして掃除をし、少々勉強などしてみたのだった。
2004.0413 火曜日
曇り
■はなみずき
昨日、あれほど暖かかったというのに、寒いほどに今日は冷えた。自転車で会社まで来る間、手袋をしたのは大げさではなかった。
昼をとりに会社の外に出たおり、街路に植えられたハナミズキが綺麗だった。今日が花冷えだというのなら、ハナミズキにちなみたい。暗いけれど、今日の曇りは、清楚と言うには少し美しすぎるこの花の咲く木々にとって、いちばん綺麗なグレーの背景を与えたような気がした。
去年の今頃も、ハナミズキはきっときれいに咲いていたのだろう。桜も散って、しかし僕の大好きな緑濃い若葉をぐんぐんと茂らせていたのだろうと思った。
しかし、これらは本当にハナミズキなのだろうか。たよりなくいぶかしみながら、冷える大気を吸った。そうして僕は、多幸を祈るべきひとのことをおもった。
2004.0414 水曜日
雨
■レストランの窓
スペイン・レストランには、さっきからフリオ・イグレシアスが流れていた。パエリアが出てきて、サフラン色した米粒の舌触りって、なんだか独特だな、などと考えたりしていた。
今日も少し冷える。窓の外、家路を急いで行き交っていく傘の流れの絶えない新宿。
昨日、書店に寄ったのだが、そこで歳時記など買ってみた。作る方も凝ろうと思えばいくらでも凝れる本である。選ぶのも楽しかったけれど、僕はなかでも最も例句の多くて説明の楽しい、いってみれば欲張りな辞典形式の俳句歳時記を選んだ。角川春樹の編集になるもので、例句には彼の作も入れられてあり、立派な俳人であるとはいえ、ここまでやれば大したものだともおもい、微笑ましくもあった。
花もみな散りぬる宿は行く春のふるさとこそなりぬべらなれ
これは「行く春」ということばが初めて使われたとされる紀貫之の歌だと歳時記にある。どのような意味であろうか。まだ春に、行く頃は訪れていないけれど。
のどかな春の夜の食卓に、最初に運ばれてきたのはサングリアだった。冷やされてもどっしりと赤い食前の葡萄酒は春の雨の日には不似合いで、それがために、柔らかなサフランの黄色などよりもとても記憶に残った。
2004.0419 月曜日
曇り、夜半より雨
■自己責任の話
イラクで武装集団に拉致されていた3人と2人の方々が、数日前、やっと解放された。薄氷を踏みながら、よくも生還したものだと思う。
生きて帰れたのは、彼らが、少なくとも個人の立場でイラクにやってきており、それぞれの考えで、イラクのひとびとそのものに対して役立てないかという信条を持っていたからではないか。そして、拉致した人々に、それがある程度理解されたからではないかと思っている。基礎的な部分で、それはとても大きかったはずだと考えている。
それにしても、せっかく助かって帰ってくると言うのに、いろんな感情や意見がうずまく日本の空気には、かなりの割合で、彼らの軽率や面倒を非難するものが含まれていて、ちょっと酷だなと思う。それらの非難は、一種正論ではあるが、どことなく不穏な扇情の香りを感じて、僕には危険に思われる。政府の要人が、身柄の確保ができたとなると、身を翻すようにいささか感情的なコメントを述べるのを見て、危険な傾向を感じる。どういった内容であれ、あれは国民を軽く見てマスコミを利用しているとしか思えない。
肝心のイラクの暗い現状はどうなっているのか、まずそれを考えたくはないか。あるいは、それにまつわる、国や個人の、それぞれの行動というものを追いたくはないか。
あのような事件をうけて、日本では渡航の禁止措置に強制力を持たせようとする動きもあるらしい。理解できる気もするが、危ない動きとも取れる。
自己責任、という言葉も使われたが、難しいことを言うと思う。自分の責任のらち外、とだけ言えばよいと思うのだが。
ともあれ、たしかに備えは大切であった。個人でできる活動としては、ちょっと手に負えないものだったのだろう。事が起きればどういったことになるのか、たしかによく考えないといけなかったのだな。
けれど、本来的には誘拐をした輩をこそ責めるべきである。そうした声がメディアのほうで取り上げられないのは、ずいぶんとおかしな事だ。あるいは本当に、だれもそのような発言をしなかったのか。
とにかく、イラクには、絶望と怒りと不可能に囲い込まれてしまった人々がいるのはたしかだ。そのような人々にとっては、今の現実を、絶対に受け入れられないのだ。
誰がすきこのんで、拉致や誘拐をし、残酷なビデオを送りつけるものか。憤怒と変節と敗北に満ちたような行動であるにもかかわらず、それを行わせる、想像もできない哀しみが、ここにあると言っているのだ。
2004.0509 日曜日
曇りときどき雨
■母の日
ほとんど家を出ず、終日家で勉強などして過ごす。昼ごろ、大阪の母と電話で話したのだが、夜になってから母の日だったことに気づき、慌ててもう一度電話をかけた。とくに何も送ったりしていないけれど、大切なことだから。
母は、今日の仕事の帰りに美容院へ寄ったという。若いスタッフに、母の日だからと腕や肩を揉んでもらったのがうれしかった。そう言っていた。
母の日、とは、いいアイデアだと思う。そういう日をつくろうということが。しかし、おめでとう、と祝う日なのではない。はたしてだから何?結局は、お母さんにありがとう、と、あらためて感謝するほかはないのだろう。そして月並みだけれど、彼女を軸にした幸せを確認して、けしておおげさでなく母のことを偉大だな、と思う、そんな日だといい。
僕の場合は、ありがたくもそんな日である。
なにがありがたいのか。
そうではないのだな。
母にこそ、有り難く感謝したい。
2004.0512 水曜日
曇り
■過剰な期待
かなり語弊のあるタイトルだと思うけれど、常々思っていることについて書く。
テレビや新聞で、あれこれと事件や問題がとりあげられる。たとえばイラク情勢だ。このところ、イラクそのものの情勢もさることながら、アメリカ軍がイラク人捕虜をひどく虐待してきたことが明らかになりつつあって、混迷といおうか、醜く嫌な気持ちにさせるイラクの話題が、一層ひどいものになっている。いや、話題でなくて、現実そのものなのだから、そんな軽い言い方は不適切だが。
日本国内で言うと、年金制度の改革関連の動きのそばから、議員による国民年金の未納であるとか怠慢とかミスの話が出ては止まらない。みっともないではすまないだろうが、一体なにがどう悪いのか、じつはどうでもいいのか・・・というのも、議員は聖人君子でなくてはいけないのだろうか?そのとおりだよ、いやしかし、実際、あなた自身大丈夫ですか?といった揺れる気分があるのも僕には事実で、報道の論調や、一国民としての自分は、議員には厳しくありたいし正論もいいたいが、それでおしまいかというと実際的にはどうも釈然としないモノがあるのも本当だ。
では、先のイラクの虐待はどうかというと、なにがなんだかわからないというのが正直なところで、ここまで泥沼になっていると、当事者たちの誰ひとり、正しい行動をもって前進感ある生き方など出来ないのではないかと、半ば同情めいた気分が沸いてしまう。国防長官も、釈明しながら、もうなにがなんだか分かりません、と言いたいのではと想像してしまう。
そこで、とても語弊があるのだが、当事者達に対する過剰な期待を我々が基礎にしていることが、そもそもおかしいのではないかとしか、僕には思えないということを述べたい。
早い話が、いくら立場のある人達であれ、人間なのだ。そして、思ったよりも、彼ら人間は、高い期待に応えることができないのだ。ようするに、ボンクラなのである。ボンクラって、使っていい言葉?いや彼らは、十分どころか、かなり優秀と呼んでいい人々なのだろうけど、山のような課題と、誰もが匙を投げたくなるような、尻込みするような状況の矢面に立たされてみれば、そうそううまくもいかないのが人間としては当然かと思えるのだ。失敗が続けば、彼らも運が悪かったとさえ思うであろう。
僕は基本的な態度として、人間は、そうそう優秀ではないと思うことにしている。うずまく課題の中では、成功を収め、前進するような姿というのは、稀な光景に過ぎない。むしろ、どんなに頑張っても絶望的なまでに失敗を積み重ねたり、新たな矛盾を作り出してしまうことがある。それが普通なのだと思うことにしている。そして、そうした態度が、過剰な期待と僕が呼ぶ態度に、広く世間の人々の間でとって変わった方が、よいのではないかとさえ思っている。ものごとにかかわっていくときのスタンスとして、安全で確実であろうということだ。
運転技術への過剰な期待の一方で、事故を想定した安全装備をおろそかにすることがあっては無謀である。さらに、安全のためには、本当の運転技術を割り引くような安全率を取り入れるのが当然の発想と言える。社会の事象にも、どのようなものであれ、人間自身にたいして、そうした視点を投げかける方がよい。医療事故もしかりだろう。バブルの崩壊もしかりだろう。原子力政策も、やはりしかりといってよい。
特に、日本やアメリカのような、成功が続いて築きすぎてしまった結果、頂のずば抜けて高い山となった社会では、人々は、いまいちど天狗になった自分の鼻がただの鼻であることを自覚することが必要だろう。
人間は、葦である。しかし、それは考える葦である。
そう述べて、わくわくしたのは、いけいけどんどんの時代のこと。
人間は、ボンクラであるかも知れない。しかし、人間は考えるボンクラである。あれ?
現代は、これでいくべきでは?うーむ。ラムズフェルド氏に教えて上げたい。
一言添えると、逆に低信頼の社会でやっていく智慧は、むしろいわゆる途上国の中に、いまは豊富にあるということを意識すべきだ。そこでは、みんな借金が少なくても商売できるよう頑張っている。我々は、抱えきれない借金を振り回しつづけなければやっていけない大企業のボンクラである、とイメージしてみる。そして、スタートするのはそこからなのだという、謙虚で醒めた自覚を持つべきだ。さもなくば、恐怖と悲鳴が我々には待っているかも知れない。やっかいなのは、その不気味な予感を持ちながら、相変わらず自分の見えないボンクラさである。
2004.0513 木曜日
曇りのち雨
■備え
昨日かいたもの(2004.0512「過剰な期待」)を読み返すと、どうも言葉が足りない気がしたので、追補する。
人間、おもったよりもボンクラであるので、過剰な期待をしないほうがよい。そういったのは、だから失敗やとんでもない事態を受容するべきだ、という意味ではない。もちろん、そんなことは許すものか。
僕が言いたいのは、ボンクラなので失敗するし、とんでもない事態が起こりうるから、過剰に期待しないで、ボンクラの集まりでもできることを、必ずできるように備えなければならない。そういうことである。
僕の専門の建築のなかで簡単に例えれば、人間を過大に評価して、過剰な期待をよせながら、寄せてくる困難にあたることは、実は細くてもろい柱しかないのに、それで超高層ビルを作ってしまうようなものだ。細くてもろい柱なら、同じ容積や機能を実現するには、もっと建物を低くしたり、やっぱり柱を太くしたり、荷重を減らすようにしたり、たくさん補強を入れたり、平面計画(間取り)も大幅に変更したりと、たくさんの発想の転換が必要である。そのように工夫して、そんな柱でもやっていける安心を作ることだ。欠陥のあるままの超高層が崩れてから苦情を言っても始まらない。
本来、備えとは、そういうことではなかろうか。
2004.0523 日曜日から2004.0606 日曜日
■再びカンボジアへ
7歳までは夢の中。そういう題名の本があると、どこかで読んだ。シュタイナー教育にかんする本であるそうだ。僕は読んでいないから、この本の趣旨を簡単に述べることはできないが、ともかく、素敵な題名だなと思っていた。
そう思っていたことを、久しぶりに思い出したのは、泊まっていたホテルの前を、昼食をとった帰りに歩いていたときだった。
そのホテルは、プノンペンでも特に大きくて、高級な部類だから、宿泊客はほとんどが金持ちの外国人である。ホテルのメインゲートのそばだった。彼らをあてにしたのだろう。物乞いの子供がいた。
本当に小さな子で、3つくらいではなかったかと思う。栄養状態がよくなければ、5つくらいでも、あんなに小さいことがあるかも知れないが、ほんのこのあいだまで赤ん坊だったような、そんな小さな子だった。
その小さな子供は、裸足で、まとわりつくように離れないで、いや、ほんの少しだけ前を歩いては、土下座をして物乞いを繰り返した。必死の形相だった。でんぐり返りをしそうな勢いで、何度も何度も土下座を繰り返す。炎天下、裸足の彼からは、つーんとするアンモニア臭が漂っている。しばらく風呂に入っていないのだろう。洗濯もしていないのだろう。
ただ物乞いならば、とりあわずに立ち去るだけのことだから、気にもとめなかったはずなのに、余りに小さな彼のことは、どうしても忘れられなくなってしまった。
7歳までは、無垢な子供のままに、夢の中に生きるが如くにしてあげたい。そのように幼少を過ごすことができるひとは、本当に幸せなのだと思う。憧れるほどに。
彼は、物心もつかないような幼さだというのに、夢見ることも許されないのだろうか。必死の形相で、生活と生存の縁を、土下座をして踏みとどまろうというのだ。
世の中は厳しいかも知れないが、少ないパイにありつけない弱い人間が、真っ先にこぼれ落ちていこうというのでは残酷にすぎる。
皮肉で言うのではなく、うっとりするほどの理想的な本の名前が、彼の必死の形相と繰り返される土下座を見たとき、出てきたのだ。彼にも、夢の中で幼少を過ごすことができるよう、何事か仕事がなされるとすれば、それはなんと尊いことだろう。しかし、それはあまりにも薄い望みに思える。
ゲートを過ぎて、ホテルの中へと向かう僕を、彼はもうあてにはせず、どこかへ行ってしまったようだった。
ちょっと、たとえば、風呂に入れてやれば、それは、彼にとってほんの少しの夢になったのかもしれなかった。彼に、「夢に住まうことを許さない」ためにすることはとても簡単で、大人が、少しずつ背中を向ければよい。
いや、そのような想像を一瞬で作り上げて、僕は背中を向けたのだろうか。
■かぐわしきカンボジア
前回のカンボジア行で書いたことといえば、虐殺資料館のことだった。今回は、物乞いの幼児だ。
こうくると、カンボジアはまるでひどいところで、しかも僕はよくわからないステレオタイプでも持った、憐憫の大好きな嫌な人のようだけれど、そうではないつもりである。
カンボジアは、プノンペンは、そうだな。不良の外国人がしばらく住みたくなるような、ちょっと懐の深くて、なんだか素敵で、そして硬軟、裏表、なんでもある、多面的な街だ。
僕の頭に残っている、最も「らしい」イメージで言うなら、バイクタクシーを拾って後ろに乗った女性客の後ろ姿の美しさと、例外なく長くてかぐわしい髪が風にすかれていくシーン。これである。
これじゃわからないか。
2004.0707 水曜日
概ね晴れ
■七夕
日本は、毎年、どうしても七夕を梅雨に迎えてしまうので、この大切な日の逢瀬が叶えられることは稀となる。その稀なことが、今日は叶った。
多摩川の土手道で、天頂近い星を見上げた。
夏の大三角形にあって、一番明るいのが琴座のベガで織女星。なんだか目に付くのが白鳥座のデネブだが、これは無視して、もうひとつの星を見る。これが鷲座のアルタイルで牽牛星だ。
片田舎とはいえ、東京で見上げると、彼らの間を分かつ天の川は見えない。丁度川の岸辺、畔で斜めに向かい合う二つの星の、本来の情景を思い浮かべた。
2004.0714 木曜日
晴ときどき曇り
■蝉
一昨日、会社からの帰り道、林の向こうからヒグラシの鳴く声を聞いた。夜にも鳴くのだ。涼しさを感じる、いい声だと思った。
今月に入ってすぐの頃、これは会社へ向かう多摩川の土手で、やはり林のなかから一生懸命に鳴く蝉の初鳴きを聞いた。暗い林の奥の、少ししめった土の中から、きっと今朝方、みんな這い出てきたのだろう。そうしてぎらぎらする陽光の下の幹にはりついて、夏の声を響かせている。そう想像して、なんともいいものだなあと思いながら、あの日、美しい夏の午前の土手道を、自転車で走った。
今日の未明のラジオ。NHKを聞いていると、武器輸出禁止の原則を、今後見直そうという議論が、政治家達の間で始まったと伝えるニュースがあった。
難しいことは分からないが、まじめで、しかも物理的にピースフルであることが、日本の最大の美点であることを肌身で感じてきている。銃なし、金持ち、勤勉、誠実。世界が評価するのはこれだった。だから、この知らせを聞いて、反射的に怒りが沸いた。おそらく、日米間で開発を進めようとしているミサイル防衛システムのせいではないか。原則を邪魔に感じているのだ。
およそ、平和への志向というのは、根本的にはポリシーから出てくるものだろう。軍事や防衛は、現実への戦略を要求されるところから出てくるものではないだろうか。だから、もしも、今後とも平和を希求するというのなら、いまいちど原則のポリシーを認識して、一種不気味な戦略の要求を退けなければならない。ある意味で高邁である「ポリシー」は、たぶん個別の戦略について、いちいち具体的に対抗することはないし、できないだろう。土俵が違うのだ。すぐに出てくる「メリットの比較」のような論理も、始めた時点で、戦略への検討の側へ、土俵を譲ったものといえるから、それが広く始まってしまったら、ポリシーは半分捨てられたも同然となるだろう。どちらをとるのかは、もうほとんど人格が行うものといえる。
熱く、厳しさを増す世の中ではあるが、不気味な虫たちも小さな声を発するようになってきているようだ。
しかし、平和というと大きな話だが、ものごとや状況をつくりだすことは、じつに難儀なものである。みんなでそれがもっているイメージを作り上げて、盛り上げなければならないし、そのイメージは、それぞれのひとが、それぞれ持っていて、ずれもあるものだ。
けれどもそれは、絶対的に創造的なものである。子供を育てていくように、畑を耕していくように、強烈な意志と営みがなければ、絶対に立ち現れては来ない。だからポリシーが要る。意志の問題なのだ。
軍事的な戦略は、基本的には状況への対処の束である。総合的に、軍事的な自分の優位が保たれるようにすることが、自律的なルールとしては唯一のものではないだろうか。しかし、破壊と殺戮が、はじめから許されているから、ルールがあるようで、本当はないといってもよいと思っている。現実への戦略に、じつは底がないということが、どんなに怖ろしいか、そして、創造への責任からは切り離されていることが、どんなに責任上楽であるか。だから現代では、制服は文民がコントロールすることになっているのだと思っている。
ポリシーのもつイメージは、どこまでも戦略的な論理に従属することはないはずだった。それを、たんに複数というには多い、そのような数の委員が、市民の付託を受けている政治家が、武器輸出を始めてよいか検討しましょう、と言っていると聞いた。
ラジオの一報を聞いて、およそ論理的でないにしろ、とにかく僕は怒った。それから、この数日、蝉の声を思い出しては心癒されてきたことを思いだした。
でもこれは静観できない。蝉が鳴いてもまかりならんよ。
2004.0717 土曜日
曇りがち
■洗い物
洗濯、掃除、整理整頓。この手のことが好きだという人がいる。男性にも結構いるけれど、女性が言うのを比較的多く、聞いてきた気がする。まあ、男性でも女性でもいいのだが、ともかくそのように仰る方を、僕は無条件に尊敬してきた。恋する相棒に、何を魅力と感じてきたかと問われれば、自分になかったモノを持っていたから、という回答を聞くことがある。僕にないもの、とは、洗濯、掃除、整理整頓への、なんというのか執着、愛情、意識である。ちゃんとした人間であるならばありうべくして備えている意識として、僕にはない、そういうものを考えて、これ以上のモノはあろうか。
しかし、独り暮らしもそこそこの期間を経て、なんとなく嫌いだけどできるようになっているのが洗濯だ。あまり溜まってしまう前に、どんどん洗って干してしまいたいと思えるようになってきた。でも、アイロンがいらない下着とか、形状記憶のシャツに限られるけれど。とはいえ、洗濯機の貢献が大である。放り込んだら、干せば仕事は済んでしまう。
次に掃除。これは面倒である。絶対的に、自分の体を動かして、頭も使っていかねばならない。どうしても散らかしてしまう僕は、掃除の前に、整理整頓を少々とは言えない努力をもって行う必要があるのでなおさらである。
そして洗い物。忙しいときには、実に面倒なものだ。有機的なものなので腐るから、一定の時間が経つ前に片づけてしまわないといけないし、普通のモノとは違って、どこへでも好きな場所へ散らかしておけない。流しの近辺(流し以外の場所にも置くのか?はい。そういうこともあるのです。)だけに集中して溜めないといけない。すなわち、すぐに限界が来る。このほうっておけなさは、実に面倒な要素である。
つらつら書きましたが、この数日、洗濯と洗い物はちゃんとできているのです。これはすごいこと。
でも、片づけと掃除はできておりません。
2004.0718 日曜日
晴れ間もあり
■週末のいちにち
日中は家で勉強などしていたので、たぶん気持ちのいい夏の日だっただろうに、空模様さえ想像である。
夕方になって気詰まりだからと、モノレールに乗って立川へ出た。酷使している照明のクリプトン球と蛍光灯のスペアを買おうと思った。
電気店では、このところずっと購入を迷っている新しいアップルのノートを見物した。
色々考えると、できればパワーブックの15インチが欲しい。けれど、高いなあ。競争の激しいウィンドウズ機に較べても、けして飛び抜けた高価格でもないのだけれど。しかし、10万円くらいになったっていいのにと思う。
アップルのノートで一番ネックなのは液晶画面である。色をしっかりと、ストレスなく確認しようと思うと、今のアップルのノートはどれも暗すぎると思う。明るくすると、白っぽくなってしまうのだろうか。僕がもし開発担当者なら、絶対にOKを出さないレベルだ。もっとしっかりした明るさがあれば、僕の迷いの半分以上は飛んでしまうのだぞ。
ついでにアクタスとオリオン書房へ。
アクタスは最大公約数的ではあるけれど、まともなインテリア製品を扱っているので入る気になれる。でも、僕が一番欲しいのは、接客カウンターに客用として置かれている椅子である。それは、プラスチックの座面と、細いクロムメッキの脚でできており、ちょっと会議用の椅子のようなのだが、座り心地は、この手の簡便な椅子の中では、僕は世界一だと思っている。でも、なぜかダークグレーの座面しか見たことがない。もっといろいろ出せばいいのにな・・・・。
何も買わず。
夜、実家の母から電話。盆には帰るのかと聞かれ、すまないが帰れないと答えた。
父は、このところよく太っているらしい。Mのところでは、二番目の子が産まれたという。その他。
一度、二人して上京してきてもらいたい。そして東京見物など、親子でしたいと思っている。
夕食は蕎麦を。欲張って、どうしても1.5人分くらい作ってしまう。昨日のパスタは2人分位あったので、反省したところだった。こういうことをきちんと次回に生かして自律できる人を、僕は整理整頓のできる人同様、尊敬する。
あ、今日はちょっと整理整頓して、クイックルで床を掃除したぞ。昨日から、ちょっと前進。
2004.0720 火曜日
晴れ
■蝉その後
14日に、武器輸出禁止原則の見直しを政治家が検討しようとしている件について書いたけれど、今日になって、今度は日本経団連も軍事衛星利用の件も含めて、これを見直すべきだという話をしたという。
平和のための原則とはいえ、一律の原則を決めると、個別の懸案について考慮されなくなるため、たしかに硬直化しやすいかもしれない。けれど、こういうことが話にのぼるようになってきたことが、時代の不穏な変化を感じさせる気がして仕方がない。
どうも政治のお話は、こうして書いて出すのは気が引けるが、ようするに産業と軍事と政治が一致してものごとを動かそうというのだし、しかも国としての方針の変更を迫るものだというのだから、普通ではないように思う。「そっち」の都合から素直に提言が上がるようになってきたこと自体、僕には不安だ。たしかに、最近まで軍事面について、開かれた議論がされてこなかったことも、不安を感じるほどにいい加減だったけれど。
何事につけ、現実への追従は、理想の追求よりも優先させてはならないと思う。
この世間は娑婆と言われる。差異の世界であり、壮絶な生存のたたかいが連続し、安息にとぼしい、無常の世界だ。希求すべき理想は、たしかに明らかにはしにくいものであり、そのような時代であるかも知れない。けれど、かつて目指した平和と、それを実現するために取る態度とは、ぬかるむ娑婆の世界の中に、もう捨ててしまってよいようなものなのだろうか?次は、何をしようというのか、開かれ、熱く議論されているとは思えないし、政府もだれも、それを説明したとはいえる状況にない。
もしもこの件について、なしくずし的な進め方をしようというのなら、僕は彼らをボンクラとして済ますことはできない。今後を注視しようと思う。
またちょっと話は違うが、財界の人達は、日本が、なにによって信用されており、うまく商売をできているものか、こういうことを見ていると、実はあまりよく分かっていないのではないかと思う。奥田会長は海外事務所で頭角をあらわした方だが、こんどこそ「Japan」がリアル・エコノミック・アニマルになってしまうとは思わないだろうか。しかし、経済も不安な時代であるから、どんな議論もいとわないことが重要なのだろう。
しかし、ビジョンなんて怪しいものだけれど、方向性くらいはないと不安なものだなあと思う。
2004.0801 日曜日
晴れ
■サブゴミ箱
先週末までは、とある野暮な課題のために、それこそ全霊をすり減らすようにしばらくを過ごしていた。それがまずまずの結果で終わったので、今週は、まったく安堵で気の抜けたような、安らいだ気分で過ごした。
今日の午後、目覚めて、窓から空を見上げたら、爽やかな快晴の夏空だった。空を眺める自分のことまで、ちょっと美しく感じたくらいだった。そんな自分は、なんだか他人のようだったけれど。
会社で僕が使っているのは、東芝のダイナブックである。そのノートパソコンのデスクトップには、「サブゴミ箱」という名のフォルダのショートカットが置いてある。本体は、「マイドキュメント」の中だ。
サブゴミ箱には、中途段階のバックアップのファイルだとか、検討のために作ったラフな書類、あるいは、プロジェクトのフォルダの古くなったバックアップといった、捨てたいけれど、いきなり捨てるのも躊躇しそうなモノを入れる。
「ゴミ箱」は、入れたからといって、それらがすぐに消されてしまうわけではない。けれど、整理と躊躇の狭間に、結局ゴミ箱を使う気になれない優柔不断な僕が、いつもいるわけだ。そこで便利なのがサブゴミ箱である。
ちなみにサブゴミ箱病が始まると、増殖することもある。サーバに置いてあるプロジェクトフォルダの中の、小さなフォルダの中にも、いちいち「trash」などと名付けたフォルダが増えていく。笑えるのは、メールソフトのフォルダにも、サブゴミ箱があることだ。捨ててよいものか迷うけれど、今決めにくい。けれど、どちらかというと捨てよう、というもの。そういうメールを入れる。
これらのフォルダ内のファイルは、気が向いたら本当に捨ててしまうか、フォルダごと捨てることにしている。これは、整理下手な人の、既によく知られたテクニックなのだろうか?
超整理法という本があったが、昔その一冊をちらっと読んだら、時系列で封筒をつかって整理する方法が紹介されていた。古い封筒に入れていた書類でも、使ったら、最新の封筒に入れておく。すると、使わないものはどんどん古く、彼方に追いやられ、必要なものは手元に残っていく。
サブゴミ箱も、ちょっと似ている。けれど、これの一番の効用は、捨てることを本当に決断しなくても、保留しつつ、「仮に捨てておく」ことができる点だ。なにごとも捨てられない僕には、ありがたい存在である。仮にでも捨てられれば、もの造りの途中で発生してくる出来損ない達を僕にも分別することができる。
そういえば、戦場などで見られる医療上の見極め、トリアージのことが頭をかすめる。
トリアージの正確な概念を述べる資格も知識もないが、早い話が、深手を負った兵士の治療を優先順位にもとづいて振り分けることだ。見捨てるかどうかも、ここには入ってくる。最近の医療にも、特に災害医療の現場では、常識になってきたもののようだ。一般の医療現場でも行われているのだろうか?それはよく知らない。
トリアージの現場でも、きっとサブゴミ箱が欲しいに違いない。けれど、治療を待つ人は、それを許さない。だから、治療か放棄かといった判断をするためには、それなりの訓練が必要になってくる。そこにトリアージが成立する理由ができてくるのだろう。逆に、サブゴミ箱は、そんな作業の難しさと、一時保留にして蓋をすることの簡単さを可視化している。
日記を書いているのは、使い古してきたパワーブックG3。こちらのデスクトップには「Sub Trash」がある。開いてみると、懐かしい写真のデータが入ったフォルダがひとつあった。これだけは、なんだか本当に消してしまうことができなかったのだろうか?どうして残してきたか、消そうとして消せなかった、そのときどきの思いのほうが、いつのまにか記憶から消えていることに気付いた。そして、その記憶のほうに、ほんとうはそれぞれのドラマやエピソードの機微がふくまれていたということにも。
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