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Diario
日々の記録
2003.0811 月曜日
晴れ
■4度目のカブールへ
午前11時半の便で、出張の途に就く。成田までの道のりや、搭乗までの余裕の時間を見ないといけないが、このために5時台には家を出ないといけなかった。大変疲れる。
飛行機は最初の経由地、バンコクへ。ここで数時間をつぶして乗り継ぎ便はパキスタンのカラチに飛んだ。インド洋に臨む、巨大都市である。
今日はここで一泊。
2003.0812 火曜日
晴れ
■ひとりの気分
午後、カラチからイスラマバードへ移動する。夏はさすがに暑い。
パキスタンは、日本との時差が4時間。大したことがないように思うが、疲れもあってか大変眠い。ホテルを出ることなく過ごす。
ほっとしながら、それにしても、ひとりになれる時間とは貴重なものだと思う。学生の頃や設計事務所時代は、ほとんど切ないくらいにひとりで過ごしたものだ。
大勢だったり、特定の人だったり、誰彼とともに生活の時間を過ごしていくことが、今は多くなった。けれど、僕がまだ愛着を感じているのは、かつてのひとりの時間のほうだ。
ひとりになりたいというのではなく、あのようなペースや自由さ、あらゆることに対する、じっくりとした確認と現実感というのか、そういうものを大事にしたいということだ。
忙中閑有り、というが、いちいち切り替えの遅い僕には、これは遠い境地である。せめてはこころの基底に落ち着きを置いて、抵抗というだけではない詩心のようなものを持ち続けたいと思う。そうすることができれば、僕は日常の猥雑さにいちいち反撃することはなくて、詩心でそれらを包むことができるだろう。
猥雑を忍ぶことに美徳をみいだすのでなく、それに詩心を、常に優先させていきたい。
そうした気持ちは、ひとりの気分のなかにしか根っこをもてないように思われる。
2003.0813 水曜日
晴れ
国連機でイスラマバードからアフガニスタンのカブールに入る。4度目になる。
飛行機はカブールの手前でよく揺れた。あらあらしい岩山が飛行機と同じ高さで聳えているので毎回怯えてしまうけれど、そこまで来たら、カブールの盆地に入っていくのだ。
たったひとつきぶりなのに、カブール空港にはターミナルビルと搭乗タラップを結ぶ構内バスが走るようになっており、ターミナルビルのロビーには売店などが入っていた。表に出れば、以前は厳しくコントロールされていたのに今はまったく自由になったのか、タクシーの勧誘でわいわい賑わっている。
ここでまたしばらく過ごすことになる。からりと乾いた空気、熱い日射。
夏の果物をそこここに認めながら、車で市内へ向かう。これから始まっていく仕事に対して、若干のおののきを感じながら、いましばらくは、市内の往来と人々の表情がどうなっているかに目を注ぐ。
2003.0814 木曜日
晴れ
現場のいくつかを回る。しばらくぶりなので、いちいち挨拶をする。
日中乾燥していて、そこそこ熱いから、仕事を終えたら、もうビールが飲みたくて仕方がない。
今日は2本飲んだが、こういうのが毎日続くとどうなるか。
腹筋を毎日すること。と、約束したことを思い出した。油断すると腹が出ているんだそうである。
2003.0826 火曜日
晴れ、一時砂嵐
■死が空疎になるとき
おとといの日曜日から、また日中の停電が始まっている。予告など無い。この春から、宿舎などではほとんど停電なしで過ごせていたのだが、このまま停電がつづくのではと残念というか不安というか。
宿舎は水も出なくなる場合があるが、少しだけなら屋根裏にあるらしい貯水槽の水でなんとかなる。しかし、止まった冷蔵庫の中には肉も入れてある。腐る前に、早く食べてしまわないといけない。
8月19日、イラクの国連事務所が爆破される事件があった。もう一週間経ってしまった。
事情は全く異なっているので、同じ戦後復興を課題とするアフガニスタンであっても、僕がこれに直接の脅威を感じることは、治安上はない。
しかし、いたましいことだ。被害に遭い、犠牲となった方々。そしてこのようなことを仕掛けた人間のいのちのいたましさはなんだろう。
国連は、ここカブールではとても身近な存在である。大型の4輪駆動車の何割かは国連の車だから、町中で「UN」の青や黒の文字をみかけることのない日は、決してない。
施設もたくさんある。厳しい確認を経なければ、施設内にはいることは難しい。けれど国連の職員・スタッフたちに、すべて護衛がついているわけではない。はっきりいって、外に出れば、だれもが丸腰である。しかし、それが危険だろうか?狙われなければならないのが異常なのだ。頻繁には被害を聞かないが、おもに地方部では危険は増す傾向にある。
アフガニスタンはともあれ、イラクでは何事も別格と考えなければならない。国連はもちろん、赤十字だって、歴史の中でかなりの数の犠牲者を出してきているが、どんな機関や組織からであれ、今回イラクに乗り込む人は覚悟がいるし、乗り込ませる組織は、万全の「防衛」措置を講じなければならないと思う。ただし、つまるところ、彼らは軍隊ではないのだから、どこまでできるかというと、今回のような大がかりの爆弾などが仕掛けられてしまえば、どうしようもない。
こうした爆弾による破壊・殺人行為を、テロと名付けて分類し、分かったような気持ちになるのは危険なことだと思う。なんでもテロと呼んで安心してしまったら、その時、この世間にうずまいている怨恨や矛盾は無関心の元に遺棄されてしまい、人間としての想像力は空疎なものになっているとは言えないか。
僕は、そうした空疎さが怖ろしい。そのような空疎さを感じなくなっていたら、それはもう狂っていると思う。
2003.0901 月曜日
晴れ
■不安は潜在しているか
残暑が続いているが、秋の入り口にあるカブールの朝晩はごく涼しく過ごしやすいと言っていい。今日は快晴だったので、日中は町中明るく、暑くなった。
関東大震災から今日は80年。関東全域と静岡、山梨に震火災の被害があり、全体で焼失戸数44万7128、死者9万9331、罹災(りさい)人口340万余、とは、マイペディア(1999)の記述である。ちょっと古い資料であるが。
この震災のことは、よくは知らない。ただ、甚大な被害のことそのものよりも、このとき流言のために虐殺された6千人もの朝鮮の人々のことをいつも思う。正確に言えば、虐殺が行われた事実について考えてしまう。
実際のところ、この虐殺はたんに流言で自然発生的に行われたものとは言えないようである。そのこと自体には、僕は慰められる。けれど、震災後に発令された戒厳令下で、警察は自警団を組織させ、これによって結果として朝鮮人、中国人を不逞の輩として虐殺をもって弾圧したという。先日読んだ新聞では、日弁連が当時の警察等の責任について調査することにした、との記事があった。
世の中に不安が起きると、これに乗じて犯罪的な行為がまかり通る場合がある。現代の日本では比較的起こりにくいかも知れないけれど、僕自身は、日本のどの地域も、ほんとうはそんなに信頼度の高い社会ではないと思っている。(この思いは協力隊の体験以来、ずっと補強され続けている)さらに、僕の訪れたことのある国や地域は、日本よりも信頼度はいずれもかなり低く感じられた。
けれど、どうも(日本の)世間一般では、その点について恐怖のようなものを感じている人は少ないのではないか。「世間一般」とは乱暴な言葉だが。
普段あたりまえに、平和に暮らしていること。これは、ほんとうは相当に高次の安定のもとにあって成り立っているのだと思う。関東大震災のような大きな揺さぶりがあったとき、この安定が崩れないとは限らない。
かつての日本と、現代の日本は、同じ社会ではないけれど、しかし少なくとも、あのように私が、私達が残虐な行動をしうるのだと想像してみることは大切ではないだろうか?
毎年の9月1日は防災の日だが、人心と社会における残虐化への備えに対して、我々はどこまで見つめているだろう。殺されるものの論理に対する想像力と、自らを信頼する根拠の、実は意外と脆弱であることへの直視とは、物理的な被害だけで終わらない天災や戦争などが起こったときには、いつも必要とされるものではないだろうか。
そうしたことに無頓着な人が多いに違いないと想像すること。ほんとうは、これが僕には怖ろしいのだ。実際はどうなのか。いろんな人に聞いてみたいと思っている事柄である。
たしかに阪神淡路大震災のときは、人間の残虐性ではなくて、暖かさや強さが発見されたけれど、それが、どんなときも人間がそのように生きられることの証明になったわけではないと思う。
さらに付加的に考えてみる。
大げさではなくて、今の僕には、世の中の安定を守っているものが、ひとつひとつ、世界中で破れていっているという不安感がある。イスラエルとパレスチナ、北アイルランド、最近までのスリランカ、そしてインドとパキスタン等々、不安定は敵の責任であるとして暴力の応酬が続けられている地域は少なくない。不安は、どの場合でも、相手を殲滅したり、支配することで解決しようとすれば、かたちを変えて存続し、けして根っこがなくなることはないというのに。また、無頓着、すなわち平和呆けも、現実に進行しつつある不安定への抵抗力を奪ってしまうものだが、これに対抗して自覚的になることとはどういうことかというと、よく分からない。
どうあれ、これはリーダー達だけに委せておくことではない。民衆などと呼ばれる人々、ひとりひとりの意識が問題とされるべきだろうと思う。結局はひとりひとりが醒めた人間とならなくては、大波のように押し寄せる不安に勝って平静を保つことは困難だろう。
2003.0902 火曜日
晴れ
今日も快晴。
見かける野菜の移り変わり。
町の往来は、相変わらず男ばかり。でも、すこしずつ、すこしずつ、女性の姿が増えてきている。女性が家庭からなかなか外に出ないのは、基本的にはイスラムの習俗(?)によるものだが、この習俗が現代でもよく守られていることは、驚異的な現象ではなかろうか。これはアフガニスタンだけではなく、パキスタンもそうだし、おそらくまだたくさんの国がそうであるに違いない。
2003.0903 水曜日
晴れ
■やりとり随想
快晴は続く。
現在、現地におけるプロジェクトの管理を実質ひとりで行っているので、てんてこまいだ。
他の人達の働きを見てきたので、少しずつ学習したけれど、まだまだだと思うことばかりである。
当然ながら、どんなプロジェクトであれ、グループで取り組み、さらに外部との付き合いの中で進められていくのだから、自分と繋がる人々や組織、それぞれについてのやりとりについては、あらゆる観点からいちいち的確でなければいけない。しかし、これが実際骨の折れる、神経の使う部分だなと感じる昨今。
内部のやりとりのほとんどと、プロジェクトにかかわる外部とのやりとりのほぼ全てが、僕を仲介するのだから当然である。
カブールでは蟻をよく見かける。ずんずんと流れる行列が、建物の壁などに見られる。
よく見ていると、流れは一方通行ではなく、往来があって、行くもの帰るものがすれ違っている。
しかし、さらに見ていると、おもしろいことに、どの蟻も、すれ違うもの同士、触覚を触れ合っては挨拶のような会話のようなやりとりをしているように見える。
相当なスピードで歩いているけれど、よほどでない限り、「ありさんとありさんが、こっつんこ」の状態で、いちいち何か伝えあっているのである。
これを自分の会社の中での風景になぞらえて空想してみると面白い。出会う人で会う人、廊下や階段、エントランス、みーんなで挨拶をしあっているのだ。おそるべき早口で、挨拶とひとことの伝言をしなくてはいけない。大変である。
そういえば挨拶って、日本人はおろそかにしがちな気がする。実際の付き合いはどうあれ、大抵の国の人々は、いつも会っている人とでさえ、毎回丁重な挨拶を交わす。握手や抱擁やキスをしながら、ねぎらいの言葉なども添えて、ちょっとした時間をかけて行われる、それはなるほど丁寧なものなのだ。中国だったか、友は、姿が見えたら立って、親しいものでも遠方からはるばる来た人と同じく、手厚く迎えるべきである云々と。
これは時間の無駄ではない。蟻の如く、丁重なる国の人の如く、骨は折れるが挨拶ややりとりは大事にすべし、なのだな。
こんにちは、あなたに平安を。おげんきでいらっしゃいますか?いかがお過ごしで?いや、私はまあそこそこやっております。ありがとうございます。いえいえどうもどうも。(この間、抱擁するか、ずっと握手しっぱなしで、双方やさしーい笑顔)
(アフガニスタン風)
まいどどうも、ごぶさたで。どうでっか?もうかってまっか?え?いやあ、そんな、おたくには叶えしまへんわ。うちはまあ、ぼちぼちいうとこでんな。いやー、そやけどなんですな、阪神はほんまに優勝しまんのかいな。いやあ、ほんまにしんじられまへんなあ。え?おたくもそうでっしゃろ?そうでっしゃろー。せやけど、阪神優勝で、このままどーんと景気がようなったらよろしおますなあ。わっはっは。(これでも長いようだが、間にちゃんとあいの手も入る)
(大阪商人風)
2003.0906 土曜日
曇りのち雨
■箱が必要なとき
1年がかりでやってきた仕事。今日は、それを引き渡す日だった。プロジェクトはいくつもあるが、そのうちのひとつである。作ったものは、学校だ。
学校にとって、最も重要なものは教育そのものであることは疑いの余地がない。建物は、それに較べたら、どうこういうほどの重要性を持たないのかも知れない。
しかし、実際どうであろうか。例えば、あまりにも粗末な家では、生活のレベルはすさんでしまうだろう。同様に、せめて守るべき施設のレベルというものが、学校にもあるのではないか。
内戦でいたく荒廃したカブールでは、ときおり名門の立派な学校も見かけるものの、ほとんどの学校は大きめの古い邸宅を利用した、非常に粗末なものではないかと感じている。邸宅といっても、日本人から見れば、くずれかけた廃屋同然であることは珍しくない。そんな学校が多いのだ。
また、学校数に較べて圧倒的に子供が多いため、2部制、3部制にしているところが多い。
公共水道は一切無いから、どの学校でも手押しポンプで井戸水を引ければいい方である。
規模や様式はどうであれ、このような現状では、予算等のバランスを整えたうえで、望みうる学校施設を新に作ることは、大切なことだと思う。
建築にかかわる人間として、建築行為そのものを、たんなる経済活動の一環としてだけ見るような、やすっぽい認識には振り回されたくない。けれど、箱もののばらまきと揶揄される可能性があることもよく分かっているつもりである。
今回、カブールのような都市に来て、この仕事を通して感じたのは、揶揄する余地を考えるまでもなく、切実に施設が必要な場合があるのだということだった。
カブールの子供達にとって、いま一番の楽しみは、偏見や掛け値なしで、勉強であると言える。学校へ行き、おもいっきり勉強することだ。
全ての子供が、望ましい環境のもとで勉強できることが理想だが、ここではそれは背伸びしすぎた希望に過ぎないかも知れない。でも、とにかく、このまま平和になって、学校で好きなだけ勉強する幸せは、なんとか守られ、育っていって欲しいと思う。
教育は、将来を背負う人間の養成をすることだけに値打ちがあるのではないはずだ。勉強する歓び、目を開いて、希望とか哀しみとか、そういうものを知っていくこと。それ自体に、かけがえのない価値があるのだと思っている。その意味で、教育は手段ではなく、目的そのものだといえないか。
成長してからやがて来る、人生の山での幸せだけが、ほんとうの幸せだろうか。子供の幸せは、それまでの仮の幸せなのだろうか。そんなことはない。人生のどの時期であれ、それぞれが尊いのではないだろうか。
まあとにかく、せっかくできたんだから、学校は大事に使ってね。
2003.0909 火曜日
晴れ
■ミニゴジラの旅立ち
妹が、ニューヨークへ飛んでいった。大好きな京都での生活に、しばらくの区切りをつけて。
今回のニューヨーク行きがどのような位置づけとなるかは、後で決まる。楽とは言えない修行になるだろう。ニューヨークがどんなところかは知らないけれど、最高のものも、最低のものも、そうした人間達もいるところだ。きっと、ものや人間のことを、より深く、広く知ることができる、そんなきっかけになるだろう。
それは、鞄のデザイナーという枠や、人間という大きな枠、それぞれにとって言える体験になるはずだ。
おとんもおかんもまだ元気。
子供達は心配のかけ通しになっているけれど、もう少しの間、大目に見て下さい。
妹よ、みんな応援しとるから、楽しんで、がんばってきいや。
2003.0911 木曜日
晴れ
一昨日の9日。アフガニスタンは祝日だった。
祝日というと、おかしい。2年前の9月9日は、北部同盟と俗に言われる反タリバン同盟の指導者マスードが、刺客によって爆死した日である。
昨年、今年とつづいて、アフガニスタンは国を挙げるかたちで彼の死を悼む日をもうけた。それをよしとしない人々もたくさんいるのだけれど・・・
あの日のちょうど2日後、アルカイーダのメンバーと目される男達によって、4機の旅客機がアメリカでハイジャックされ、ニューヨークのWTCへ突入するなどし、多くの命が失われた。今日はあれから2年がたつ。
アフガニスタンにとっては、ロシア侵攻以後の混乱と内戦やタリバン時代、またマスードの死やアメリカでの同時多発テロ、その直後の米英からの攻撃とタリバン以後の現在、それらはみんな繋がったストーリーだ。
僕は、日本人で、しかもぼうっとしているから、不景気が続く中、同時多発テロ以来、とみに世の中がおかしくなってきたような気分でいる。
カブールは平静に思える。平和でよかったと思う。けれど、じつは地方部では、たんに襲撃などといって済まされない、まさに戦闘が行われているのだ。死人も怪我人も出ている。
僕が、こうしてつべこべと書き連ねたからといって、どうなるものでもないけれど、9日のお休みのいちにちを過ごす中で、複雑な気持ちにならざるを得なかった、そういうことを言いたいだけなのだ。
さて今日11日は、危険だと言われていても、休日ではない。それこそ、へとへとになるまで働いた。
周りを見ていると、だれもが一生懸命働いているようだ。
これだけみんながんばっているのだから、これらがぶち壊されることのないようにと祈る。
なんだか妙に散漫な文になっているけれど、このままにしておく。
2003.0912 金曜日
晴れ
■インクジェットセラピスト
今日も快晴。仕事があるので、しかたなく事務所へ出る。ひとりだけの作業をし、明日必要になる簡単なパンフレットを仕上げて印刷しているところだ。A3で50枚。大した数ではないのだが、インクジェットのプリンターを使うしかなく、そのために大層な時間がかかる。
中途半端な手待ちの時間は、友人へのメール書きに当てる。一通は、チリに住む友人へのものである。
彼女は同じ協力隊の仲間だったのだが、チリは初めてだ。だから、ちょっとした観光情報なども入れる。
こういうとき、当時日記をかなり綿密につけていたので、なかなか役に立つものだと思う。
ハードディスクからブラウザで日記を呼び出し、旅の記録を選んで読む。
あのころは、生活自体をそのまま写生するような気持ちで書いては残していた。今だって、ほんとうはそうしたいと思うけれど、仕事とのかかわりの部分は明確に区切りをつけないといけないので、そうはいかなくなっている。当時の文章を読みながら、好きなことを、好きなように書いていることを読みとって、なんだか羨ましい思いがする。
こうして何年も書くことを続けているけれど、文章はどうだろうか。うまくなっているだろうか?ときどき、気になることがある。
いま読み返してみて感じるのは、あのころの文章の方が読みやすく、なによりもみずみずしいということだ。
技術的なものも、べつに伸びているというわけではない。ただ言えることは、こんな日記の中で書けること、書けないこと、書いてはいけないことの線引きだけは、この間に分かるようになったというだけだろう。
金曜日。休日のカブールの住宅街は、とても静かだ。そうこうしているうちに、もう夜になってしまった。
事務所の中では、あいかわらずプリンターがマイペースで動いている。ちょっと見たけれど、50枚が揃うのには、まだしばらくかかりそうである。
2003.0916 火曜日
晴れ
■ヘアーについて
ヘアーという言葉には、どうも日本的で淫靡な婉曲表現の響きがある。
今日、こちらのムスリムの人と話していて、僕は初めて知ったのだけれど、イスラム教徒たるものは、その、ヘアーは剃らないといけないものなのだそうだ。
これには、驚いたというか、たまげた。
ついでにいうと、脇の毛も剃るものである。
実際、東南アジアのひとはどうだろうか?豚を食べない、とする決まりよりは、ほんとうはゆるやかなのではないかと思うのだけれど。
日本に行くことがあったら、是非銭湯へいくことを、彼にはすすめた。大抵の日本人が、こちらのムスリムとは違って、至極丁寧に髭は剃る癖に、他の毛は伸び放題なのだから、きっとびっくりするに違いないよ、と。
女性についてはどうなのか聞かなかったが、ともかくも、考えてみれば毛を剃ろうという発想は分からないこともない。教義的な意義は知らないけれど、こんなにしょっちゅう手を洗ったり足を清める人々である。毛だってきちんと剃ったり整えたりして威儀を正し、浄い状態にするということなのではなかろうか。僕は十分理解する。
しかし、ただでさえ濃い顔なのに、さらに髭をたくわえておいて、ほかはすっきりつるつるっていうのは、どうにもこうにも。想像してみて下さい。
文明は衝突するんだろうか、やっぱり。
2003.0925 木曜日
晴れのち風
■細木先生のこと
大阪の片田舎の中学校に、僕は通った。
もういまから20年も前のことになる。
当時は、校内暴力が盛んだった。まだ登校拒否とか、ましてや不登校という言葉は聞かない頃である。ご多分に漏れずというか、僕の学校は他校にも増して荒れており、1年生の頃は、何度か上級生が授業中に「参観」に現れることもあった。
その頃、不良たるものの学生服は、上着では今では懐かしい「長ラン」とか「中ラン」などと呼ばれる、長くてでかい、あれであり、ズボンなどはほとんど袴のごとき太さだった。上着の裏地は紺やえんじ色のサテンで、それぞれ趣向を凝らして龍やらなにやらが踊っていなくてはいけなかった。この上着はもちろん詰め襟である。かく言う僕も、2年生くらいから、ちょっとだけそれっぽいのを着ていたものだ。女子生徒もやはり長くてドスの利いたファッション。スカートは長いし、中学で化粧をしていると目だった時代である。今では余り見ないセーラー服だが、そのリボンだけは、そのころから小さく結ばれていた。
中学生といえば、まだ子供に過ぎないが、当の子供は思いきり背伸びをしているし、一人前を気取っているものだ。小学校を終えて、どきどきしながら登校する最初の学期の毎日は、もう既にフレッシュな空気はまるでなくて、思春期を前にしたいがらっぽい気分で充満していた。
先生方は、元気一杯に荒れていた学校を、僕の学年から一新してやろうと、必死になって取り組んでおられたようである。今思えば、彼らはかなりハードで緊張感のある毎日を送っていたはずだ。けれどそれは、生徒を縛るよりも、情熱で勝ればついてくる式のやり方だったと言えた。結果としては、それなりに努力は功を奏して、僕らは上級生よりは逸脱することなく、しかし楽しく、中学時代を過ごすことができた。
こうしたことと、細木先生とは、じつはあまり関係ないのかも知れないが、中学の時の気分を思い出すために書いた。
細木先生は、その頃の校長先生である。校長先生の名前なんて、小学校や高校では、まったく覚えていないけれど、中学校の細木先生の名だけは、僕はどうしても忘れられないでいる。
先生は、少なくとも僕が3年生の時には就任されていた。長身で、すかっとしたしゃべり方をする方だった。もう60近かったはずで、僕の中学校を最後に、定年で退職されたと、高校の頃聞いたように思う。
先生はスポーツマンで、テニスプレーヤーだったそうだ。退職されてしばらくのころ、大好きなテニスをしていて倒れ、そのまま亡くなられた。
校長先生だから、実際、お話しする機会などはまず皆無だったのだが、一度だけ、二人きりになって話すことがあったのだった。何のことはない。高校入試の為の、面接試験の練習である。
面接模擬試験のかたちであったから、志望の理由などを述べなくてはならない。あのとき、ぼくが何を言ったのか、全く覚えていないけれど、おそらくなにがしか、かっこいいことを言ったのではなかったか。世の中のためになる人間になるとかなんとか。
校長室の応接セットに向かい合わせで座り、僕がひとしきり話し終わるまで、先生はほとんど何も言わなかった。しかし、最後に彼が言った一言が、いまも忘れられない。
「えらい!」
言葉というよりも、声と言った方がいいかもしれない。
あるやなしや知れぬ、ひとりの子供の言葉を真剣な顔で聞き、最後に、大きく、はっきりと言われたのだ。僕はびっくりしてしばらく呆然としたものである。
あれは、ほとんど剣道の面を、突然、一発見舞われたような、そんな気分だった。視線の突き刺さるまま、そこから先生の声が打ち込まれてきた。
いまとなっては、なにが偉かったのか、まったくわからないのだけれど、ときおり弱気な気分になったとき、「なにくそ」と立ち上がろうとするときに、必ず細木先生の「えらい!」が響いてくる。そのたびごとに、何が偉いのか、やっぱり分からなくて困ってしまうのだが、頑張れとかなんとか、くどくどといわず、いきなり「えらい!」と響く。その声に、その瞬間から僕は、毅然と正面から打って出る姿勢に変わるきっかけをつかむことができる。そんな気がしている。
陳腐に聞こえるかも知れないが、僕は高潔で毅然たる人格が好きだ。しかも孤高を気取らず、人間の中で凛としたものを与え続ける人が好きだ。
僕は、細木先生の人格を知らないけれど、20年を経てなお、彼の「えらい!」が、そのような人格でしか発せない響きで、たびたび僕のこころを打つのを感じる。それは、仕事の失敗であろうが、将来へのおののきであろうが、なんにたいしてであれ、厳しいけれど、しかし、僕はそこから自分を信じて、同じように凛として立ち上がることができるだろうと思えるのだ。
細木先生は、えらいひとだったのだな、と思う。
かわることなく、時折、声をかけ続けて下さる先生のことは、いつかここに書いておかなければと思っていた。
直接お会いして、感謝申し上げる機会は、もう永遠にない。だから足りないけれど、ともあれ感謝のかわりに。
2003.0930 火曜日
晴れ
■ヘアーの補足
さて、前々回、ムスリムたるものヘアーは剃る、と書いたけれど、さらに補足である。
聞くところでは、ヘアーは15日ごとに剃るように、との教えがあるそうだ。
神の言葉をおさめたのがコーランだが、預言者マホメット自身の言行を集めたものはハディースという。このハディースに、ヘアーのことが触れられているのだそうだ。
ハディースには、ほかにも生活について述べられた部分がたくさんあるそうだが、例えば手を洗うことにかんして規定していたりもする。おもしろいのは、食事の前には必ず手を洗い、そしてその手は、けしてハンカチとか、そういうもので拭いてはいけない、とされていることだ。もしも拭いてしまうと、せっかく清めた手に、あらたにばい菌やら寄生虫の卵をつけてしまうかも知れないということで、科学的に効用が証明されており、なるほど有用なものと再認識されている、とのことだった。手で食べるのが習慣であれば、これは実際守らないといけない。いつも消毒された布を用意できるわけではないからだ。
このように非常に実用的な実践の規範がたくさん詰まっているのだ!というのは、イスラム教のひとつの自慢である。宗教として演繹的に、いろんなものへと応用の拡がりが見られるうえに(?)、真摯にそれらの体系化を徹底していく。実際、かつて膨大な民族の間で、イスラムの下に学問はじめ壮大な交流と発展を行うことができたのは、このへんの精神にあったのではなかろうか。
さても、剃ったヘアーの後は、いかがなものなのかというと、剃った後、数日後、ちくちくと痒いそうである。
・・・・・・・・。
それから、剃ると精力が増すという調査結果もあるらしいぞ、とも聞いた。ただし、これはまゆつばものではなかろうか?実際は未確認の俗信と思われる。普段は剃らない日本人が実験すればどうか、と考えるけれど、自ら実験するほどの勇気は持ち合わせていない。
以上、あまりに俗っぽい触れかたなので、正直不謹慎なことを書いたものだと思うが、あえて興味の赴くままに。ムスリムの方には申し訳ない。
文明の衝突、といっても、紛争、とは言われていない。善意にとらえて、衝突とは、衝撃的な出会いのことであると考えてはどうか。
日本人だって、つい100年ほど前までは、かなり衝撃的なヘアスタイルと言える「ちょんまげ」をしていた。日本にはいまでもたくさん、インパクトのある文化があるはずだ。
いやきっと、世界中、たくさんの衝撃が、まだまだあるのに違いない。衝撃は、たんに大きな差異があれば生じるからだ。このあいだは、文明は衝突するのかもしれないと書いたが、いやいや、文明は衝突を待っている!
蛇足だが、日常では、衝突みたいなことよりは些細な違いに起因する軋轢の方が、普段仕事をしていて苦労することが多い。これが正直なところである。しかし、だからといって、違いがなくなってしまえばいいとは短絡しない。あきらめて我慢するか、お互い譲歩するか、あるいは強いて許容すべしである。要するにお互い様だもの。そしてそれは、全く可能であるというのが実感だ。
もしも違いをなくすために、全て先方に譲歩せよと要求したら、これはつまり、紛争となる。しかし文明の紛争は、ありえない。すなわち既に文明ではなくなってしまうからだ、と思いたいのだ。
衝突しないのが文明だ、と言ったのは、じつは誰かというと、誰あろう、アフガニスタンのカルザイ大統領である。つい先日の国連総会のため渡米し、向こうの大学で講演したときに、彼はそう述べて喝采を浴びたそうだ。
大国間の軋轢の間で、塗炭の苦しみを味わい続けた国の人の言葉だ。言葉遊びと軽々に聞くべきではない。
文化と文明が混同されたかも知れないが、そうはずれてもいまい。文明は衝突したとしても、もはや紛争できない時代になったのはたしかだ。
そんな時代なのだから、先人の築いた文明にあぐらをかいて紛争の起きるままにするのでなく、文明的にお互い進化してみたいなと思う。
ヘアーの揺れる毛先が、かくも文明論になろうとは。針ほどのことを棒ほどに言うとはこのこと。ヘアーほどのことを文明論にする。ちょっとこじつけですか。
お休みなさい。
2003.1006 日曜日
晴れ
■道頓堀川
できることなら、毎日の仕事は落ち着いた気分で終わりたいものだと思う。けれど、実際、おしまいをそう優雅に飾れる日はないものだ。
この10日ほどで、カブールはほんとうに秋になってしまい、入り日もあっけなく、5時半頃には暗くなるようになった。
今日の夕食は、通称でジャーマンレストラン、と呼んでいる店でとった。店に着いた頃には、すでに結構な賑わいになっており、高いけれど気の利いた食事と、ちょっとうまいビールと、カブールでは例外的によく訓練されたウェイターがいて、気分良く楽しむことができた。まずまず、満足だった。
帰宅後、日中の停電が終わっているのを確かめて、宿舎で読書。数日前から読んでいた、宮本輝の「道頓堀川」を読み終えた。
彼の作品は好きなので、文庫で出ているものは、ほとんど全て読んでいる。かなしいかな、そういうことで新刊は、常に読んでいないことになるのだが。
「道頓堀川」は、再読である。買った本には、たいてい日付と名前を鉛筆で書き込んでいる。平成6年発行の新潮文庫には、「十一月十六日'96」と、縦書きで書かれてあった。最近は、いわゆる「積ん読(つんどく)」なので、日付は購入日にしているだが、このころは読了日だったかどうかは覚えていない。けれど、あの頃のことを思い出せば、僕はきっと買ってすぐ、この作品を一気に読んだはずである。
宮本作品を好きな人のなかには、この「道頓堀川」を含む初期の作品群に特に惹かれるという人は多いかと思う。僕もその一人だ。そこには、宿命と呼ぶしかないもののなかで生きる人間達の哀しみが描かれている。そうでありながら、安っぽい諦念や同情や美化のようなものはしらじらしく感じられるほどに、それぞれの人間達の姿がしっかりと描かれてある。
僕は、日付をつけた96年頃、そういえば、これら初期の宮本作品を一気に貪るようにして読んでいた。苦しい時期だったのだ。当時、僕は27歳だったのだけれど、僕は僕なりに、様々な悲哀を抱えたり、乗り越えたり、押しつぶされていく人々の姿を見てもいたから、宮本作品の持っているものは、安物の嘘ではなく、現実にも耐えるものだということを感じていた。
僕は、この日付をつけた翌年の5月、97年の誕生日に、勤めていた設計事務所を退職している。
退職の前年、96年も押し迫った頃は、初めての大きなプロジェクトにかかわり、今思い出しても一番忙しく、容赦のない時間を過ごしていた。あのとき、どんな仕事や境遇でも、期限のあるもの、終わりのあるはずのものならば、いたずらに悲観して嘆かず、その期限に希望を持って時を待つことを学んだ。そういうものならば、たいしたことはないのだ、と。せいぜい頑張るだけなのだと。
95年、26歳の頃から、僕はそろそろ、ちゃんと人生の方向性を意識しようと思い出した。高校生の頃から、30歳までをひとつの区切りに、その方向性とやらをつけていこうと決めていたのだけれど、さまざまあった26歳の頃、その思いを実際にしていかなければ、と本気になったわけだ。以前書いたけれど、そうした思いを確認できたのは、当時足繁く通ってくれたKに背中を押してもらったからである。また、この日記にもたびたび方向性について書いているのは、あの時の気分をとどめて忘れず、そのときどきに確認していきたい気持ちがあるからだ。
さて蓋を開けてみれば、そのあと職場の環境が悪化し、僕は退職をもって方向を自律的に定めることを余儀なくされてしまった。不安や焦燥にあって、自らの傍系を見るような思いで、僕はあの当時、この「道頓堀川」などの作品を読んだのだ。
少々かっこよく言えば、「道頓堀川」や、「泥の河」、「螢川」に描かれるような、背景となり鏡となる川を、僕はあのころ、これらの小説にもとめていたのだろうと思う。小説の中で、川は救済の意味など全く帯びていない。人間達のいのちの奥の、その深淵の不思議さを確信させながら、ときにねっとりと汚辱にまみれて黒かったり、儚いネオンの反射を孕んだりしつつ、環境ごと包み込むように、そこに生きる人間そのもののように、物語の基音としての役割を担っている。僕も、自分の中のおそれを、そのような基音の上にまかせたかったのだろうか。
この11月が来れば、「道頓堀川」に日付をつけて7年が経つ。振り返れば、僕は30歳には目指す方向に自分を向けることができたし、今、それを延長する作業をできていると感じている。
宮本作品の登場人物ほど、僕は悲哀を抱えてきたわけではないけれど、僕のための「川」があることを、彼に教えてもらいながら、不思議にここまでくることができたのだ。平凡だけれど、おもしろいものだ。
作家がこの作品を書いたのは、30歳そこそこだったはずだ。彼自身の来し方や、彼の周りをとりまいた人々と、彼らへの共感や同苦、洞察が、どれほどのものであったのか、僕には脅威に思える。そうでなければ、このような小説は、けして書けるものではない。
2003.1015 火曜日
晴れ
この土曜日、僕はカブールを発って東京へ戻る。引継を急いで終えなくてはならない。
このところ、食事はずっと外食続きだった。ビールのいっぽんも飲んで宿舎に戻ると、全く起きていられない状態。まだ9時であっても、同じことだ。そのまま深い眠りについてしまう。これは高度1800メートルのなせる技なのだろうと思っているのだが、ほんとうなのかどうか。
そろそろ冬が訪れようとしている。
下着を着て長袖のシャツを着ていても、それだけでは日中でも寒くなってきた。布団は暖かくありたい僕は、もうすでに毛布の下に寝袋を使っている。
水力発電の水資源が乏しくなる冬は、停電時間が長くなる。実感としては、停電という言葉さえおかしく感じる。電力供給時間というべきだろうか。停電の方が通常のことなのだから。ともかく、電気のある時間は、既にして短い。カブールでは、こんなことにも季節感を感じてしまう。
2003.1019 日曜日
晴れ
■泥の河・螢川
昨日、カブールを発った。イスラマバードへ向かう国連機では、任期を終えて帰る日本のNGOの方と一緒になった。この方は看護師である。3ヶ月働いて、後任の方と交代したということだった。協力するために来ているけれど、その実、協力してもらうことの大きさに気付いたという点で、僕の協力隊の経験と重なるところがあって共感した。
イスラマバードで昨晩の宿をとり、今日の夜、日本への便に乗り込むことにしている。
予約していた宿は、サウジアラビアのアブドゥラ王子の訪問団のためにキャンセルされてしまい、しかたなく変更させられてしまった。首都ならではであろうか。
宿では久しぶりに独りの時間を堪能し、少々読書もできた。そのなかで再読した一冊が、宮本輝の「螢川」だった。
こちらに付けた日付は、前に書いた道頓堀川のものより僅か1日だけ前である。「十一月十五日96」とある。
「泥の河」も数日前に読んでいた。これは幼年期の作家の記憶をたよりにしたものとされている。「螢川」は思春期を、「道頓堀川」は若い青年時代への思いをたどっている。これらがいわゆる「川三部作」である。発表もこの順序によっている。彼の最初の受賞作「泥の河」は太宰賞だった。77年、弱冠30歳のときである。「螢川」は翌78年。こちらは31歳で芥川賞の受賞をもたらした。
受賞は、作品の質を語るときには、本来日記でどうこういっても仕方ないけれど、作家のそれまでの苦労と不安の日々という、彼自身の物語においては、やはり大きなできごとであった。
のちに書かれる「錦繍」は、巷の評判どおり、僕もまた作家の最高傑作だと思っている。「螢川」は、しかし、その芽と雛形を既にして備えており、よりコンパクトで、それだけに鮮明なイメージを持っている。これもまた好きな作品だ。
小説の作法について、「螢川」を読んでいて思うところが多かった。いままでそんなことを考えたことはなかったけれど、正岡子規を最近少し読んだことが影響しているのだろうか。楽しんで批評探求してしまう。
小説には、作者の決定した物語の流れがあり、さまざまな細部があって、読み進むにつれて、作者は作品そのものを理解したり、楽しむものだと思っていた。けれど、それは少々退屈な考え方であり、おうおうにして誤りであるかも知れないとも思ってきた。今回、螢川を読んで、なるほど、もう少し違った作法があるのだなと気付いた。
宮本作品は、たしかに物語をそれぞれの作品に語らせているけれど、より噛み砕けば、登場人物そのものの人間を見せることに力点が置かれている。端的に言えば、ある条件に、その人間を置くとどのように反応するのか、その生き様への想像力と記述が力になっているように思える。つまりそれは、現実の人間の生のありかたの記述とまったく変わるところがない。
彼の初期の代表作となった川三部作では、川を背景に置いて、哀しいけれど美しくもある物語の基音を響かせている。しかし描いているのは、そこで生きる人間それぞれの、反応、生きる姿だ。物語の決定論に従って生きるのではなく、ある状況にある人間が、それぞれの宿命のなかでどのように次の瞬間を作り続けていくのかに、作品の全ての輝きがあるように思われる。その輝きは、物語のおもしろさや巧拙とは無縁の、人間本来の生の輝きそのものに由来している。
いつかのエッセーの中で、特に短編においては、ある特定のシーン、画というものを中心に据えている、と作家は語っていた。その画の前に、彼の洞察をもって、ひとりひとりの人物達が置かれたとき、それぞれの人物達はそこで生き、それが物語となるのだ。
鴨長明は方丈記の序において
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし
世の中にある人の栖と、またかくのごとし
と述べているけれど、なにか共通するものを感じてしまう。宮本作品は、そうしてみると、基本的には川のようであろうと思う。川を描き、そこに一滴一滴の人間を描く。おそらく、彼ならば、あたうかぎりの能力で、また違った人物をその中に置いて、また新しい物語を描いてみせることができるだろう。異なる川と異なる人間達が入れば、彼の人間そのものへの想像力の許す範囲の周辺で、物語は語られ続けることができる。
川は、物語の鏡であろう。しかしまた、人間はそれ以上の反射を、状況の中で見せることができる。様々な水面の表情は、無数の波のかたちと煌めきによってかたちづくられる。それぞれの波は、人間そのものである。さらに、見えない水底を思い描くことも、また人間にはできる。
螢川では、作家はしかし、煌めきを積極的に描くことはない。むしろ逆であるかも知れない。
一滴だと透明なのに、むつみ合うと鉛色になる
冬の越前の海を、作家はこう書く。
また、冒頭では富山の雪景色を次のように描いている。
雪は朝方やみ、確かに純白の光彩が街全体に敷きつめられたはずなのに、富山の街は、鈍い燻銀の光にくるまれて鈍く煙っている。
道頓堀川も、また泥の河で描かれる安治川も、富山の雪や越前の海のように、みな淀んでおり、ときに澱でしかない。人間も、あるものは美しく、あるものはきたなく、本性のままに反射を見せているが、その表面の奥には、語られ尽くせないそれぞれの物語が詰まっている。僕は、人間の尊厳といっても、詰まるところはこのような風景の中にだけ求められるように思っている。だからだろうか、理由は定かでないのに、困難なときにこそ、これらの作品を読み返したいと思う。
ただ、螢川は、この作家本来といっていい、清らかなものを最後にだけ、明確に見せてくれている。それが、暗い「いたち川」に繋がる清らかな水源の森、奥深く現れる螢の群だ。
せせらぎの響きがだんだん近づいてきて、それにそって道も左手に曲がっていた。その道を曲がりきり、月光が弾け散る川面を眼下に見た瞬間、四人は声も立てずその場に金縛りになった。まだ五百歩も歩いていなかった。何万何十万もの蛍火が、川のふちで静かにうねっていた。そしてそれは、四人がそれぞれの心に描いていた華麗なおとぎ絵ではなかったのである。
螢の大群は、滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた。
これ以降、数枚をもって物語は終わる。清らかと書いたが、それはみなもとの奥にあり、彼は、寂寞、屍、沈黙、死臭、光、澱、天空、光彩、冷たい、火の粉等といった言葉で、たてつづけに、「はかりしれない」イメージが舞うがごとく綴っている。そしてそれは、「華麗なおとぎ絵」では、たしかにない。
螢火の群は、死のはてや生のみなもとを同時に暗示しているかのようだ。主人公の竜夫とおさななじみの英子は、螢火のなかに降りてゆき、おそらくこの小説の最後に竜夫の母千代によって発見される「人の形」で立つ螢火となる。老いた銀蔵は「これで終わりじゃあ」と言って横たわり、千代はこれからの身の振り方への腹を決めながらふらふらと螢火の深淵を覗く。すでに生きた彼ら二人はそれぞれ来し方の奥深くを螢火に照らし出され、これからを生きる竜夫と英子は螢が生まれ出る場所で、ひかりじたいに包まれていく。
比較して近作といえる「オレンジの壺」や「月光の東」と合わせ読むと、僕はこの作家をよく理解できるように思っている。これらの近作では、さながらサスペンスを読むような状況の物語に主導権をもたせられるけれど、ほとんど強制的に、そして唐突に、そうした物語は終盤で放棄されてしまい、結局はそれぞれの人間へのまなざしへと帰っていく。それは、読者が属しているであろう世間に引きずられることの愚かさや弱さへの、作者なりの警鐘であり、抵抗の思いであるのだろう。
四十を過ぎたら、三島由紀夫は読めない。彼はかつてそう言っている。ようは、三島は「オレンジの壺」であり、その奥には三島しかいないと言っているのだろう。宮本輝は、螢のほうを書きたいのだ。彼の尊敬するという山本周五郎や井上靖も螢や川のほうを透徹して書こうとした。
どちらが優れているというのではなく、小説のもつ強さや大きさを思い、作法を思う中で、なにか尊いものを見た思いがしたというだけのことである。
2003.1108 土曜日
覚えていない
■東京日和
映画、「東京日和」をビデオで見た。ずっと見たかった映画だった。
でもどうだったかな。土曜に見たのかな。後で書く日記は、日記ではないけれど、そんなことを言っていたら書けません。
日にちが経っても、見たのだ、ということは、なにがなんでも書いておかなければ。
2003.1114 金曜日
天気は・・・・
■黄色い本
本の方を買った。
東京日和である。「東京日和」。
何年も前、あれはたぶん、協力隊の訓練所にいたときではなかったろうか。僕は新宿高島屋の隣りにたっている紀伊国屋へ行って、何かの本を買ったのだが、そのときにこの本を見た覚えがある。
今、この本を見ると、まだ帯がついており、そこには映画化された事を受けて「竹中直人監督作品 映画『東京日和』・・・」などと書かれてある。東京日和の映画には、主人公であるアラーキー夫婦の結婚式の映像はなかったように思うけれど、この帯にはその映像がついている。隅の方に、1997フジテレビジョン・・・などとあるから、僕が高島屋でこの本を見かけたのは、やはり1997年だったのだろうか。いや、大貫妙子の音楽を聴いたのが1997年で、1998年になって本を見たのだろう。
そんなことはどうでもいい。僕は、著作「東京日和」を、とにかく黄色くて、角のとんがった、箱みたいに角張った本だなと記憶していた。正方形に近かったはずだ。人間は、なにを永く記憶していくものか分からないものだ。あのときたまたま見かけただけの本なのに、僕は、東京日和の黄色と四角い形を、まがまがしいばかりに今日まで記憶してきたのだ。
ところが。
ところが、ネットで注文し、今日会社で受け取った「東京日和」は、それほど黄色い本とは言えず、また、角もそれほど角張っていなかった。これはどうしたことだろうか?あれは、なにかのまちがいだろうか?記憶の方が、途中で都合よく変わってしまったのだろうか?そんなことはない。めくってみると、1993年出版の本で、1997年9刷とある。それからもう新しく刷られてはいないのだろうか。
とにかく、内容はそのままに、この本はきっと途中で装幀が変わったのだろう。そう考えるしかなかった。
内容の方はどんなものかというと、アラーキーの奥さん、陽子さんのエッセイが所収されていて、夫のアラーキーこと荒木経惟(のぶよし)との共著となっている。エッセイといっても、僕に言わせれば日記に近い。お散歩日記と言っていい。で、もちろん彼の写真がついている。映画の方を見た人なら、なるほど、この写真があのエピソード、あのシーンなのか、という風に楽しむことができる。なにより、映画の中でかなり個性的に描かれていた陽子さんが、じつは結構闊達で、ある意味で能弁な、しかも思ったより理知的な文章を書く人であったことを知ったのだった。
でもね、と、陽子さん風につないでいくけれど、やっぱり僕は、あの黄色い本が欲しくて注文したのだな、と、本を手に入れて、そのことをしみじみ確認したのだ。
ある日、アラーキーは入院中の陽子さんのところへ、大きなヒマワリの束を携えて現れたそうだ。雑誌に連載されたエッセイ「東京日和」は、たった3回で終わってしまうけれど、その3回目、最終回となったそれは退院後に入院中のことを振り返ったものである。そのなかで、このヒマワリのことが書かれている。
今、僕が手にしている本の表紙には、鮮やかなヒマワリが並べられている。大貫妙子のサントラのジャケットも、大写しのヒマワリの絵だった。エッセイ第3回のタイトルは「ヒマワリのぬくもり」である。
夫はこんな私を慰めるために、いつも大ぶりなイキイキした花束を抱えてやってきた。一抱えもあるような背の高いヒマワリは見事だった。夫の去った後、鮮やかな黄色の炎のようなヒマワリを見ていると、たしかにそこには夫の姿やぬくもりや匂いが感じられ、私はいつまでも見つめ続けていた。人の思いというのは存在する、ほんとうに存在して、疲れた者の体と心をいやしてくれるんだ、と私はこの時いやというほど感じ入った。涙がボロボロ流れ出してなかなか止まらなかった。
映画のエンディングの歌も、「ひまわり」というタイトルだった。なんだか好きで覚えているけれど、「いつまでも」と「見つめ続けていた」という歌詞は、きっとこの文章から来ているのだろう。大貫さんも、ここを何度も丁寧に読んだのだと思う。
本の装幀も、そういうことだから、堂々と角張った存在感で、あのとき黄色く輝いていたのではないか。ほんとうに存在するという人の温もりが、かたちになっていたのだろうか。
どこかドライでクールな文章を書く陽子さんだけれど、この、ぬくもりのことを書いたエッセーの後、再入院し、90年に亡くなっている。読めば分かるが(有名なのだろうけど)、この夫の、妻へのとてつもない愛情を思うと、彼の悲しみとさみしさは、想像もつかない。
陽子さんの本を、じつはあともう一冊、同時に注文していて、届くのを待っている。こちらは少し古い本だから、時間がかかるそうだ。
2003.1115 土曜日
曇りときどき晴れ
■土曜の午後
じつに幸いなことに、午後、晴れ間が目立つようになった。今日の予報は思わしくなかったのだ。
多摩湖のほとりに、掬水亭はある。西部系の小さなホテルだ。建築家、池原義郎の10年ほど前の作品で、彼の作品らしく、楽しく上品で、華美にならず、上手である。最上階は舟形の高い天井が印象的な中国割烹レストランとなっている。今日は、ここでランチをとった。
美しい建築、洒落た雰囲気、こぢんまりとしていて、やさしい気分。昼食なのだし、ここは最上階の6階。どうか眺望がよいように、と、晴れて欲しかった。天は、僕の望みを受け入れてくれた。ちなみにこのレストランの名前は天外天、である。
おかげで、楽しい食事になった。うれしいものである。
夕刻から、DVDで「マトリクス」を見る。初めて見たのだが、なるほど、こういう話だったのか。ただ、思ったよりも分かりやすい話ではあった。噂に聞く作品だったから。
この手のお話には、たぶんふたつのテーマがある。ひとつは、自分は作られた現実の中に生きていて、しかもそれは、たとえば脳内だけで完結しているのではないかという疑い。もうひとつは、この世界、社会が、仕組まれていたり作られた現実なのではないか、という疑い。どちらも現実感への疑いであるが、一方は自分自身を、もう一方は自分をとりまく環境の方を、ほんとうなのかどうかと疑っている。
マトリクスが北米で作られたからとは言わないが、しかし、つくられた世界への疑いは、それでも何か甘さを感じる。実際のこの世界に対して突きつけるほどの痛さを訴える作品を、たぶん北米では作ることができないだろうと思ってしまうのだ。かつての「未来世紀ブラジル」は、例外だろうか。あれはストレートパンチだった。ちょっと社会派過ぎるかも知れないが、センスとユーモアは抜群だった。
アメリカ大統領が、嫌な顔をしそうなものを見てみたいなあ。
2003.1118 火曜日
晴れ
日曜日に自転車を買ったので、気が向いたら自転車で通勤している。電車でも40分そこそこしかかからないけれど、自転車では、なんと15分である。中学校の通学圏内並だ。
朝の多摩川の土手道を走るのは、とても気持ちがいい。こんなにいいものを、いままで逃していたのか。
先日書いた「東京日和」のほかにもう一冊、荒木陽子の本を注文していた。「愛情生活」である。昨日届いた。今日、ぱらぱらと読む。わかりやすい書き方だ。愛する夫、荒木経惟とのさまざまな思い出等々を、かなりサービスして書いてあるけれど、その距離感は、彼女とアラーキーの周囲3メートルくらいから離れることはない。徹頭徹尾、彼らだけ、彼女だけのことを書いてある。
うーん、溺れますな。耽溺じゃないよ。あっぷあっぷって感じよ。でも、女性について、理解が深まるような気もします。
2003.1119 水曜日
曇り
■書かない分析
晩秋。寒くなってきた。これが季節と言うものだが、まったく、空気って、熱かったり冷たかったり、結構熱を持っているもんだ。毎年、夏の暑さ、春の暖かさを思い出しては、晩秋、初冬の風の冷たさを信じられなくなる瞬間がある。こんなに寒かったろうか?つめたくなるもんだろうか、と。それもたびたび。
夜半から、やおら日記を整理しだした。このところ、ずっと書いていなかった。
書かないとき、といっても、どうも幾つかに分類できる。ひとつ、まったく書く気がなく、いつも書いていた自分なんてどうかしてるとまで思ってしまうとき。ひとつ、書いてないな、と思いながら、やはり今日も昨日のように書かないというとき。ひとつ、こんなこと、あんなことを是非書こう、これは書いとかないと、と、強く思いながら、なぜか書く行為を始められないで、そのうちに何を書きたかったか忘れてしまうとき。実は、こういうときが、一番おもしろそうなことを書けそうに思う。それからもうひとつ、これはよくかんがえるとあんまりないけれど・・・・書こうと思うけれど、なぜか書き出せない、書き進められない、のっていかないとき。
今日は、書く書く。遡って書く。これは日記ではない?でも、これがとても好きなのだ。
肉でも、そして実は魚でも、肉は寝かせないとうまみがでない。書くという行為も同じ事だ。そのときどきの思いも、少し寝かせた方がよくこなれており、客観的な目にも耐えられるものになる。これは情緒的な部分でさえそうかもしれない。勢いはなくなってしまうし、些細なことを通して伝わるはずのことは、忘却の彼方に払われて、二度と戻っては来ないが。
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