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Diario
日々の記録
2003.0627 金曜日
晴れ
アフガニスタンは、金曜日が休日だ。カブールの市内でも、店も軒並み閉店のままだ。全てがひっそりとしてしまわないまでも、日本の都会とは違って静かなものである。車もぐっと減る。
2003.0630 月曜日
晴れ
■ゴジラの生活のかたち
重松清の「定年ゴジラ」。小説だ。出張前の夜、車で会社へ荷物を運んだりしたあとだったろうか、帰りに寄った古本屋で買った。ほんとうは「ビタミンF」のような、よく知られた代表作を手に入れたかったのだが、文庫で手に入れることができなかった。そもそも出ているのかどうかも知らないけれど。
この作品はずいぶんなタイトルだし、30そこそこの男がアフガンへ出張へ向かうにあたって買い求めるものかというと、そんなイメージからも遠い。自分で言うのも何だがたしかにそうだ。
それでも重松清を読んでみたかったのは、人気作家だという理由からだけではなかった。別の作家の作品の文庫で書いていた解説が、非常に誠意のこもったものだったせいだ。つまり、その作家の作品を読んできた読者に読まれるべき解説であれば、その重みはかなりのものになるはずで、彼は、それをよく弁えて応えていたように感じたのだ。あのような解説はなかなか書けるものではない。
彼の作品は、もうひとつ、「舞姫通信」というのも持ってきていた。今回着いてすぐに、こちらは読んでしまった。若さにまかせて研がれた筆致。ぐいぐいと痛い。それでも読まされた。まずまずではあったけれど、ちょっとしんどかったかな。僕の性には合わなかった。
「定年ゴジラ」のほうは、確信犯的に、余裕を持ったユーモアをベースにした運び方があり、定年後のお父さんと同じ気分、構え方で読むことができる。
前置きが長かったけれど、どうだろうか。この小説に登場する、東京郊外、おそらくモデルは京王線の沿線だろう。その終点に近い中流家庭向けニュータウンに住む、定年世代の日々の心模様を見ていると、僕自身の暮らしのこれからについて思うところが多かったのだ。
僕の父親は、人生の大半をサラリーマンとして過ごしては来ているが、ホワイトカラーではない。「れっきとした」職人である。子供の頃の、ほとんど全ての友人達の家庭もまた、家計を支えるのは職人のお父さん達だった。そのせいもあってか、直接生産にタッチしないタイプの勤め人に対して、具体的なイメージを持つことが難しい。そのために、いわゆるホワイトカラーや、根拠もないが広げて言うと、ネクタイをして仕事をしているようでは「れっきとした」ものとはいえない、と、考えて育ってきたように思う。
今の僕は、「れっきとして」いないかもしれない、少しばかり毛色の変わった仕事だけれど、ともかくホワイトではないにしてもグレーだかのカラーをしたサラリーマンで、そして僕自身もよくわからない人生がこれから続いていくようなのだ。
そんな風だから、僕の人生には、仕事において、またその暮らしにおいて、これは「れっきとして」いないのではないか、という、拭って拭いきれない抵抗感がついてまわっていくように感じているのだ。
こうした抵抗感のことは、ほんとうは枝葉のことだ。今日書きたかったのは、じつはそんなことではない。
暮らしの有様をかたちづくっていく、そのやり方とか構造みたいなものを考える。
誰しも、それほど意識的ではないにしても、実際は、無意識に、やり方に関するスタイルは決まっているものだ。漁業をやっている若者が、自分が屋台骨を支えるべき時代には、どんな構成の家族で、どうやって暮らしていくことになるのか、前々から考えていたって、それは珍しくもない、普通のことである。
しかし僕などは、やりたい仕事、その仕事の有様について考えて行くところに、男らしくない響きだが、まったくもって仕方なく、その暮らしというものはついていかざるを得ない形になっている。仕事の内容から勤めるべき会社が決まり、会社の場所から住むまちが泣く泣く東京へ移り、そこから住まいやいろんなことが、従属的に決まっていく。この骨格の上であれこれやっても、それは実に皮相的な意味でのスタイルや飾りに過ぎない部分が多くなる。
けれど、よく思うのだが、たとえば暮らしたい街や村があって、そこでこんなふうに暮らしていきたい、と考えて、それを追っかけていくようなやりかたもあるのだ。たまに田舎へ旅に向かうと、そうして暮らしをかたちづくっていったのだろう人々、その家やまちをよく見かける。こうした、暮らしたい場所での暮らしのイメージをまず定めて、そこから作っていくやりかたには、とても憧れる。
これが、一般の、普通の人の話とかけ離れているとは思わない。どんな人であっても、その人や家族について、それぞれにとってのこれからを、みな計画しているものである。農家であれば、家業の継承のことや、世代をどの程度交えて暮らして行くべきか等について、どこも考えているだろう。それぞれの判断はさまざまであり、思い通りに行かないことがあったとしても。ほかに、例えば都会の核家族だって、時が来ればいろいろ考えざるを得なくなる。
これは何を意味するかというと、働きづめで何も考えずに数十年を過ごすなんて、実際はあり得ないということだ。
暮らしのかたち、家族のかたち。不思議にも、それ自体が目標となることはないけれど、だれもが、それぞれ、大切にしながら営々と築いたり積み上げたり、あるいは壊したりしていることを意識してみる。どんなにわき目もふらず生きていても、依って立つために、ほんとうはだれもがしっかりと守ろうとしている、その有様をよく見つめること。
2003.0706 日曜日
曇りがち
■テロの実相
昨日、カブールを発った。パキスタンのイスラマバードは雨。おかげで小一時間、フライトが遅れた。
明日の夜、成田に着くまでの飛行機の行程が、複雑極まる。全ては、少し前まで猛威を振るっていたSARSのせいである。いまとなっては大丈夫だが、北京を経由する飛行機は、会社などから使用を禁止されてしまった。それで、帰りの飛行機は東南アジア周りの便となったのだが、おかげでイスラマバード着いたらいろんな手続きをしなくてはならない。
そんなこんなもあり、今日は昼間だけの利用でホテルに入ることがあった。
たまたま、このホテルではNHKの国際放送を見ることができた。そこで、去年10月に起きた、モスクワの劇場占拠事件を扱ったドキュメンタリーを見た。
あのとき、モスクワのあの劇場ではソ連崩壊後初めてという、オリジナルのミュージカルが上演されていた。戦闘服の男女のグループは、ここを占拠したのだ。彼らによれば、チェチェンからロシア軍を撤退させるために、劇場をまるごと人質にとったのだった。
このような占拠行為は、もとより許されるものではないのだが、しかし、全員が殺された彼らグループの語ったメッセージも、同じように許されないものだったのだろうか。
僕はチェチェンをよく知らない。ロシアに従属している現状を快く思わない人々だって一枚岩だとは思えないが、よく知らない。けれど、チェチェンとロシアの間にすでにできてしまった怪物のような利害と憎悪のかたまりは、もうけっしてほどけないほどに膨れ上がった、おぞましい繋がりの絡まりだろうことは確かだと言えないか。そんな絡まりの中にあって血の涙さえ枯れてしまった人々のことを考える。
占拠事件を起こした若者達が、そんな悲しい思いの人々を真っ直ぐに代弁しているのかどうかは分からないが、せめてその苦しみや悲しみに同苦できないものかと思ってしまう。
以下、この件に関して思ったままを綴る。
この事件では、テロリズムが悪であったとは言えても、狙われた対象が正義であったと言えるとは限らない。ロシアのような大国が、ずっと地域支配を継続して行くに当たってとってきた行動は、時に紛争をもたらすほどに、その地域に拒否されることがあったのは周知の事実だ。9.11以降、反テロを掲げた国には、ロシアのように、地域の激しい独立運動を抱える国もある。正直に言って、ロシアが反テロを唱えるときには、体面よく独立勢力を弾圧する理由を述べているように聞こえてならないのだ。
テロや、反テロというとき、ほんとうは正義と非道の対立ではないのだろうと思う。極論だけれど、みんなだれもが、そう思っているのではないだろうか。
すでに世界に認められている国家等が、マイノリティや分離独立を選ぶ地域勢力に対する目には見えにくい構造的な暴力を認めている。そしてそのような国家等は、暴力に抑圧されてきた人の側からのテロ的な反応があればそれを捕まえ、自らの非を棚に上げてテロに対する戦いであると称し、いっそうの抑圧を正当化しようとする。
そうした空気を、みんな感じているのではないだろうか。
テロリズムの横行は怖ろしいことだ。テロに屈してはならない。それは正しいだろう。けれど問題はそんなところにあるのではない。全くない。
抑圧はなくなっているのだろうか?テロを肯定した人々の奥底にある苦しみや悲しみはどうなっているのだろうか?この部分に真剣に向き合って同苦しようとしないもの、解決や改善に対して本気で取り組もうとしないもの、さらにこうしたしわ寄せを強めているものは、本質において最も恐るべき存在と言えないか。
人間の安全保障、という言葉がある。人権という言葉がある。開発という言葉がある。
たくさんの人間のいる、この世界にあって、専門家達でさえ、ここで本義に帰って見直したい原則としてよくあげられる言葉があるそうだ。
「他人の不幸の上に、自分の幸福を築かない」
至極あたりまえの言葉だが、貫くことは、歴史を見ても難しかったことが分かる。
困難なのは、世の中が巨大で、無数にも思える階層や段階を織り交ぜた、複雑な構造をもっていることだ。普通の市民は、自分が特定の人々に抑圧を与えているとは実感していない。自分と彼らを隔てているその距離の中には幾重もの繋がりの階層があって、想像力が届かないのだ。じっさい、社会的な「しわ寄せ」をあなたが作り出しているのだ、と、誰かに指摘されるような、具体的ななにものも見せられることはないし、不可能でさえある場合が多い。そういったことだから、想像力が届いていないと言われても、誰だって困ってしまうだろう。
こうしたときに、さまざまに重層した問題群を、超人格的なかたちで一気に把握し、扱えるようにされたものが「権力」と言える。多数の個や、多数の集団と、その重層や無数の繋がりを相手にするには、誰もが認めて影響を共有することのできる「権力」が必要になってくる。
しかし、権力はいわば権限の総体であって、あいかわらず問題群は巨大で複雑な構造と来ている。人間の能力に較べると、それはあまりにも大きく難しい相手ではないだろうか。
例えばロシアには、とんでもなく優秀な、頭のいい人達が、たくさん権力の中に参画しているだろう。けれど、どんなに彼らが優秀な働きをして、優秀な機構をつくって対応し、まかりまちがってすばらしい市民社会と応答し合って、双方よい世の中であるように努力したとしても、チェチェン問題のような事態を解決できるかどうかは分からないと思う。
ここまで人間の世の中が大きく繋がっていれば、それはすでに、もう一つの自然のようなものだ。ときに人間は、人間たちの力で社会をコントロールし、方向を決めることが難しくなってしまう。このことを前提として自覚した方がいい。この自覚があったからこそ、例えば古代から中国には孔子の説いた儒教のような政治哲学・人智の体系があって大切にされてきたし、高等な宗教は、個人と社会がいかに開発されうるかに挑戦してきたのだろう。このスタンスや教え、経験に対して、現代人はもっと敬意を払った方がよいし、現代における応答をする必要がある。
もっとも、我々は、現代の社会というものを、まだ掴みかねている。ここ100年や200年の変化は、それ以前の世界の移り変わりに較べても大きく、スピードも速かった。われわれは、これについていけていない。いっとき緩やかに思えた流れが、一気に急流に差し掛かったようなものだ。翻弄されるまま、矛盾や問題を解決するための方策は、遠大で迂遠な哲学と人智によるよりも、近代的な着想による対症療法の戦略に求める方が分かりやすい。
アメリカの大統領の演説に対して、アメリカの人々は、一定の拍手をもって敬意を示す。僕にはまるで芝居がかってさえみえるのだが、しかしそれは、不透明で把握することの不可能な人間社会の海原に浮かんだ船にあっては、とりあえず船長の権限を尊重しなくては生きていけない、そんな厳しく不安な環境を、アメリカの人々がよく自覚しているという、一種の表現であろう。
イラクでかつてフセイン大統領を支持して気勢を上げていた人々だって、海原で生きていくために、あの必死の叫びをあげて、フセイン政権に運命をゆだねるほかはないところまで来てしまっていたのではないか。
さきの劇場占拠事件では、チェチェン人を中心とした犯行グループ全員が殺され、130人を越える観客が犠牲になり、痛ましい惨劇を残した。
死んだものたちは不憫であり、犠牲を出した側は辛い。そして事態は変化したかもしれないが、まだよくなったとは言えない。ロシアは今、チェチェンに親ロ政権を確立するための作業を急いでいるという。
今日、チェチェンのドキュメンタリーを見た同じ日に、またチェチェンの人がモスクワでテロを実行して死んだというニュースを聞いた。ロックの野外コンサート会場の入り口付近だったという。多数の市民が犠牲になった。
重苦しいことばかり書いた。
こうした重く、困難な現状に対して立ち向かい、希望を与えた事象はあったのか。
インドにおけるガンジーの運動や、キング達によるアメリカ公民権運動などは、その例に挙げられるのだろう。
これ以上は大論文になるので、またいつか、ちゃんと勉強したいと思う。
明日は七夕。フライトは成田について、僕は久しぶりの東京へ戻る。
2003.0709 水曜日
ぐずつく空
東京に戻っている。
朝一番に電話。母からだった。九州の祖母が危篤に近い容態だとのこと。母は、それだけいうと、言葉が続かないようだった。僕が言葉を探している間に、電話は切れた。
母の、母。大切というだけでは簡単すぎる。僕はそっと押し黙り、身を弁えて、ただ見守るだけだ。
3月に会いに行ったときは、あんなに色つやのいい顔だった。まだ粘れると思うんだけど、おばあちゃん。
2003.0715 火曜日
晴れであったか
早朝の電話。母方の祖母が亡くなった。会社へ連絡しながら、羽田へ急ぐ。熊本へ。
春に会っておいて、せめて、よかったのか。
夜、通夜。
2003.0716 水曜日
晴れ
午前、祖母を荼毘に付す。午後、葬儀。順序が逆だと、父は釈然としていなかった。近親者にとって出棺は、ときに惜別の念がこらえ難くなることもあろうから、こういう順序だと、ある意味ではさっぱりと行事が執り行いやすいかもしれない。
夜、東京へ戻る。
出張先が偶然東京だという妹も一緒に。
乗換駅の居酒屋で語らう。
妹は、この秋、ちょっとした冒険に踏み出すことにした。彼女は鞄のデザイナー。ちょっとニューヨークへ行って来ると。
いろんな意味で、とても心配でならないけれど、これだけは言える。
可能性は、ときに想像もできない未来を描き出すものだよ。
2003.0801 金曜日
曇り
朝、Kから電話。彼のお母さんが亡くなった。
このところ、闘病の生活だった。僕は時々、家にお邪魔していたから、手料理をご馳走になったこともある。
お母さんは、すっかり言葉が大阪弁になっていたが、もとは東京だったか、いや、横浜だったろうか、出身は。ものいいのすっきりした、関東らしい気性のお母さんだったのに。
死ぬにはまだ若かった。でも、使命を果たして心配を残さなかったのなら。
Kはもう、至って元気である。しかも結婚した彼の妹はおめでただったと聞く。母として満足だろう。できることなら、もう少し待って、初孫に会えればよかったが。
今度大阪に戻ったら、まずはKの家を訪ねよう。
2003.0802 土曜日
曇り
以前より予定していた小旅行に出る。那須方面へ。栃木の山手、高原である。
今日の逗留は塩原。近代の文豪が、こぞってここを訪れたという。なるほど、美しい松の木が多い、山間の谷筋である。その谷筋は、おおらかで伸び伸びしており、せせこましさがない。水、谷、山、緑、岩、家並み、温泉。
塩原は、蜻蛉が多い。指を立てて腕を伸ばすと、気安い風情で蜻蛉がとまってくる。
2003.0803 日曜日
曇り、晴れ間あり
那須の高原を車で走った。美しい日本の高原だ。この風景だったら、馬で駆け抜けるのが最もふさわしいと思われた。
そんな風情は望めないけれど、遊園地に行って珍しくコースターばかり乗ってみた。
気楽な気持ちで並んでみるが、車両がレールの上を落下し出すと、僕のこころは急激に、そして全く後悔だけに占められる。これの繰り返しだ。
なんだか頭がふらふらする。軽い脳震とうだろうか。
疲れを引きずりつつ、元気一杯。帰路、夏祭りの宇都宮で餃子を、そして夜も更けた佐野でラーメンを食す。
餃子は元祖の誉れ、「みんみん」。安いが、大したことなし。
ラーメンは「親父の店」。手打ちの麺が爽やか。さっぱりとして、ほとんど塩系のつゆも潔く、これはまずまず。
締めくくりに、ほとんど恐怖の首都高速を通過して帰宅。
さすがに疲れた。
2003.0810 日曜日
晴れ
明日からの出張準備もそこそこにして、午後一番から上野公園へ出かける。ちょうど盆休みになるのだろう。車で走る都心は閑散として感じる。
国立博物館ではアレクサンドロス大王を、東京都美術館ではトルコの文明を、それぞれ扱う展覧会が行われている。
明日から、4度目の出張に向かうアフガニスタンは、これらの文明とも互いに影響しあってきた歴史を持っている。現在の日本人に、これらの文化とそれほど直接的な関わりを感じることは多くないかも知れないが、想像することのできないほどの悠久の向こうにある歴史や文化には、たくさんの日本人が憧れを持っている。なぜだかわからないけれど、僕はこのことが不思議でもあり、嬉しくもある。
たぶん、現代の我々が抱く憧れと同じ性質の感情をもって、いにしえの貴人達も彼の地に由来する文物に接したに違いない。
夜、近くの公園で花火を。
湿気のある空気。昼間は暑かったけれど、もう今は涼しい風になって吹いている。
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