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Diario
日々の記録
下へ行くほど新しくなります
2002.1202 月曜日
晴れ
昨日の陰鬱さが嘘だったような、晴朗な明るい空。何度も何度も火の元や戸締り、忘れ物を確認してから出張先へ出発。
いつもと同じモノレール、いつもと同じ京王線の準特急に乗って、手荷物だけの僕は、そのまま会社のある駅を通り越して新宿へ着き、行って来ますをして、成田エキスプレスに乗り込んだ。
この列車の車内は、仕事や旅行やなにやかやで日本を訪れた人々が当然多いのだが、今日向かい合わせの4人席で乗り合わせた、おそらくカナダ人と思われる一家のお母さんは大きくJAPANと書かれた観光ガイドなどをまだ広げていて、そうか、まさに直球でこの国へ観光に来る人もいるんだなあと思わされた。なんだか不思議な気持ちになる体験や、順を追った説明もなくて、どうにも分からないといったものもたくさん見たことだろう。面白かったのかな。夫婦はフランス語で話し合い、ハリーポッターを読んでいる娘とは英語でやりとりしていた。あれで実は、香港やシンガポールへ帰るのかもしれない。
北京を経由してパキスタンはイスラマバードへ到着したのは、前回と同じ、夜遅く。初めての首都は、なんだか怖そうな夜の風景だった。しかし僕はもうどんなところか知っている。親しみやすい、実は比較的静かな都会なんだなあと今回は思いつつ、ホテルへ入った。一杯引っ掛けて就寝。
2002.1203 火曜日
晴れ
アフガニスタンへ入るビザがすぐには下りず、明日カブール入りすることとなった。昨日の機中から、どうもインフルエンザなのか、高い熱をともなう風邪の症状があり、現地入りが延びたことをこれ幸いに、読書と睡眠で過ごした。
2002.1204 水曜日
晴れ
昼の便でイスラマバードを発ち、アフガニスタンのカブールに着く。これから3ヶ月、再びここで働く。
空港から近いプロジェクトのオフィスに着いたら、落ち着きのないとりあえずの挨拶と、打合せ。というのも、今日はまさにラマダンが明ける夜が待っているのだ。夕刻を前に、時間きっかりで現地のスタッフ達は帰宅していった。家族とのお楽しみが待っているのだろう。どんな風に過ごすんだろうか?一般にイスラム教の行事としてはくくれまい。それは、国や地域、あるいは民族などでそれぞれ異なる、それこそ文化そのものとして広がりのあるものなのに違いない。明日からはラマダン明けの休みが数日続く。
寝泊りは、前回と同じ宿舎で。松の大木が印象的な家だ。ただ、もう冬に入ったカブールは、最低気温が0度くらいだし、夜になれば氷も張り始める。寝袋を使ったけれど、まだ慣れなくて暑かったり寒かったり。風邪の養生がうまくいかない。
2002.1205 木曜日
晴れ
澄み渡る青い空だ。寒いが気持ちがいい。遠望する峰峰は、チリのサンティアゴを少し思い出させるように、冬化粧しており、美しい。今日は本当は休みなのだが、午前だけオフィスに出かけた。
帰宅後、食事したり、読書したりの合間に、先日買ったハードディスクのデータで過去の自分の日記を読んだ。98年からつけてきたから4年になる。
読みながら、それにしても、よくぞ望む方向へと自分自身が進んで来れたものだと思う。仕事や暮らし、生き方それぞれに対して。なにもかもが完璧だ、なんてわけではないし、そもそも何が完璧というビジョンもスタイルもそうは持っていないけれど、方向において言えば、今、僕は胸をなでおろすような気持ちだ。
これからも方向をよくよく確認しながら、また、ある程度まで来たらフィードバックもしながら生きてゆきたい。方向さえあれば何が幹なのかがはっきりする。何が枝葉なのかが分かる。結果である花だけを寄せ集めるようなことはすまい。
具体的に書いては来なかったけれど、それぞれのいちにちには、それぞれ幾人ものひとびとが寄り添ってくれている。僕の拠って立つ大地と、継いで接いでするように支えたり持ち上げてきてくれた人間達がある。それらがまなざしを集めるところを、僕も見つめようと思う。
これは、来し方について、ただ運が良かったとして喜んで言っているのではない。いつもいつも感じてきたところの、いわば一種の自戒のつもりである。
2002.1206 金曜日
晴れ
今朝は良く冷え込んだ。今日は金曜で、仕事へでることはない。風邪引きは一進一退。よく寝て、あとはよく読書をした。
2002.1207 土曜日
晴れ
午前、出勤。静かなる一日。風邪でのどが非常に痛い。咳もかなり良く出る。疲れる。
寝る前に湯をためてなんとか使ってみた。温まりきらないうちに、電気温水器の能力が追いつかないためか、水しか出なくなった。それでもなんとか入った。
もう寝ようかと思った矢先、夜10時38分頃、結構遠くだと思うが爆発音のような大きな音。隣近所で大きな鉄の扉を思い切り強く閉めたとしても同じ音がするだろうが、しかし何だったのだろうか。
前にロケット弾が破裂したのを聞いたのは、あれは500メートルくらいは離れていたと思う。それでも窓はびりびりと震えたし、ばーん、という大きな、音の圧力を感じるような爆発音だった。今回は、もっと低い音だ。変な事件でなければいいが。
ことは人命にかかわるし、平穏を破る類の爆弾等の仕業は、これは日和見的に事件性をおもしろがるようなことが少しでも心にあっては恥ずかしいと思う。このまち、このくにから、今後一切あってはならないことだ。僕がいる以上、そんなことは起こさせないぞ、というくらいの気概があっていい。が、しかしそれもまた大それた、ばかばかしい思いである。
2002.1209 月曜日
晴れ
昨日に続き、しろっぽく煙った大気。朝方は冷え込み、零下になっている。ただ、日中は15度程度まで上がるうえ、風もほとんどないため、寒さはそれほどでもない。しかし、寝るときは寒くてかなわない。こちらへ来てからすぐに寝袋の上に毛布を掛けて休むようになったが、それでも朝は寒くて起きてしまう。窓の近くにベッドを置いているせいもあるだろうから、今晩は少しずらした。
その手の不便といえば、日中の停電も挙げられる。
前回やってきたとき、夏から秋は、夕方から朝方まで電気がきていたが、今は夕方から夜10時ごろまでのみである。宿舎の水道は井戸からくみ上げた水にポンプで圧力をかけていないとだめだから、停電だと水も使えない。家に着いたら、すぐに食事して風呂に入って歯を磨いておかないといけない。おかげで早く眠れること。
2002.1210 火曜日
晴れ
やはり寝ているときの寒さがつらいので、寝袋を二重にしてみた。かなり改善。そのかわりきゅうくつである。
2002.1211 水曜日
曇り
カブールは盆地で、冬は風があまりないようだ。ということは、チリのサンティアゴで体験したように、ひどい大気汚染に見舞われるということだ。
チリでは主に排気ガスが滞留し、赤茶色の濃いスモッグにまちごと沈んでしまう。スモッグは数十メートル先の建物がかすんで見えるほどにひどい。病院などは子供の呼吸器疾患であふれてしまう。
おなじような現象が、カブールの場合は排気ガスと薪を燃やす煤煙によってもたらされるように感じる。やはりまちは褐色のスモッグにつつまれ、鼻を掃除したりすると真っ黒でびっくりする。事務所や宿舎で使っている灯油ストーブの、その灯油の品質が悪いせいかもしれないが、ともかくも空気がわるいことはなはだしい。
風邪は良くなってきているのに咳がとまらないのは、ひとつには、この大気汚染のせいなのかも知れない。
2002.1213 金曜日
曇り時々雨
■イスタリフ
冷たくそぼ降る雨。しかし、実際は普段よりも暖かい朝だ。気温は3度くらいだろうか。
Istalif、イスタリフという古い集落が、郊外にある。
カブールの北は美しい盆地で、主にブドウの畑が延々と広がっており、かつてはたくさんの村が点在していたのだが、不幸にもロシアとの戦闘やタリバンと反タリバンの戦いによって、まったくひどい廃墟の続く土地となってしまった。街道筋には戦車や装甲車の残骸がたくさんころがったまま放置されており、美しい茶色の冬の畑の色の中に妙に生々しく、しかしどこか美しく映えている。
そうした中を北上し、西へ折れて山に向かうと、斜面の谷や尾根にへばりつくようにして姿を現す、その立派な集落がイスタリフだ。谷は細いながらも清冽な水が川となってながれ、さまざまな樹木が密生していて、今は落葉してしまった枝が美しい。街路がどうなっているか、はたして分からない、日干し煉瓦と木と泥の家々が、斜面に複雑に立ち並んでいる。
長い長い中央アジアの歴史が、イスタリフには堆積している。枝を打ち、ときには切り倒して薪を作り、集めて運ぶという作業をしている男達の姿。カブールのような都会ではそれほどみない、朴訥な田舎の男の顔つきだ。しかし、最後までタリバンに抗し続けたという不屈の集落であるから、ただの田舎者ではない。
数十年前に建てられたという権力者の別荘あとからは、集落と盆地を見下ろすことができる。
曇り空の下、岩山から、木々の生い茂る斜面の集落の複雑な形態、色。そして眼下の赤茶色したブドウ畑と灰色の土の色。
ちょうど2年前、スペイン北部のバスク地方は内陸のリオハ県を訪ねたことがある。あの土地とそっくりだ。いや、リオハのほうが色がなかったかもしれない。
なだらかに続くリオハの平原はすべてブドウの畑で、葉の落ちた冬は、寂寥の風が冷たく冷たく吹き抜けていた。そして小山ごとに小さな城郭都市がやはりあって、一歩中に入ると中世の時間の堆積が澱のようにただよって、訪ねた自分はまぎれもない異邦人であることを意識させられた。
しかしイスタリフはもっと大きな集落だ。ここはほとんどひとつの王国で、遠く北のカザフやウズベク、ロシアの地との往来にあって、みごとに実ったひとつのブドウの房のように、美しく豊かに香りを放って名高かったに違いない。
イスタリフの春を思う。若芽のまぶしい風景が見られることだろう。数日でも逗留できれば、こんなによいことはない。しかし、仕事でやってきている土地だから、そうはわがままがきかないだろう。
今から期待し、そして残念に思わされてしまう。
2002.1215 日曜日
晴れ
ずっと曇りや雨が続いていたので、今日はまずまずの快晴で嬉しい。午後には市内の道路は乾いてしまい、またもとのように砂埃が舞い始めたが。ただしかし、雨上がりの比較的澄んだ空気の彼方に、現場に出た折、遠く雪をまとった山脈が堂々とした威容で聳えているのが見えて、カブールも捨てたものではないと思えた。普段は人ごみや廃墟や、痛んだコンクリート、レンガの町並みや、はげた岩山の荒涼とした風景しか見ていないから、どうしても退屈で砂埃の匂いのするだけのまちとしか思えなくなっている。四季を通じて、きっとあるはずの美しかったりする横顔を、もっと眺めることができればと思う。
宿舎の水道は、井戸と電動ポンプに頼っている。そのポンプの修理のため、この数日、ときおり水の使えない日がある。井戸は数本あるので、ほかの井戸からバケツなどで汲んでは来るのだが、しかし不便であることこの上ない。風呂にはもちろん入れないし、夜は同僚と食事を作ることが多いのだが、これがまた少し困ったことになってしまう。おそらく、もっとも重要なインフラとは、水道だろう。電気やガスは、まだ我慢もできるから。もしもこれで井戸が枯れてしまったらと考えると、ぞっとしてしまう。
明日は、シャワーを浴びることが出来ますように。
2002.1224 火曜日
曇り
■アフガン・クリスマス
たんに曇りというだけなら、朝はそれほど冷え込むことがない。0度程度である。山からの吹きおろしのある地域だと、同じカブールでも、あと5度ほど低いこともあるようだが。
今日はクリスマスイブだ。カブールではクリスチャンはほとんどいないのだろう。やはりというべきか、クリスマスを迎えるような雰囲気は全くない。
欧米人は、国際機関や、なんらかの援助機関、団体、もしくは軍の関係者がほとんど。彼らに対するテロがないかどうか、ちょっと心配になる。しかし、いくらなんでも政治ではなく宗教上重要な日を狙って行動にでることはないか、とも思う。イスラムにおいては、イエスもムハンマドのような預言者として位置付けられているのだから。
数日前、カブールの近郊だったか、小さな戦闘があって、アメリカの兵士が死んだという。この地に展開するアメリカ軍で、初めての犠牲者だそうだ。誰からの攻撃によるものかは不明とされている。
* * * *
若い兵士のJ.Eは、ハイスクールまでは野球とバスケットでならした、陽気でまじめな青年だった。大学に入ったが、学費が続かずに休学したままになった。2年前、軍に入るまでは、父親の経営する中古車販売の会社を手伝っていた。ガールフレンドとは家族ぐるみで長いつきあいだったのだが、彼女の父親が田舎の農場に専念することになったことをきっかけに、彼女は、東部の大学で勉強したいという昔からの夢を実行に移すことになり、ガールフレンドとは結局そのまま別れてしまった。J.Eが軍に入ったのは、そのすぐ後だった。
J.Eの母は、彼が軍に行くことに強く反対して聞かなかったが、彼の決心は固かった。海外派遣となったところで、実戦配備になってどんぱちすることは、まずない。湾岸戦争だって、もう10年も昔の話だ。クリントンのもとで、景気も持ち直した後だった。年限を勤めれば、奨学金をもらって大学にだって戻れるかも知れない。
しかし、去年の9月11日から全てが変わった。国内の異常な緊張と共に、J.Eは対テロ戦争とブッシュが唱えるシフトの中で、気がついてみればアフガニスタンへ来ることになってしまったのだ。ただしかし、空爆が終わって駐留兵員の交替時期になってからだったから、当初ほどの緊迫した状況ではなくなっていた。入隊以来の仲間は3人ほどいたが、4人でするカードゲームの星取表をカレンダー代わりにして、任期が終わるまでを平穏に過ごせればいいと考えていた。ところが、このところイラク情勢は緊張を極めるようになってきており、任期が終わっても、どうやらイラクか周辺国への配属になるかもしれず、この2ヶ月ほどはそのことが部隊のなかでの中心的な話題だった。J.Eと仲間達は、星の一番良かったやつはイラクへ行かなくて済むというジンクスを作って、毎日ちょっと真剣なゲームをしていた。
その日、J.Eは早朝の巡回へ出かけた。帰ったら仮眠をとって、クリスマスの飾り付けをやることになっていた。両親からのクリスマスカードが昨日の便で届いており、その朝はとりあえず宿舎の枕もとにピンでとめた。両親からのカードには写真が入っていて、ご丁寧に早めに飾ったツリーの前で両親が微笑んでいた。背景には、彼が大事にしていたマイケル・ジョーダンのポスターが写っていた。今回派遣になるときに、母がリビングに飾らせてくれと頼むので、しかたなく彼の部屋から移してきたのだ。
J.Eは、その日、クリスマスカードの貼られた枕もとへ戻ってくることはなかった。その代わり、R.マイヤー司令官の名前で、彼の両親のもとに知らせが行った。司令官からのクリスマスカードには何が書かれるものなのか、知っているやつはそんなにいないだろう。
カブールで普段見かけるのは国際治安部隊で、米軍ではない。警官でも見るようなきもちで彼らを町で見かけたら眺めていたが、しかし、ひとたび死をともなう何かが起きれば、かれらも軍のなかで生きていることをいやでも知らなければならないのだろう。
異常な組織である。世の中のどこに、死人が出るのがあたりまえの業務集団、組織があるだろうか。J.Eの仲間達は、今日も平気でカードゲームができるだろうか。冷たいこころで、鉄の塊がきしむみたいにして、明日も、その次の日も、戦闘服を着てヘルメットをかぶり、仕事が終わればシャワーを浴び、食事をしてカードを囲むような芸当ができるのだろうか?J.Eがいたときと同じように?
* * * *
J.Eは、僕のいいかげんな空想がつくりあげた青年である。
2002.1225 水曜日
晴れ
寝ようかなと思い、ストーブの薬缶から湯を取って、ウィスキーのお湯割を作ったところで、表がごうごうと言い出した。突然の大風かと窓の外をにらんでいたら、数秒後、大きく地面が揺れた。地震だろうか。夜、11時45分。
2002.1231 火曜日
晴れ
大晦日。去年は実家でゆっくりと過ごしていたが、1年経ったらカブールにいるなんて思いもよらなかった。こちらはこちらのイスラム暦があり、それにもとづいて暮らしているので、年末年始の休みなんて当然ない。ただ、明日の元日だけは事務所を休みとした。今日は宿舎で日本人の方々と過ごす。
NHKの国際放送のテレビで紅白を見たいがために、昨日電気屋で買った新しい衛星チューナーだったが、待てど暮らせど紅白の放送が始まらない。そのうち、ついに日本は年が明けてしまい、紅白を見ることなく、しかし「ゆく年くる年」が始まったのだった。
ふけてしんしんとした日本の新年の元日。全国の寺社が映し出される。あらたまった雰囲気はいいものである。そうした映像を見つつわいわいと杯を重ねていくなかで、更け、暮れていく今年、明けていく新年。
お元気ですか。今年はありがとうございました。また来年。
2003.0101 水曜日
晴れ
快晴のカブール。元日だ。
時折、書いているけど、人生というスパンにおいて、仕事のことを考えるとき、その方向性が大切だと思っている。かつて思い描いた方向性において、僕は今、満足の行く現在を生きることが出来ていると感じている。しかしまた、これから先がさらに大切になってきており、それが思ったよりも見通しの利かない茫漠としたものであることにおののきを感じてもいる。
あらたまった言葉だが、使命、という言葉が、このとき若干の抵抗と共にではあるが、浮かんでくる。能動そのものであり、勇気のいる言葉だなと思う。
人生はたしかに仕事で全てではないが、大切な時間の大半をかけて、夢もそそぎながら為していくものであるからには、それは僕自身の最大の捧げものである。
そうした捧げものは、具体的にはどのような姿をとるのだろうか。あるいはどうでありたいとしているのだろうか。それはどこで、どのようにかたちづくられていき、人間のなかへと受け入れられていくのだろうか。
僕という個人が生きる人生はひとつではあるが、他の全ての個人と同様に、実際には多面的過ぎて、映画のように一本の作品にまとめきれるわけではない。たしかに、生を通して、虹のような大きなアーチを描くこともできる。しかしまた畑の畝のように、無数の鍬の痕を繰り返し刻んでもいいだろう。あるいは、今しっくりと来るイメージで言うならば、かつての求道の僧がしたような、行く果てで得られる果実をもとめながら、不安なルートの中に踏み出していく旅のようなものだろうか。
その果実は、創り出すべきものか、それとも戦いの後に授かるようにして得るものとなるはずだ。そしてそれは、くだらない欲望に与える餌ではなくて、使命を想起させるほどの吸引力をもった価値を帯びている。
すでにその果実を得るための方向は、茫漠としてはいてもつかんでいる。こうして書いたのは、自分を引っ張っていくためだ。これからの過程は、使命の自覚なくしては判然としないだろうから。進まざるは退転ともいう。進んでいるのかどうなのかを判断できるのは、この自覚以外にはない。
2003.0103 金曜日
晴れ
最近未明の冷え込みが厳しくて、わりあい温暖な地域にある宿舎の温度計でもマイナス3度を指す日が続いている。ところが厳しいくらいに輝く日中の太陽のおかげで、最高気温のほうは15度を越える。今日もそんな日だった。
早くもカブールの正月は三が日を終えようとしている。
昼食はスタッフと中華料理店で。市内に数店あるうちでは、僕はこの店の味を最もしっくり来るものと感じている。今日食べたものには、蟹や烏賊をつかったものもあって、おそらく空輸で運んだものだろうが、なかなかによかった。まさかカブールで中華の海産料理を食べようとは思わなかったのだが、さすがは中華料理である。進出が早く、素材も奢っている。
ついでにフラワーストリート(いや、チキンストリートだったか)と呼ばれる小さな通りを訪れた。何度目かである。
この通りはみやげ物によさそうな伝統的な工芸品などの産品を扱う店が軒を並べるところで、今日はアフガニスタンでも採れるラピスラズリの首飾りを買った。細工が特に良いと思われるようなものはないので、ごく簡単で、しかし大粒の石を使ったエスニックな雰囲気のものを選んだ。値段は、本当はいくらなのか分からない。安くたたいて買ったつもりだ。
夕食は、昼間がご馳走だったので、軽くお茶漬けだけにした。それでも、こんな中央アジアの異国でご飯やお茶、佃煮で作るお茶漬けは、なにか貴重で、とてもおつな気分になるものだ。
電力が使えるのは、通常夕方5時から10時まで。今日は5時半よりも早く着たので良いほうだったかもしれない。最近すこしずつ電気が来る時間は遅くなってきている。明かり消えるまでまでの間、こうして日記を書いたり、読書をするのを楽しみにしている。ろうそくで読書は続くのだが。
ああ、それから衛星放送のテレビもまた楽しみのひとつである。NHKの国際放送で見たのは、百人一首の歌を幾つか選んで作家や映画監督に旅をさせ、語らせるもの。なるほど良いものだ。帰ったら、日本のこうした古典の詩歌について、特に親しんでみたいものだと思わされた。
こうして、金曜日の休日が暮れていく。これは、特に静かに過ごした一日である。
2003.0106 月曜日
晴れ
気温は最低マイナス2度、最高18度。晴天続きで、ここ数日はかなり温暖である。
プロジェクトオフィスは、今日から日本人スタッフが僕だけになったので、代表者としてやっていかなくてはならない。現地スタッフと、矢継ぎ早に打合せと指示を行った。現状を僕がきちんとつかんでおり、冷静に物事を前に進めていけることを、早速、わずかでも示しておく必要があった。
ハードな仕事のことをおいて考えてみれば、同じアジア人同士というのは、西洋の人などと比べて、なんだか理解しやすく、ひとりで対していくのも、比較的やりやすいような気がする。誠実に、泰然としていることが徳目として見てもらえる部分があるといったところか。
夜、10時の停電開始からも、ろうそくで夜半すぎまで読書。集中できる。
書物は、青年のためには食物となり、老人のためには娯楽となる。富めるときには装飾となり、艱難のときには慰めとなる。と、古代ローマの哲人は言ったというが、まさしく。まだ老いていないし、お金もないが、これまで飢えをしのぎ、慰められてきた記憶くらいはあるので、それらがあれこれと思い出される。そういう記憶に、ろうそくでの読書が加えられるというのは、ちょっといいものだ。
就寝のとき、机の上のろうそくを消す。ろうの香りがするなかで、寝袋にもぐりこむ。毎日の最後のシーンである。
2003.0115 水曜日
薄曇り
カブールのまちは、ロシアの影響下で都市計画が行われたおかげで、一部の地域以外は十分に広く整えられた街路を持っている。モンゴル系の相貌を持つ人が多いハザラ人地区は、中世のような、細く入り組んだ地道ばかりが続いている。
日中、仕事で車を出してまちの中を移動していると、そうした街路で、たくさんの馬やロバを見かけ、牛追いや、山羊、もしくは羊の一群とすれ違う。運送の動力としては、人間もまた、よく活躍している。ちなみにこれも、悲しいかな、ハザラの人々が多い。あまりの運動不足で、体のなまって仕方のない僕は、食い込むように重い彼らの車を、おそらくほんの百メートルも引くことが出来ないだろう。
今日は薄曇りの日で、ぼんやりと、砂煙もまざっているのか、またスモッグもあるのだろう。かすかに薪の焦げるような香りを含んで煙る冬の大気。7時すぎの日の出、5時過ぎの日の入り。夜が訪れるのは、毎日とても早い。広範な業務と雑務をこなして、今日も暮れていく。
聞くところでは、アフガニスタンでは新憲法の制定にむけて準備作業が進められているという。3月の草案提出が、最初のめどであるそうだ。
僕の個人的な印象を言えば、憲法はともかく、国の復興の速度は遅い。いつになれば、それなりの体を示した国となれるのだろうか。テレビで見る世界情勢は、9.11とアフガニスタンのことは既に話題の中心から去り、次なる紛争の軸となる、イラクと北朝鮮、イスラエル・パレスチナの方へとシフトしてしまっている。この国が、国際社会から忘れ去られるとは思わないが、時は流れていくものだ。しかし、シフトしていった先の問題は、やはり困難な問題で、さらにややこしいのは、アメリカと西洋諸国、もしくは他の地域でのテロの危険性が依然高いままであり、そうした不安定な空気はますます高まりつつあることだ。
イラクで万一なにかあれば、ここカブールでも何らかの警戒をしなくてはなるまい。とんだ迷惑である。紛争の解決としての戦争は、永久にこれを放棄せよ。実力という名の暴力を、いい大人の集団が、おおっぴらに行使するなんて、まったくうんざりだ。
正直な気持ちである。競争といさかいの勝者になることを目指すより、できるなら、それぞれの宿命のようなものを、自ら克服して変わっていくことはできないものだろうか。
オフィスのスタッフに、まだ24歳の通訳の青年がいる。仕事で、たまたま、かれの母校である小学校を訪れることがあった。めずらしく、彼の母校は戦災のダメージが少なかった。
しかし、その地域も、内戦の舞台をまぬかれることはなく、彼の友達は、ロケット弾などのために何人も亡くなっている。ある日突然、学校へ来なくなるのだ。授業も、できるかと思えば、戦闘がはげしくなって休校となることも度々だった。
彼は背が高くて、ちょっといいかげんで調子もののところがある、ごく普通の青年だ。でも、その心には、焼いた火箸を押し付けたような、痛々しい傷を抱えている。
べつに日本が特別幸せな環境であるとはいえないかもしれないが、しかし、ここに、そのとき生まれてきたというだけで、なんということだろう。あるものは、牛馬のように働く以外なく、あるものは、目に見える傷という形で四肢のいずれかを失い、あるものは目に見えぬ哀しみを抱えることとなった。もちろん、不幸せばかりではない。それらに翻弄されっぱなしにはならない立派な人も、実にたくさんいる。しかし、比べてしまうのは愚かではあるが、茫然とするばかりの事実と言うほかない。
その事実とは、茫然とするような不条理なのか。違う。
飽食の平和ボケと、優位を譲らぬ乱暴と、民衆を路頭に迷わす頑迷と、抗うすべもなかった残酷が、まるでひきだしをひっくり返したみたいに、ただごろごろと転がっているという、非情で無機的な状況。地球の表皮には、そうした情景がひろがっている。一体、人間は何をしているんだろうという気持ちになる。
2003.0124 金曜日
晴れ
昨日今日と、素晴らしい天気だ。光が澄んでおり、照らされている地上のものは、ことごとくが輝いて見える。チリでもこういう光線を良く見ることが出来た。日本でも、高原地帯の、そうだな、田園などでは見られるような気がする。これは、科学的にはどのように説明されるのだろうか。はればれとして、実に美しい。陰鬱さは、かけらさえもない。
午前、インターコンチネンタルホテルを覗いて見た。カブールにも、インターコンチはあるのですよ。
DACARという名の、デンマークの組織がある。この組織が主催した、アフガン女性による工芸品即売会がロビーで開かれていた。市内の店と比較して、とくに良い品がそろっているというわけではないが、本来的にアフガン人支援のために行っているのだから、これを買うのも一興だ。値段も高いというわけでもなさそうだった。母などにどうかと思い、ショールなど買う。製品は、みなテキスタイルである。
2003.0125 土曜日
曇り
日差しが乏しく、日中少し寒い。
この水曜ぐらいからか、イラク情勢について、アメリカがかなり強硬な態度に出るようになってきており、非常に気になる。
大量破壊兵器の査察団の判断は、白でも黒でもない、グレーなものになるらしいのだが、これでイラクが非協力的であるというコメントを発したのだから、すなわち、米英の武力行使は、すでに彼らの考え次第となっているとも言える。
査察団は、イラクに対しては、そう悪くない評価を口にしていたとも言うし、イラクの担当者が、それがどうして国連に帰ると非協力的といわれるのか、と、憤懣のほどを述べているのをニュースで見た。
そもそも、決定的な判断を示しにくい査察活動になったなら、あとは、「予期されるべき結論」にどうやって落とし込もうか、という動きになるにちがいない、とかんぐられても仕方があるまい。
僕は、はっきりと武力行使、武力の衝突には反対する。いかなるタイプの犠牲もあってはならないと考える。すべての努力は、対話と信頼と平和と幸福へ捧げられなくてはならない。だれびとも、傷つき、殺されるような筋合いはない。このような努力を放棄し、犠牲を正当化するのは、すでに悪に屈しているもののやることだ。
今、戦乱が巻き起こるときに恐ろしいシナリオのひとつは、日本の全方位的な外交努力の歴史が終焉することであるかもしれない。と、日本人としては考える。
このところドイツとフランスが戦争を回避するように動いているが、うがった見方をすれば、ロシアや中国以外に、戦争がおかしな方向へいった場合に収束のためのイニシアチブをとる役割を買って出ている、つまり、アメリカ以外に問題解決の調停役を作っておこうと、欧米が話をつけているように見えなくもない。日本は、本来ならば、調停こそ出来ないまでも、平和のときの金庫番くらいならすることができるものを、もしも湾岸戦争のときを上回るような、あからさまなアメリカ支援を行うことになれば、これは、世界中の一定の勢力に対して、正々堂々、敵になって御覧に入れます、といわんばかりの行為となる。下手をすれば、窮屈な立場になるだけでなく、捨石にさえされてしまうかもしれない。これは心配のし過ぎだろうか。ニュースによれば、武力行使となった場合には、日本は後方支援と終戦後の復興支援をしてほしいと、アメリカから打診されたのだという。アフガンと同じパターンだが、今度は、そんなに単純な図式ではない。
ともかくも、戦乱が起きないこと。分断と抑圧と怨恨がうずまくことのないことを祈る。協力と開発、対話が求められている。それを断じて実行する、驚異的なまでの勇気が求められている。それが力というものだ。武力は、あらかじめ暴力に屈服したところにしか発見されない、人間としてはみすぼらしい、避けるべき手段である。どのような大義も国家も、類別すれば、武力を容認するものは、本質的にヤクザやギャングと同じであると僕は思っている。彼ら裏の世界の人々は、世間で大手を振っていないだけ、謙虚で常識があるのかもしれない。
2003.0130 木曜日
晴れ
昨晩は、大雪だった。カブールは真っ白な雪に覆われて、いつもと違った佇まいになった。しかし、今日の晴天と、昼間の暖かさは、昨日積もった雪をみんな溶かしてしまった。夏は夏で、晴れたり砂嵐だったり。日々主人公が変わってしまう、変な芝居でも見ているような気分だ。
少々風邪気味だ。のどが痛い。寒気がする。空気が汚れていて、とても寒い。ただそれだけなのかもしれないけれど。
2003.0215 土曜日
雨時々霙
起きて見えた空が真っ白だった。雪が降っているでもなく、しかし、それは午後からの霙を予告していたのだった。ざあざあと音がしているように、霙は降った。
午後、現場。追い込みに入るので、これから半月はかなり忙しくなるだろう。しかし、ここも数ある現場のひとつに過ぎない。プロジェクトがすべて終わってしまうまでは、まだ半年以上の時間がある。まず、ひとつを終わらせることだ。
昨日の国連安保理では、イラクの査察をあと半月延ばして行っていくことになったらしい。それにしても、このイラク問題ほどに先行きが不透明なことも珍しいと感じる。
ほとんど期待していないけれど、意外な提案や行動をプッシュ大統領がとるということはないだろうか。そして、世界中がなあるほど!と、ひざを打つような、事態打開の展開を見せてくれることはないだろうか。そしてそれが、この先の世界に対して、なんだか希望が持てそうな気持ちに、みんながなるような、そんなことってないだろうか。指導者たるものにもとめられているもので、最もたいせつなことは、納得と安心を民衆にもたらすことではないかと思っている。不満と不安を、民衆にうまく我慢させることではない。
4月にはいれば、イラクの過酷な気候が戦闘を拒むようになる。さしあたりの決着は、大方の予想どおり、たぶん3月中にはついているだろう。
ともかくも、どのような犠牲も許されてはならない。指導者達が、己が命を削って、一切の犠牲を伴うことなく、この問題を解決することを願っている。
2003.0221 金曜日
晴れ
ここ数日、天候が回復してきたのだが、その前の1週間というもの、雪ばかりでびっくりしたものだった。わが事務所の、二十歳代のアフガン人スタッフは、こんなに雪が降って積もっているのを見たのは初めてだと言っていた。
今日は休日だが、完成を控えて忙しい現場があるので、そこへ午前中だけ出かけた。
昼食は、カブールで最も大きく、格式の高いインターコンチネンタルホテルへ行き、そこのビュッフェでとることにした。一人8ドルである。
他の日本人スタッフとともに、3人で出かけた。ひとりは去年の春からたびたびカブールに来ている、いわばベテランである。彼いわく、当時のことを思うと、今のこのホテルのレストランが、こんなに繁盛しているのが信じられないという。そのころは、客も閑散としており、料理の味もひどいものだったそうだ。今は、国連の関係機関やいろんなNGOの人々を中心に、待ちが出るくらいの客が来ている。彼らの多くは欧米の出身だ。落ち着いて欧米式の料理を食べ、それに合った流儀で普通に振舞える空間があるのは、彼らにとって貴重なことなのだろう。ほかにこのまちで欧米人に人気があるのは、B's
Placeというブラッスリー風のレストランと、アナールという名のタイレストランだ。3軒ほどある中華料理店も外国人の出入りが多い。いずれも酒を出すか、持ち込みでなら酒が飲める場所である。
インターコンチでは酒が飲めるのかどうか、それは知らない。
カブールは人口200万を越える大都市ではあるが、普通の意味で、大抵のひとにとって娯楽に欠けるまちである。僕にとっては、歓楽はまるで魅力のないものなのだが、そうしたものが乏しいと、それはそれでまちの相貌が寂しくなるような気がする。また、郊外に出て行くことは治安上、職務上難しいので、遠出をすることもままならない。そもそも昼間、街中で女性を見かけることが少ないし、ブルカを被った中年以上の女性ばかりとあっては・・・
こうした状況だけに、たとえば結婚式や、日常のお茶とお喋りは、カブールの人々にとって重要な歓びの時間なのだと思う。おんな達も、家の中ではかぶりものを取って、のびのびとしているという。
問題は外国人。特に日本人だろうか。なかでも脂ぎったおじさん達には非常に殺伐たるところでしかないので、かなり辛いところである。
僕にとっては、まあ、僧院だな、ここは。まちごと大きな僧院なのだ。
2003.0302 金曜日
晴れ
今日、カブールを発って日本へ向かう。国連機ではなく、今度は小型のビーチクラフトで。これに乗るのは3回目になる。
またあとひとつきしたら、カブールに戻ってくることになっているのだが、今現在、プロジェクトはかなり忙しい時期になっていて、1月のように日本人が僕ひとりだけという状態ではないものの、ここで帰国するのは相当気が引けるものがあった。気が引けるかどうかはともかくとしても、いやはや、この1週間というもの、てんてこまいだった。
これからのひとつきは、やまである。僕は日本から支援していかなくてはならない。
忙しいとき、自分や他人のミスが重なったりもして、大変な状況が、よりいっそうたいへんになってしまうことがある。負担が重すぎると感じると、悲しいことだが、仕事が嫌になったり、他人を揶揄する気持ちになったり、あるいは鬱々とした気分が重苦しくてならなくなってしまうものだ。
正直に言えば、恥ずかしながら、ここ最近そんな風だったのだ。
しかし、でも、そもそもどうしてこんな仕事をするようになったのか。目指すもの、望むものがあったからではなかったのか。もしそうであるならば、困難はどこにでも、どんな風にも起こってくるものなのだから、それにやり込められてしまっているのでは頼りのない、覚悟のない話である。
いったんは巨視的に見よう、そして原点から考えよう。
そう決めて、まとめた荷物を持ち、帰途につく。
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