Diario
日々の記録


 


 
2002.1202 月曜日

 今日から海外出張。来年の雛祭りに帰国の予定だ。3ヶ月したら帰れるのだから、準備はいい加減なものでよかったが、それにしてもどんくさい僕なので、いつもながら手早くできなかった。これがうまくなれば、ゆったりとした週末をこの土日など、楽しむことができたものを。

 思いつく本を、たくさん持っていく。海外における現場の担当者としての暮らしは、それこそ僧院のようなもの。早寝早起き、規則正しく。そのなかに、精神的な充足と学びを差し込みたいと思う。



2002.1201 日曜日
曇り時々雨

 冷たくよどんだ空。昼間、会社へ出て片づけを。その足で散髪を。明日から約3ヶ月のアフガニスタン出張に備えて。

 夜、親に電話しておく。元気で働いていることに喜び半分、心配半分といった様子か。しかし、カブールに限って言えば、これまでの経験から言って一般的な治安はとてもいい。なんの心配もない。心配なのは、あの国の行く末だけだ。このまま平静にことが進み、だれもが安心して暮らしていけるようになるには、やはりまだ遠いのだ。くにづくりとは、大変な作業である。そこでのひとりひとりの生活もまた、大変だ。

 夜、引き続いて荷造り、準備を進める。今日、久しぶりのこのページのアップだというのに、またしばらくはアップできない。来年の早春の3月まで、どうか世の中平穏であってほしいと思う。
 向こうの真冬は零下10度を下回ると聞くが、今はまだ下がって0度だそうだ。まともに出ないシャワーが気がかり。

 夜半、年賀状づくりなど。



2002.1128 木曜日
晴れ

 家を出て、出勤の朝、すぐそこの駐車場の角を曲がると、家並みの屋根のその上に、どんと輝く富士が見える。
 つるつる、きりきりと冷えて澄んだ、今日のような朝に、こういう風景とはじつに贅沢なことだ。

 この1週間と少しばかりたて込んだ仕事も落着した。ゆっくりと自宅で夜の食事を楽しみ、テレビを見る。

 大学の同級生と、職場同士でちょくちょくメールを交わす。向こうは京都の片田舎から。こちらは東京の片田舎から。
 それで、この間は四国のうどんを送ってもらう僥倖に恵まれることもできた。
 彼は既に妻もおり、子供もいる。その家族における、病との闘いについて、というよりは、彼自身のありかたがどうであったかということについて、昨日今日と交わしたメールから知った。どうぞ腹をくくって、必ず治せ、というしかなかった。よくなってくれなんて言わない。
 しかし、当の彼らは、落ち着いて、困難には静かに強く戦略を練って、立ち向かってきたし、これからもそのようだった。
 がんばれ、まけるな。



2002.1124 日曜日
曇り

 買い物。ハードディスクにIEEE1394キャプチャーカード。それからアフガン越冬用の(おおげさな)肌着と冬用スリッパ、そして靴。軽くて黒い、革のワークブーツ。

 夕食はすき焼きを。うまい。



2002.1121 木曜日
曇りだったか

 午後、病院へ。先日の検査結果を聞きに行く。
 病院の指示のミスでCTスキャンの前に食事をしてしまったので、胆石かどうかは診断できなかったそうだ。普通なら費用の弁償か、やり直しを主張するところである。が、まあ問題とするほどのことはないようだ、とのことなので、帰国後の3月に再検査を超音波で行うことにした。少なくとも、他の大変な病気には縁がない現状と言うことは言える。ああよかった。

 健康第一。


2002.1120 水曜日
少し曇り

 今年は例年になく紅葉の当たり年で、特に京都などはほんとうに綺麗だったそうだ。いっそう冷えてきたし、そろそろ季節も終わりだろう。

 昨日から新しいプロジェクトに少しだけ首を突っ込んだので忙しくなっている。

 9月11日のテロ以来、まだ世界は揺れてしまっていると思う。なにごとも頼りなく、正しいこともただの欺瞞としての顔を疑われてしまうようになった、ような気がしている。
 ただ政治だけが世界を代表し、動かしているとは思えないけれど、しかしその政治の世界は主張と衝突、妥協等々、どこまで行っても手段しかない。マスメディアも、ここへ来て錯誤かと思うほどに一方的で一面的で、しかも俗っぽくて浅い報道しかしないように感じる。
 環境は確かに揺れている。しかし、大切なことはそればかりだったろうか。結局揺れているのは自分自身ではないのだろうか。こういう時にも耐え残る自分自身を確立すること。もしくは、そうしようとする、虚しくないひとあしひとあしが大切だろうか。
 不安に押し流されるのは愚かなことだが、賢明であることはいかに難しいことか。



2002.1117 日曜日
曇り

■インドとパキスタンの展示
 朝一番、開館と同時に入る。東京国立博物館で行われている、仏教美術展である。平成館の展示室両翼を、片方ずつそれぞれに当てている。
 パキスタンのガンダーラのものは、技も巧みで華麗なまでの造形である。みていてほれぼれとする美しさ、端正さだ。一方、インドはマトゥラー等のものは、陽気で横溢するような生命力が漲っている。
 それにしても、同時期に、同じ会場で行われている展覧会の宣伝が別々なので不可解だ。電車の中吊り広告なども、両方一緒になっていない。入場料は一度に取るにもかかわらず。両国の微妙な関係があらわれているのだろうか。

 江戸川へ。アマチュアオーケストラの定期演奏会。会社の同僚が参加している。立派な演奏会だった。

 夕方になって、なんだか調子が悪くなってくる。風邪だろうか?



2002.1116 土曜日
曇り

■ナイーブなどど言うなかれ
 なんだか寒い朝だった。眠く重いからだを引きずるようにして起きて着替え、仕事へ出かけた。今日も、先日と同じように横浜に向かった。

 昼で仕事は終わった。桜木町の駅前が賑わっているのを横目でめんどくさそうに見て、僕は電車に乗った。

 みうらっち宅へ。ここ数ヶ月の作品等の図面などを見せてもらった。アンチョビ、チーズ、クラッカー、ワイン。そして夕食も。楽しいひととき。

 世の中、なぜか真摯で真っ直ぐで、すれていない志のことを差してナイーブと呼ぶようだ。実際、わずかは自嘲も込めた言葉でもあるだろう。しかし、ちょっと失礼な物言いではなかろうか。
 ものごと、決着というものはそれぞれの個人がつけていくものなのだから、それをどこかで手を打ってしまった人間が、多数派であることを頼みに真っ直ぐな他人を揶揄するとすれば、それは醜いと思える。
 真摯なるナイーブさは、しかし力強くありたいものだ。すべからくもの造りをする者なら。

 と、われも含めて、元気づけようという気がする一席だった。だが、僕が言うとなんだが、彼に芽が出るのはもう時間の問題だと言う気がしている。がんばれ。

 夜になって、冷え込みが厳しくなってきたように感じる。どうも酒が利きすぎたか、頭が痛くなってきたようだ。寒気は風邪か?と、風呂にじっくり入り、布団にはいることにした。



2002.1114 木曜日
晴れ

 秋が深まってからというもの、通勤のモノレールから富士山がよく見えるようになったのが嬉しい。僕は朝、必ず西側の窓辺に立って、富士を眺めることにしている。

 注文していた本を受け取った。講談社漫画文庫「12色物語」。坂口尚の残した作品中でも、特に佳作とされる12作の短編シリーズだ。これまで何年ものあいだ、欲しくても古本でも手に入らず、ほとんど絶望しかけていた。

 帰宅後、この本をゆっくりと読んだ。読みながら、作者の後輩に当たる方から以前聞いたことを思い出していた。
「分かって欲しい、と、分かってたまるか、を、いつも同居させて描いている。」
 作家は、そう語っていたそうだ。
 人間は、どれほど個々人に違いがあろうと、結局は海の波のように、深いところでは底知れぬ繋がりを持って、波浪やさざ波として生きている。坂口尚は、その繋がりの深さを信じて描き続けていたのだろうと思う。12色は、その千変の波を妙技で切り取るようにして作った、珠玉を納めた箱である。



2002.1112 火曜日
晴れ

 午後、病院で検査。出張が近いので、かなり大げさだがCTスキャンなるものをうける。胆石が疑われる様子。親父臭いなあ。



2002.1111 月曜日
晴れ

 12月初旬からの長期海外出張にそなえて、自主健康診断に。心配は、いまのうちになくしておきたいので。
 市立病院に行く。最近建て替わったばかりで、充実した公立病院だ。内科の診察から受けた。先生が親切で安心した。

 医療施設は、なんだか不思議なところだと感じることがよくある。そこでは、クライアントである病人達は、お金を払って医療サービスの提供をしてもらうわけだ。しかし、なぜか医師や看護師のほうが立場が上のように振る舞うことがある。
 彼らはたしかに教師と同じく、いわば聖業に従事しているわけで、その意義と使命に対する敬意の表現として、クライアントはあえてへりくだることもできるのだと思っている。しかし、これまでの経験では、お客さんとして報酬を約束してくれつつ、責任を持つべき対象としての患者に対して、どうにも不可解な態度の医療従事者、技術者は多いと感じている。僕自身、技術系のサービス業に従事しているわけだが、彼らのようなことは考えられない。僕の仕事の場合は、相互ではない・・・すなわち一方からの敬意とは、すなわちクライアントからであるはずはないのだ。早い話、お客さんに当たる人に対して、偉そうにしてはならないのである。医師は僧侶ではないのだから。

 しかし、今日訪ねた病院の応対は、なかなかによかった。特に医師の方は、率直で礼儀正しかった。患者と対等の立場で問題の解決法を探るような、率直な態度に安心を感じた。

 初診なので、診察の前に問診票を書いた。なにか重大な事実が分かったときは告知を望むかどうか。そういう項目まであって、少しびっくりした。
 僕は、告知してくれないとだめな方である。してほしい、というのではなくて、必ずしてくれないとだめなのだ。

 まあいいや。たまに病院に来ると、いろいろ考えるものだね。



2002.1109 土曜日
晴れ時々曇り、一時雪

 西武秩父線に乗った。山間の田舎を抜けていく。途中友人らと落ち合って3人で降り立ったのは芦ヶ久保駅。

 西武鉄道が主催するハイキングラリー。しかし、山道をたどるこのコース、本格的なトレッキングではないか?と誰もが思ったはずだ。急峻な斜面の道を登る登る。へこたれる中高年者多し。かくいう僕も同じだった。

 帰り道、一杯飲んで帰る。



2002.1104 月曜日
小雪舞うこともあり

 八ヶ岳も3日目を迎えた。2泊したペンションを出る。宿の主人に、これからビーナスラインを通って松本へ行きたいのだが天候が気になっている、と尋ねたら、小雪こそ舞っているが晴れ間もあるし大丈夫だろうと答えた。

 実際のところ、茅野の外れまでたどり着いて、さてビーナスラインの中継点である白樺湖への道を行くと、降りてきてすれ違う車はどれもかなりの雪を被ってきているし、山も山腹だけ見せて頭はすっぽり雪雲の中。僕のおんぼろ軽自動車はノーマルタイヤしか履いていない。素直に安全をとって、山にはいるのはあきらめた。

 高速に乗り、松本へ。中央アルプスはうっすらと雪化粧。天気は曇り。悪天ではない。ただ、この連休はずっと冷え込んだままで、今日も相当寒い。正午を越えても、気温は5度を切っている。

 松本市の少し郊外。ある、思い出の場所を訪ねて歩いた。
 古い小学校も。ここは僕の母校ではないが、しかし、たくさんの彼や彼女が、ここで学び、遊びしていった。そんな記憶の澱が、かわいらしく愛おしく、匂っている。そういう場所だった。小学校は、どこもこういう匂いのする場所でありたいものだと思った。僕の母校は、いまごろどうなっているだろうか。

 帰路は北回りで高速に乗り、関越道に合流した。渋滞にまきこまれてしまった。

 無事帰着。3日通して、天候に恵まれた。週間予報では雨が続くと言っていたが、蓋を開けたらそこそこの好天。部屋につるしてきた照る照る坊主の効用か。帰宅したら、まず最初にその照る照る坊主の頭をなでてやった。

 就寝前、日記を書きつつ、買ってきたわさび漬けで晩酌など。

 小泉首相が、カンボジアを訪問中。文民警察官として選挙監視活動中に殉職した岡山の警察官がいた。彼のために建てられた碑に参ったとのこと。
 志ある人が逝くと、ひとはみな、惜しい人を亡くした、という。もっと仕事ができたのに、等と。そうした話がマスメディアで語られるたび、反発のような気持ちを覚える。ことは一生の問題ではないか。殉職した方ならば、なおさらのことだ。語りつくすべくもない、掴みきれないほどの拡がりがあったはずの人生を措いて、そのひととき仕事に捧げられたのだから、そのことに尊さを感じる。仕事だけではなかっただろうに。
 他人様のこととて、それぞれのことだろう。しかし、生も死も、全体的なものなので、とても仕事であるとかいった、「顔」だけのことを捉えて済ませられない。誰が死のうと、そのような思いにかられてしまうのだ。



2002.1103 日曜日
曇り時々晴れ

 車で出発。近くの喫茶店で紅茶とパンの朝食をとる。暖炉にはちゃんと薪で火が入れられており、ほの暗いままの西洋のテーブルは暖かだった。

 八ヶ岳の裾野を巡る道で、野辺山へ向かう。紅葉の美しい道。どの車ものんびりと走っている。木々の葉の色は、黄色や橙が基本。よく冷えた大気の中で、風と太陽に揺られてりんりんと鳴っている。

 野辺山には、国立電波天文台がある。45メートルのアンテナを見上げるのは気持ちがよかったが、すかっと晴れた青空に、びゅうびゅうと吹き抜ける冷たい風には参った。真冬の寒さである。

 帰り道、清里に寄ってみる。駅前は相当に俗っぽく、げんなり。あったまろうと入った店のほうとうが、全くたいしたことがなくがっかり。



2002.1030 水曜日
快晴

 出張の合間でもあり、このところ、割合早く帰ることができている。そうなると、家で食事をゆっくりとれる。残業がないときの、これが最も素晴らしい点だ。

 余りに腹が減っており、買い物をして帰る気にもなれなかったから、家に置いてある食材だけで何か作ることに決めたのは、電車に乗ってから。
 しかし、余りに腹が減っていたので、せっかくだから炊きたてのご飯が食べたくなってしまい、ゆっくり米をとぐ始末。一貫性のないこと。おかずはキャベツやエリンギ、ピーマン、ソーセージなどで作ったポトフ。あとは豆腐など。

 粗末ながらも、ばたばたと過ごす仕事場を引きずることなく、ただもぐもぐと、しかし落ち着いて顎を動かし味覚を楽しむこと。この数年来、食事の時こそが自分自身を取り戻す最大の場となっている気がする。

 まだキャベツもあるし、アボガドも持っている。明日の夕食は軽くやろう。



2002.1029 火曜日
晴れ

 昨日に続いて晴天。空気はよく澄み、はるか遠方も見渡せる。多摩のオフィスの窓からは、遠く新宿の高層ビル群や所沢の西部ドームなどをくっきりと見ることが出来た。排気ガスの紫とも茶ともとれない色のフィルターは、今日はほんの少ししかかかっていなかった。

 夕方で仕事をいったん切って、英語のレッスンに出かけた。2月頃からずっと行っていなかった、某社の駅前留学である。3ヶ月行かないと、レベルチェックのテストを受けさせられる。1レッスンの2倍相当の授業料がかかってしまう。そのかわり、レベルが上がっていれば飛び級できなくもない。結果は、前より格段に高いレベルと認められた。合計4ヶ月程度とはいえ、海外で英語を使わざるを得ない状況が続いたせいだろう。ただし、発音とイントネーションは問題があるとのこと。英米系のネイティブのいない国にいては、こればかりは鍛えようがなかった。

 外国語でのコミュニケーションにおいて、大切なことって何だろうか。身も蓋もない言い方だが、重要度という点から言えば、僕はコミュニケーションそのものが最も大切と考えている。つまり、聞いてよく分かること、こちらからは言いたいことが伝えられること。これである。
 綺麗な言い回しとか正確な発音は、よほど高度なレベルにおいて要求されればそれでよいことだ。それよりも実質が骨太にやりとりできることが重要だと常に感じている。カタカナ英語、大いに結構。伝わればそれでいいのだ。
 ただ、ネイティブのグループの中に分け隔てを感じないで入っていこうと思ったら、そんなレベルでは話にならない。言葉の上での違和感というものは、これ以上ないほどの、敬遠の材料になりうる。



2002.1027 日曜日
晴れ

 江戸川沿いの土手道をサイクリング。市川市本八幡あたりから、江戸川区は葛飾柴又まで。友人その他で総勢は4名。
 昨日の悪天候からはうってかわっての晴天。楽しい小旅行だった。サドルが僕に合っていればもっとよかったが。

 日を改めて、是非自転車を買いたいと思ったいちにち。しかし、帰りは新宿で買い物など。思いつきで服ばかりかなり出費した。



2002.1026 土曜日
曇りときどき雨

 隊次は違えど、同じくチリで協力隊員だったタイヨー君とミワコさん、そして僕の3人で、奥多摩は秋川渓谷なるところへ。そして買い込んだ肉、野菜でアサードを催した。
 アサードとは、すなわちこれ、チリ近辺のバーベキューのことである。ただし、アサードなれば、肉は細切れであってはならず、どかりと置いた塊を、時間をかけて炭火で焼いたもの。そして味付けは塩に限ること。これらのルールを守らないといけない。かどうかは知らないが、まあ、大抵そうなのだ。

 美しく、小さな山間の流れと傍らの炊事場にたなびいた煙。燻されて煙いけれど楽しいものだ。空模様といえば、あいにくぐずついてはいたが、食べている間だけは止んでいた。

 僕らはみんな、もう間もなくそれぞれ出張だの海外勤務だので暫くばらばらになってしまう。こうしてゆっくりと一緒に時を過ごすことが出来る機会も、もうなかなかないだろう。ともかく皆、健康であれ。



2002.1024 水曜日
晴れたり曇ったり

 いつのまにやら、また天気を付すようになった。やっぱり書いといた方が、あとでなにかといい。読んで思い返すにしても、その日の天候のイメージというものが、意外なほど何事についてもつなげられて記憶されているものだから。

 帰り道、電気の量販店に寄った。昨日、シェーバーを買った店だ。昨日に続けて、外付けのハードディスクを眺める。2万円前後で、そこそこのものならば買うことができる。しかし、僕の場合、使っているのがマックなのだ。60ギガなどという大容量になってくると、仕事で使ってもいるウィンドウズ系のパソコンとも互換性があった方がいい。接続のデバイスはいろいろと種類があり、また複数ついていて、そのコンビネーションも頭を悩ませる。そのうち、そもそも新しいパソコンでも買えばいいのではないか、ということも考えてしまう。
 結局、今日は買わずにおいた。

 帰宅。スーパーで買ったニジマスを塩焼きにして食べる。美しく、うまい魚だ。



2002.1023 火曜日
晴れのち曇り

 夕刻、退社したつもりになって、いったん外に出た。散髪と買い物。アフガニスタンに行く前に切って以来。相当伸びていた。すっきりする。出発前に来月末も行くことになるが、今度は妙に近くなってしまったものだ。
 買い物は電気剃刀。1万円以上出して、フィリップスのそこそこのものを買う。この円い歯が3つ並んだシェーバーが、昔から欲しかった。毛足が長くても、そこそこ剃れてしまうところがいい。でかいけど、これで水がなくても髭が剃れるようになった。いつでも水が出る国ばかりでもないから、シェーバーもあったほうがいいのだ。



2002.1022 月曜日

 よく降った。寒くなっていくことが、新鮮に思われる。そんな自分が不思議だ。

 日が暮れるのが早い。日没前、しばらくだけ夕日が射した。そうすると、そこへ大きな大きな虹が出た。オフィスは多摩川へ向かって建っており、何の障害物もない。みなわいわいと虹をみるために窓辺へと寄った。スペイン語の分かる人と、あっちの言葉でなんだっけ?と話した。あるこ・いりす。そうそう、そういったんだったっけ。



2002.1020 日曜日
曇り時々雨

 混んだ国道をやり過ごしながら東名高速に乗り、御殿場で降りた。アウトレットの大型店があるというので、買い物に来たのだ。既に夕刻なのに人気が高いのか、駐車場は満車。しかたないのでしばらくの間、山中湖を見に行った。
 富士の裾野は広く美しい。色づき始めた山の色。どんなペンションも安物には見えない。ゆったりと豊か。

 アウトレットでは全店見学した。ズボンを2本買ってみたが、日曜の閉店前だからと理解しているものの、どこも安売りを意識して品揃えは2級品と見た。今度、土曜の午前中に来てみようか。じつはいいものがあるのかも知れない。
 店は全て平屋である。デザイン、特に色彩計画がおちついていて、そこが気に入った。目が痛くなるような、どこか安っぽい色使いは、このアウトレットモールには使われていなかった。



2002.1019 土曜日

 朝は起きたものの、午後昼寝が長かった。気付けばもう日は暮れてしまっており。



2002.1015 火曜日

 えーっと、何したっけ。ひさしぶりに日記書いたっけ。



2002.1014 月曜日

 この連休は、ずっといい天気。関西はかなりの暖かさで、半袖で十分なほどだった。

 午後、家を出た。もりちゃんの家に寄り、今日ちょうど1歳になったという、かわいい息子に会う。奥さんも、いつものように明るい。それにしても、子供の、親父にそっくりなこと。
 厚意に甘え、新大阪まで車で送ってもらった。

 帰省の新幹線は、自由席車両の廊下が溢れるくらいの混みよう。ちょっと疲れる。

 帰宅までに宮本輝の「避暑地の猫」を読み終える。今まで読んだことがなかった。ちょうど氏の作品史においては、転換期のものと言えるだろう。悪とか、罪、について書いている。まさしく「罪と罰」の世界でもあり、水上勉の作品に描かれるような、どこか暗い運命も思い出させる。
 しかし、それでも彼の作品の主人公は、自らの宿命に対して不平を述べず、まっすぐ対峙していこうとする。この一点に置いて、氏の作品には一貫するものがある。卑怯にも逃げ、ごまかすような、愚かな人間の姿ばかりで作品を埋め尽くすことも出来たろうが、そんなことはこの作家には許せないのだろう。それでは小説にする意味がないのに違いない。

 9時過ぎ、自宅着。



2002.1013 日曜日

 3連休といっても、昨日夜遅く着いたものだから、大阪での滞在は短いものになった。

 午後、妹と共に心斎橋界隈へ出る。鞄のデザイナーである彼女の、今日は納品日なのだ。こうしてときどきはプライベートなビジネスもやっている。商業ベースではないにしても、自分のブランドも持っている。たいしたものだ。

 暫くぶりの大阪中心部は、しかし数年空けたわけでなし、そんなに変わっていなかった。ただ、南船場などの難波の北方の業務地域一体には、噂通り若向けの雑貨屋やカフェが雨後の竹の子のように増えていた。もともとは繊維を中心とした問屋や営業所の事務所がぎっしり詰まった業務地帯である。全くmeets regional(関西ローカルの情報誌)の世界。道を行く人達は若者ばかりだが、アメリカ村の子供と違って、なんだかシックな人達が多い。東京よりもずっと大人っぽいかも知れない。まだしかし世代が若いので、もう少しおじさんおばさんが増えれば、さらに本物っぽくてかっこよくなるかも知れない。しかし、そうなるとミナミそのものになってしまって、こてこて化してしまうのだろうか。碁盤の目のようなすっきりした街路はほとんどが一方通行で、大阪らしいけれど、じつはヨーロッパの都市に似た横顔が内蔵されている。あともうすこし頑張ればいい。そうすれば、往時の品格も戻ってくるだろうか。

 夜、京橋にて母親も加わって豆腐料理など。
 いただきました。ごちそうさまでした。



2002.1012 土曜日

■帰阪
 午前遅く起床。

 午後、鉄道で帰阪の途に就く。週が明けて月曜日は、今年の体育の日。3連休である。年末からは、また出張の予定がある。今回帰らなければ、もう暫くは大阪へ戻ることが出来なかった。

 新幹線から黄昏ていく日本の風景を眺める。まったく飽きない。ちょっと電柱がうるさいほかは、田畑と里山と集落やまちが連続していく沿線の風景。清潔で、美しく、そして生活風景としてもいいものだなあと思う。いずれかに住むことになったとしても、僕はそれを受け入れる。

 実家へ着いてすぐに出かけた。同窓会というのではないが、中学の頃からの仲間達と会って飲んだ。
 20年ぶりのやつもいるし、20年来の付き合いのやつもいる。

 皆、30を過ぎた程度の歳の男ばかりだ。まだ人生を振り返ってどうこういうようなことはできない。それでも少年時代は、はるか四半世紀近い昔の時間。思い出である。
 きょう集まったのは、ほとんどが生まれ育った土地から離れずに暮らしているやつらだ。今はそれぞれ嫁さん子供がいたりして、それぞれしっかり働いていたり、職探し中だったり、独立準備中だったり、結婚準備中だったり、あるいは療養中だったりして・・・・まあ、境遇はそれぞれなのだ。
 昔、市内の中学同士の抗争で、友達同士なのに相まみえてしまったやつらもいる。決闘しながら、こいつだけは助けたってくれ!などと叫んだよと、大笑い。等々。
 しかし僕らは、20年を経て、ともかく不思議な希望の中を生きていたのだ。これ以上に素晴らしいことがあるだろうか。
 平凡という言葉でくくられても、あるいは苦悶の日々でも、それぞれの日常が尊く思える。もしも、こんな風に互いに鏡となるような友がいなかったなら、どうして今日、こんな風に現在の日常を確認することができたろう。

 すっかり元気になったKが、今度は忘年会をするからと述べて、集まりはお開きとなった。久しぶりの自転車で、冷たい夜気に沈む、ちょっと冴えない故郷の、片田舎の道を走って帰った。運良く職にありついて元気で働いており、こうしてたまには地元に帰ってこられることに感謝しながら。



2002.1003 木曜日

■座椅子の記憶
 昨日来、下痢である。今日はかなりひどくて、出勤前に4回、正露丸を飲んで出たものの、会社でも数回。そして帰宅後も数回、便所に走った。
 社内では、ほかにアフガン経験者がおり、そのひとに聞いてみると、同じように帰国後、下痢をしたという。水か何かが、アフガンに順応した身体に合わなかったのだろうか?向こうの水は全て井戸水で、ミネラルが多く、なかなかうまかったが、やはりはじめは水のような便で1週間近く苦しんだものだ。

 寝冷えもあるかもしれない。同時に風邪気味である。

 下痢だ風邪だと騒ぎつつ、さらに話題は変わる。

 きょう、適当に開いて読んだウェブページで、座椅子云々、という言葉を見つけた。ただ、座椅子、という文字があっただけ、といったほうがいい。
 それを見たとき不意に、幼かった頃、父が座椅子を愛用していたことを思い出した。
 父の座椅子は、重いスチールのフレームに茶色の人工皮革が張ってあり、座布団を適当に置いて使うものだった。背もたれの角度が調整でき、肘掛けもあった。

 いま父は56才で、僕の年齢を考えれば相当若いほうだ。あの座椅子は僕が物心のつく頃にはもうすでにあったはずなので、父は20代の頃から使っていたことになる。
 彼は毎夕、力仕事を終えて家に帰ると、年齢を十も加えたくらいに疲れてしまっていた。風呂に入って着替えたあと、少し不機嫌そうにあの座椅子に身をもたせ、母にビールを出してくれ、などと言っていたように思う。

 あの頃の、びかびかと光り、それでも明るくなりきらない蛍光灯のぶらさがった、ちょっと貧しげな居間の風景が思い出される。
 両親は、日々を戦う思いで過ごすことが多かった。いや、実際、貧しさとの戦いだった。僕と妹は何も知らなかったが、幼い不安におびえたり、いじけた気分の日もあった。
 しかし、結局、経済的なことだけしか、彼らは問題とはしなかった。
 これは微妙な言い方である。というのも、貧しさは万病の元となる風邪のようなもので、あらゆる不幸を呼んでくるようないやらしさを持っているから、僕ら家族がもっと大きな問題群に翻弄されていく可能性もあったのだ。しかし、曲折を経たけれど、彼らは懸命に貧しさだけを敵にしてきた。他の困難や愚かさにたぶらかされて、もっと不幸な境涯に堕ちてしまうことはなかった。
 美しくも強くもなかったが、清く正しかったし、へこたれてもしつこかった。
 いまや両親も、急流をはるかに忘れて、下流のゆったりした流れの中を生きている。

 なんだか臭くなってしまった。話を座椅子に戻す。

 ほんとうに僕が幼かった頃は、座椅子に座った不機嫌そうな父の膝の上に、おそるおそる乗ったりしたものだった。
 今でも、あの座椅子の、染みついたタバコのにおいを、その苦さ加減を思い出すことができる。
 その座椅子も、もう今はないと思う。基本的には実家は座卓を好んでおり、ダイニングテーブルは気が向いたときに使うだけになることが多い。多い、というのは、数ヶ月の周期で、それが変わるという、不思議な家なのだ。
 それはともかく、あの座椅子がなくなってから、実家にはまったく座椅子がなかったはずだ。この際、ちょっといい座椅子でもプレゼントしてあげようか。

 とまあ、そういうことを思いついただけのこと。



2002.0930 月曜日

■地球は狭くない
 昨日の昼、カブールを発った。ビーチクラフトは9人乗りだかの小さな飛行機で、Air Serveという名のNGOが飛ばしている。これで僕はイスラマバードへ飛んだ。上昇していくときの心もとさといったらなかった。けれど、エンジンが止まろうが、滑空して不時着できる、抜群の安定性を誇る機体だ。最後の安心は、ある。

 パキスタン、イスラマバード着。ホテルで5時間ほどのデイステイ。さすがに中にこもって過ごすのは退屈なので、ホテルから歩いてすぐの、フードガーデンのテラスで本を読んだ。傍らではバドミントンをしている若者がいる。治安はよく、人々は穏やか。

 深夜のパキスタン航空でイスラマバードを発った。朝の北京を経由して、昼、成田へ着いた。
 こうして、ひとっとびに飛んでいく、その間に、全く違った国、世間というものがあらわれてしまうということに、なにか、思いを巡らさざるを得ない、そんな気持ちになった。

 日本が、数十年間、ほぼ平和であったのは事実だ。
 その同じ期間、アフガニスタンにも人間の生活があったし、最近20年あまりは、戦乱に明け暮れていたのも事実だ。その間、あの広く茫漠としか見えない国土で、たくさんのひとが何ものかに巻き込まれて、どうしても争いを終えることができなかったのだ。

 世界は、広いのだと思う。物理的に、たくさんのものが、離れて存在しているのだと思う。

 すぐ隣りであったなら受けたにちがいない影響は、ほんの一日飛行機で飛ぶ間に越えてきた、砂漠や山脈、たくさんの集落や都市をはさんでしまうと、もはや希釈ではなくて、まったくの無関係となってしまう。僕ら日本人は、当然のように、アフガニスタンの紛争からの飛び火について、直接の防衛もなにもしなくてよかった。ただ、これだけ離れていれば、無関係でいられたということだ。アフガニスタン人は、屈強さと銃と犠牲という、生々しい盾でもってしか暮らしや命を護ることができなかったというのに、離れていることは、それよりもさらに強い盾であったということ。強い強い盾が欲しければ、もはや想像力も届かないほどの距離さえあればいいのだ。
 地球は狭くなったとはとても言えないだろう。

 では、運悪く争い合う当事者となってしまったものは、そこを捨てて、離れていけばいいのだろうか。まったく違う世界へ行けばいいのだろうか。もちろん、そうは行かない。

 アフガニスタンとパキスタン国境を、今回、飛行機で数度越えたが、窓から見下ろす不毛の山間に、集落を認めることが少なくなかった。信じがたい辺境にも、人間は住み続ける。逃れ、より快適な世界へ移動していけばいいのに、と考えるのだが、現にああしてあの不毛の土地で生き続ける人々がいるのだ。人間は、きっと、そうそう自由ではない。運命なのか、強大な引力が、生活の気ままな変化を許していないのだろうか。

 複雑で、ほとんど無計画で、しかし冷たいばかりにしっかり出来た成田の空港に着いて、ターミナルのムービングウォークの上を歩いていると、膨大な距離と、土地が抱え、そこに住む人々が抱える強力な運命のようなものを思い、それをどうしても飲み込むことができず、しばらくは呆然とした気分が抜けなかった。



2002.0926 木曜日

■追憶のカブール
 夜になる頃、曇り空が風を呼び出した。しばらくの稲光のあと、ぱらぱらと雨が降り出した。日が暮れてしまい、帰りの車が出る頃にはすっかりあがってはいたが、まごうことなき恵みの雨だった。
 秋らしい美しく涼んだ空気が流れ、黒く沈んだカブールの広い路面が、少ない明かりをきらきらと反射させているのを眺めて帰った。

 永く愛した、今はなき人を追憶する時間を持つのなら、こういう日がいい。

 家に帰ってから、なにげなくかけた音楽は、映画「東京日和」のサウンドトラックだった。写真家荒木経惟と、彼の、なくなった妻青木陽子を巡る作品である。同名の著作の映画化だった。映画では、この夫婦を竹中直人、中山美穂が演じている。全編追想であったかと思うのだが、僕は、じつは本も映画も見ていない。
 音楽は、大貫妙子によるもので、なにかの賞をもらっていたはずだ。ところが、知人達の評判は余り冴えなかった。僕にとっては、それでも好きな一枚である。人が、追憶のなかに、しばらくの間でも時を過ごしたいと思うとき、きっとこれほどにやさしい音楽もないだろうと思う。残念ながら、やさしく、美しい追憶でなければいけないのだが。

 何気なく開けた小窓の外、日向でのんびり毛繕いをする猫を見つけたような、そんなほっこりした気持ちと一緒に、なぜだかふいに、だれかのことを想うような、明るさと色彩、暖かさ。
 寂しさに胸を冷たくしてうつむく日、慰めるように降る雨を、心の中で眺める日。
 あれが、あの人の顔を見た最後の日だったと言えるその日のことを思い出すとき、決まって浮かんでくる、ひとり佇んだ駅のホームの明るさや何気なさ。

 ここでの暮らしも、一月半をもう、越えてしまった。何度となく結婚式の賑やかな飾りをつけた車を見たが、葬式や葬列を見たことがない。この地域のイスラムの葬儀がどのように行われるものか知らないが、戦乱の時代も、平和の今も、死にゆく人はいる。
 ある人の死や、生きていたときのことを想うとき、それが常に悲しみだけを伴うものだったら、これほど寂しいことはない。口惜しさや憤りばかりを呼ぶのなら、これほどかわいそうなことはない。

 磨いた黒檀のような、つややかで静かな闇と雨の余韻が、更けていくカブールの夜を美しくしている。カブールの追憶の夜は、悲しみや口惜しさばかりで沈んでいるだろうか。そうとは思われず、何か、敬虔な気持ちになった。



2002.0920 金曜日

 よく晴れていた。ここのところ、砂塵が舞うことは少なく、今日などはすっきりと遠くまでカブールをとりまく山々が見渡せた。

 今日は金曜日。お休みだった。

 プロジェクトオフィスのみんなで、ピクニックに出かけた。郊外まで車で出かけて、そこでランチをとった。
 実は先日の日曜日に、オフィスのエンジニアに子供が出来て、それをお祝いしたかったのだ。彼は家族をおいて、ひとりカブールへ来ている。しきりに酒をふるいまいたがったが、そこは彼も含めてイスラム教徒であり、ここはモラルの厳しい土地だ。わずかばかりのビールが回るのみだった。

 帰りには、市内の中心部にある山へ車で登った。テレビ塔が建っている。
 市内を一望。上から望むと、思っているよりずっと緑が多く感じられる。そして美しい。

 夕刻には帰宅。


2002.0917 火曜日

■しかるべき人
 日朝首脳会談。おそらくは、複雑極まる国際関係、とりわけアメリカと世界の関係のなかで、偶然のように、ぽっかりと開いたチャンスを、関係国がすかさず捉えて実現したものだったろう。不審船は引き上げて検証を始めるし、行き詰まっていた米朝関係とは別に、イラクとのきわどいやりあいやパレスチナとイスラエルの問題もある。国連の会議日程も気持ち悪いくらいしっかり合わさって、このところ各国は首脳会談のラッシュだった。ここで日朝のトップが思いきって会う機会を作らなければ、また十年単位で話が延びたのではないだろうか。時間的な存在として変化を続けている現代の世界に、どのような筋書きがあったのだろうか。

 それにしても北朝鮮が、これまでの拉致や工作の疑惑について、ほぼ完全に、あっさりと認めてしまったのには驚いた。彼らは、疑惑とされる内容について、いつまでも引きずることはこれからの関係や取引にとってはマイナスでしかありえないと判断したのではないか。さっさと関係を正常化させて、実利を取った方がよい。経済協力も実利のひとつだろうし、また国際的にしっかりした立場を一気に作っておくことができれば、どんなにいいか分からない。

 しかし、日本は、朝鮮・韓半島に対する大きな借りがあることを、意識しなくてはいけない。これまで北朝鮮や半島が置かれてきた状況を考えれば、生き残り、運営を継続していくためのあらゆる努力は、全くもってばかにすることはできない。かたや米国依存の色濃い国であり、かたや東西冷戦のなかで非常に厳しい立場を強いられてきた共産国だ。また日本は、戦前戦後、直接間接問わず、両国との強い関係がある。正も負も、いずれにも日本はかかわってきていることを思い出したい。我々は、共に、遭遇した状況に対して、必死に取り組んできたのだ。北朝鮮だけが愚かだったのではない。

 日本は、北朝鮮に対する、邦人拉致問題や安全保障のクレーム事項があったが、同じく北朝鮮にもたくさんの注文や確認事項、是正を要求したい事項があることだろう。NHKは、会談前には拉致問題だけを取り上げ、会談後になって米国の反応を伝えて安全保障問題を出す、というように、意識的に話題を制限し、特化しているように思われた。しかし、報道されなくても日朝間のやりとりは、そのうち実際のプロジェクトとして顕れてくるに違いない。

 なんだかんだといっても、政治や制度を傍らに休めれば、我々はただの人間同士なのだ。制度のために生き、死んでいくのではあまりに哀しい。協力して、互いに幸せであるよう、素直に努力していければいいのだと思う。これはナイーブに過ぎる考え方だろうか?問題があるからと、全てを壊すなど愚かなことだ。問題を擬人化して、その暴力に従う必要はない。

 しかし、前にも書いたけれど、このような大物の問題については、草の根であれこれやっても進展は絶望的であり、責任ある立場の人間達が、その責任に対してまともにとりくんでいくところにしか、解決はないと思う。庶民が、できることをやればいいのかというと、この手の問題についてはそうではないのだ。世の中のグランドデザインに関与し、動かすことのできる人間の、自覚と行動なのだと思う。
 昨今(というか昔から?)、企業の倫理、政治倫理等々が欠落しているとか、将来ビジョンを描くことが困難云々というけれど、これなのではないか。みんなで文句を言うだけではだめだ。しかるべき人間が、悩み抜いて行動を起こさなければ。あるいは、そうさせなければ。
 拉致されたまま、ついに故郷へ生きて帰ることのなかった人は、きっときっと、実は生きて帰れたに違いないのだと思う。子供の安否が気がかりなまま、年老いて死んでいかなければならなかった人々も出ずにすんだに違いないと思う。「そのとき」、「あのひと」が本気で行動したならば。
 無自覚と怠慢とそして無力は、ときに冷酷な暴力として働く。
 いつが、「そのとき」なのか。「あのひと」とは、誰なのか。僕は、冷酷な暴力に与したくない。ときおり訪れる、そのとき、のためには、僕は、僕の立場にあって、あのひと、になりたいと思う。行動し抜くことは難しいが、それはそれ。身の丈、身の程ってものがあるから。しかし、真に責任ある人間は、そういってはいられない。

 時事や政治の評論がしたいんじゃなく、説教じみた自戒を綴りたいのでもない。普段、口に出すことを避けがちなことだから、幼稚なシニカルさは捨てて、なにか書き付けたかったのだ。



2002.0916 月曜日

 昼前から、風が強くなってきた。空は晴れているので、こういう天気は、風とでも言うべきなのだろうか。もうもうたる砂煙の中に、カブールのまちは沈んでしまった。ときおり、どおっという音とともに、特に強い風が通りすぎて行き、目の前は黄土色に霞んでしまう。少し現場に出たのだが、全くついていないことだ。砂がはいるので目が開けられない。コンタクトレンズを入れている人は、このまちには住めないのではないかと思うことしきり。



2002.0912 木曜日

■今は平和を信ず
 僕はカブールでの、とある建築のプロジェクトにかかわっている。だから、その関係上、アフガニスタン人のエンジニアと仕事を共にしている。

 今日は、現場に彼らと一緒に出かけ、少々のんびり仕事をして過ごした。その帰りの車の中で、ハザラ人のエンジニア、バシールさんが、重かった口を開いた。自分の来し方や、内戦時のことを語ってくれたのだ。彼は、とても真面目で実に優しい40男である。

 ハザラ人は、モンゴル系の人が多い。バシールさんも、苦み走って眼光の鋭い、モンゴロイドだ。ただ、ハザラのコミュニティは、必ずしも人種的な分類だけでまとまっているわけではなく、例えば宗教がシーア派であれば、それでハザラに加わることもあるらしい。ちょっとよく分からないが。
 彼は、内戦時、妻や子供と共にパキスタンに逃れて暮らしていた。やっと争いが終わったので、彼だけ先に戻ったのだ。子供の教育のこともあるから、この先、彼が家族を呼べるかどうかは分からない。
 現場からの帰り、僕らの車が、立派な、しかし廃墟の中の大通りを通っているとき、彼が言った。

「この通りを挟んで、ハザラと、もうひとつのグループがずっと争っていたんだ。何年も。だから、このあたりは、すっかり荒れ果ててしまった。
 ハザラはね、この国では、昔から虐げられてきた。私の祖先は中国の方からこの国に移ってきたんだが、父の代になって、子供に教育を受けさせるために、カブールに出てきたんだ。もとは中央アフガニスタンにいたんだよ(アフガン中部は山岳地帯)。ハザラの地域には、昔からまともな学校もなかった。だから、仕方なくここへ来たんだ。
 カブールでも同じでね。ハザラ地域には、学校や病院、住宅といった、必要なものについて、ずっと問題を抱えてきた。我々のやってる現場のひとつには、9000人の生徒を抱える学校があるだろう?
 でもね、北部同盟のなかで、ハザラはすごく戦った。だから、今回、やっと表舞台にでることが出来たんだ。」

「私の兄はね、優秀な、すばらしい土木エンジニアだった。カンダハルにいたんだ。しかしね、タリバンに殺されてしまった。5年ほど前だ。私は、家族と一緒にパキスタンに逃げたよ。」

「民族や宗教上のマイノリティは辛いものさ。この国は、ずっと争ってきたし、我々は差別されてきた。」
「この付近の国の中には、多民族でうまくやっているところってないの?」
「ない。どこも同じだ。特にイスラムの国は、みな深刻な問題を抱えているね。」

 彼は、しかし、アフガニスタンの人々は、戦乱が何も与えないことを知った、と言っていた。そしてPeople believe peace、と言った。これは前にも書いたとおりだ。
 彼は、また、イスラムのかかわる政治は、もうごめんだ、とも言っていた。教派は互いに排他的にならざるを得ないのだ、と。そこまで人前で言い切る人はめずらしいと思うが、たしかにこの現状では、それは本音だろう。歴史的に長い目で見れば、イスラムは違いを乗り越えて、広い地域に、ある程度の結束や交流を生んだ。イスラムの国々に、多民族国家としての難しさがあるのは、特別のことではない。形はちがっても、世界中同じように問題だらけだ。しかし、近年のアフガニスタンでは、民族や教派、主義の違いが、政治的に利用され、分断を助長させてきてしまった。少なくとも宗教は、そんな状況に対抗することを指導できなかったし、たしかに民族の違いは、融和や交流よりも反目を増長させるために利用されてきた。

 今、この国での子供達のなりたい職業のひとつで、人気の高いのがエンジニアだ。バシールさんは、現役の、復興最初のエンジニアというわけだ。休日には、親類や友人達の相談で忙殺されると言っていた。



2002.0911 水曜日

■カブールの9・11
 日中の日射しこそ強く、ぎりぎりと差すような厳しさがあるものの、極度に乾燥した大気も手伝って、カブールははや秋の入り口の涼しさだ。

 おととい9日は、北部連盟と俗に呼ばれる反タリバン同盟の指導者、マスードの命日で、この国はいちにち、臨時の休日となった。マスードは、ラバニ元大統領のもとで国防相だった男で、かのタリバンでさえ、最後まで落とすことの出来なかった軍事の天才だった。しかし、そのようなことなど、彼のことを伝えるのには全く十分でない。いまや彼は、ほとんど国父であるかのように、大統領をも凌ぐ国家の統合の象徴ともいうべき存在となっている。本を愛し、詩作を愛し、軍事作戦における略奪を禁じ、敬虔で厳格なムスリム。ただ、人口比率の多いパシュトゥン民族は彼を受け入れていないし、国民をまるごとまとめきれるカリスマではあり得ない。

 ともかく9日は休日ではあったが、タリバンとおぼしき偽ジャーナリストの自爆テロで1年前に殺されたマスードの命日である。市内の交通は厳しく制限された。安全のための措置である。市内の上空は、一日中、低空飛行するISAF(国際治安維持軍)のヘリの爆音で満ちていた。

 そして今日は9月11日。しかし、アフガニスタンそのものが、あの同時多発テロを行ったわけではないからだろう、今日は9日とはうってかわって平静な、普段通りのいちにちだった。

 それにしても、アフガニスタンの人々や、それぞれの軍閥、派閥は、これまでの経緯をどう捉えているのだろう。そして、現在をどう評価し、今後をどうしていきたいのだろうか。それについては、いまのところ、この国をとりまく関係が外から決定を与えていくように思えてならない。
 もう少し落ち着いたら、ただのおとなしい国ではいられないだろうが、とにかく、国内で分裂や反目をしている場合ではない。この土地で暮らしていく人間ひとりひとりの希望が、少数の人間の野望よりも絶対的な優先を与えられるようでなければ。
 市内で見かけるひとびと(ほとんど男だが)の顔は、必死になって働いて、なんだか美しいと思う。野菜売りも、荷車をひく人も、自転車で道を急ぐ人も、道を埋めるタクシーの運転手たちも。



2002.0906 金曜日

■市内で爆弾テロ
 今日は休み。

 昨日、白昼のカブール市で、爆弾テロと見られる事件があった。現場は、中心部のもっとも人通りの多い通りのひとつで、僕も車でなら時々は通る場所だった。
 普段だったら、このまちの復興と市民の生活の意気を感じることの出来る場所である。僕は通りかかるたびわくわくとしたものだが、今回死者は25人とも26人とも言われている。なんと卑劣なのか。
 どのような大義も、犠牲を肯定するものは、恐るべきものだ。一切の犠牲を否定できないものは、怪しむべきものだ。まして爆弾をしかけるような輩は、即刻この世界から立ち退くべきだ。

 アフガニスタン人のスタッフが、あるとき言った。

People believe peace.

 シンプルで美しい言葉だと思った。
 愛の平和の、と言ったところで、それだけでは弱々しい言葉に過ぎない、と僕は思う。しかし、信じるというのなら、そこには強い意志が宿る。愛おしく、侵しがたいではないか。

 まだ公衆に向かって、即時性のあるメディアがラジオくらいしかないから、いくら爆弾でも市中全域には音も聞こえず、爆弾テロのような大事件でさえ、みんなに知れ渡るには1日では足りないようだ。混乱を避けるためには、これくらいでもいいのかもしれないが。

 カルザイ大統領もカンダハルで襲われたそうだ。一気に不穏な空気が漂う。しかし、それでも日常の賑やかさ自体は、何事も無関係であるかのように変わらない。奇妙な、不思議な空気が市内を流れているように感じられる。



2002.0903 火曜日

■段取りギャップ
 ひょっとして、日本人ほど段取りというものを重要視するひとびともいないのではないか、と思うことがよくある。いつかも書いたっけ?

 ひとまとまりの作業には、複数で取り組む場合はみんなで全体の段取りについて、無言であったにしても確認し、それぞれの担当する仕事が全体の段取りにおいてどのような位置をしめるのか、いつ、どのように他の作業とのすりあわせにおいて重要な局面があるのか、ということを意識しながら進めていかなくてはならない。こんなことは、ごくごく当然のことだ。しかし、少なくともここカブールでは、そのような仕事のやりかたはしないように感じた。チリでもそうだったし、南の国ツバルにしても、かなりそうだった。

 全体とそれに対する部分としての自分、もしくは他のひとびと。そして作業などのものごとの、時間的な流れに対する意識。とくに時間的な流れであろうか。どうも何事も時間的な存在として流れつつ、成り立っていくのだ、という意識を感じることが少ない。まるでパーツの完成品を、ある日、あるときに持ち寄れば、それでよい、というような気分があって、彼が担当する作業が、自分の作業の成果を前提としている以上、間に合わさなければ全体に響く、などということは、どうも考慮されないという印象を受ける。
 あーだこーだと、そのときに初めて問題として取り上げて、余計な時間とすりあわせの作業を行い、どうにも不器用にものごとが進んでいく。そういうことが多い。

 なんとか、一種日本式に段取りよく行こうと思って、あれこれと指示をしたりするのだが、こういうことは、各人がきちんと意識を持っており、段取りに基づいて動き、成果や結果をしかるべきときに出さないといけないので、もともとのイメージのない人々だと、口で言っても、どうしようもない。

 しかし、パーティの準備というか段取りをすると、これが素晴らしく手際がよい。まるで魔法のように、知らぬ間に何もかもオーガナイズされて、みんなはただ、楽しめばよいのだよ、とまで準備されている、という現象がある。これに関しては、カブールもチリもツバルも素晴らしいの一言だ。
 日本ではこうはいかない。だから、面倒になると、いきおいお金をかけて、お店で済まそうということになる。
 僕など、幹事とかホストになる人がきりきり舞いの苦労をしているところを見るのがいやで、そういう人を立てるような集まりは敬遠気味になってしまう。パーティをやったあとで「お疲れさま」と声をかけあうなんて、ほんとになんてばかばかしいんだろう、と思ってしまう。野暮きわまりない。

 ということで、やっぱり段取りのいい日本。というのは、ちょっとステレオタイプなのかもしれない。文化におけるギャップなんていうのは、こういう部分を言うのだろうか。ギャップは、ずれなのであって、双方のうち片方だけが、なにも持たないのではない。

 しかし、パーティでとってもスマートなのはいいけれど、段取りが悪いのはやはりごめんだ。段取りよく仕事して、お疲れさまと言い合いながら、不器用に労をねぎらう方がいいような気がする。いや、不器用でも気楽に仕事して、スマートでリラックスしたお楽しみの時間を持つ方がいいかもしれない。こう書くと、後者のほうがいいような気もする。
 ・・・・後者がよいなあ、やっぱり。



2002.0829 木曜日

 パキスタン航空にて、イスラマバードよりカブール帰着。

 市内の延々累々たる廃墟を見るよりも、この都市における戦乱のあとを強く印象づけられるのは、カブール空港近辺ではないかと思っている。
 死んだ獣のむくろのように、滑走路脇に転がる飛行機の残骸。整備用なのか、大きな鉄骨の建物は、屋根が吹き飛んだままだ。銃撃や砲撃の跡も、市内と変わらず、どこにでも見受けられる。
 軍用のエリアには、今は、国際部隊のヘリや補給機(なのかどうか?)が並んでいて、静かだ。

 数日ぶりの事務所。大量のメールを受信する。すぐには処理も対応もできないな・・・



2002.0828 水曜日

■ムスリムの人と話す
 午前、郵便局で数通の手紙を出し、車でTaxila(タキシラ)へ向かう。イスラマバードからは1時間かからない。カブールで出来ない、建築材料試験のためだ。
 同行してもらったエンジニアのQazi(カジ)さん。物腰落ち着いた若い紳士である。イスラム教徒としても、なかなかに敬けんな人のようだ。だからというのはおかしいが、生まれてこのかた、ひとくちたりとも酒は飲んだことがないそうだ。すごい!

 タキシラへの車中、仏教とイスラム教の教義比較になった。言い負かしあうようなことは、本来高度な内容であり、まったくそぐわない。英語はカジさんの方がずうっとうまいので、とにかくイスラム教のことを教えてもらった。
 イスラム教やキリスト教にはいわゆる預言者がいるようだが、イエスやモーゼといったひとびとの言説は、古い時代のことであるので、記録はある程度の不正確さがあるとしても不思議ではないし、時代によってその都度ゆれうごいてきた部分もあるのだという。しかし、ムハンマド(マホメット)の言葉は、紀元後500年以上あとの言葉だけあって、ただのひと言も間違いなく伝えられてきたという。それだけとっても、かなり自慢できるポイントであるらしい。

 帰路はジハードの本当の概念について。そしてインドとの関係や、核爆弾について。
 ジハードは、一言で言うと、不正義や悪に対する正義の戦いのことである。僕も、不正義に目をつぶり、悪を呵責しない正義も善もまやかしだと思う人間のつもりなので、なるほど、たいへん納得するものだ。正義の定義とか、実際における判断は相当に困難だが、それについての基礎づけを与える役目は、相当の部分において宗教が担っているのだろう。
 しかし、なぜパキスタンが核を持っているのか、という問いには、インドが持つ以上、仕方がないとカジさんは答えた。おそらく目には目を、の論理の延長なのだろう。相手が持っている脅威には、それに相当するものをもってもよい、との思想であるという。
 ところがカジさん、核が一切の生を否定する、完全な破壊の道具であるという認識はもっていて、存在自体悪であるから、ジハードの対象として、パキスタンはもちろんインドも誰人も、所有や使用が認められないはずなのでは?と意見したところ、賛成してくれた。その点、非常に素直に言ってくれたので、大変嬉しかった。

 ちなみに日本での報道では見かけないが、パキスタンでも反核運動はある。こちらの主要新聞でも、インドをやってしまえ、ではなく、地道な反核運動を伝える報道があった。パキスタンの人々は、決して短絡的な扇動に乗せられるような人ばかりではい。こと日本における国際関係の報道は、不正確なばかりでなく、ステレオタイプを助長させるようなでたらめや偏向も多いことは、具体的に感じる場面が多いので注意が必要だ、と、少し極端なことも考えた。

 長くなっているが、インドからの独立について。ガンジーの理想は、異なる民族や宗教のバックグラウンドを持つ人々がひとつのインドで共存することにあったと考えているが、独立に至ったのはなぜか?と、あらためて聞いてみた。カジさんとて、ガンジーの理想を否定するものではないが、しかし、イスラム教徒に対する弾圧や実際の死者を伴う衝突を、結局なくすことができなかったために、パキスタンとして独立していくほか道がなかったのだそうだ。独立はガンジーの理想への反駁ではなく、むしろ反目と衝突を回避するためだったようである。いまだに続く、インド領内のカシミール地域への弾圧も、ある部分、同根の問題であるようだった。

 午前中で試験も終わり、カジさんとは昼で別れた。

 昼ご飯は、イスラマへ戻って近くのローカルレストラン。メニューを見ても分からないので、今日は辺りを見回し、うまそうなものを指さした。出てきたのは、たぶん子牛の煮込みカレー。骨付きだった。非常にうまい。あとは、ナンとセブン・アップ。しめて89ルピー、200円弱だった。

 午後は宿で読書。

 井上靖「あすなろ物語」。これ以上にすらすらと読むことの出来る日本語の文章があるものだろうか、と思う。小説の性格もあるが、名文とかいう類のもので書かれているわけではない。しかし、例えれば泉から汲み取ったばかりの名水のような文章である。気持ちよく、ごくごくと飲むほどに、さらに気持ちがよくなっていく。
 明日は檜になろうとしている翌檜(あすなろ)。なろうとしてなれない、なんて卑屈な意味合いはない。凡庸なるものから一歩前へ出ていこうとする、周囲の友人達の姿なのだ。しかし、いやらしいエリート意識とは無縁である。愛おしく、美しいなあ・・・

 著者覚えず「やさしさの精神病理」、岩波新書、赤。読み物調で、さらさらと読み終える。近頃の「やさしさ」を、とりあえず批判するより、きちんと見つめている。
 古い世代とは断絶しているように見えるやさしさ。ときに若い世代の彼らは、「やさしさ」にもとづいて不明な沈黙やすれちがいをいとわないで古い世代と接することがある。しかしそれは、つかずはなれずの関係を保つための、一種の「気遣い」のことを「やさしさ」と呼んでいるだけのようだった。
 とにかく、対人関係に置いて傷つけることを恐れる。これって、日本だけではなく、かなり世界的な傾向だそうである。思い当たるところ多し。
 しかし、こんなやさしさは、半分くらいにしておきたい。無菌抗菌潔癖非接触な人間関係ばかりでは、やっぱりつまらない。一種へなちょこなまま、死ぬまで生きられるならいいけれど。
 まあそれにしても、紹介される症例が、どうにも筋のいい患者ばかりだと思ったら、著者は聖路加病院の精神科医だった。あそこなら、いっぺん入院してみたいなあ・・・

 あとは何読んだっけ?



2002.0827

■パキスタン・ドライブ
 昼下がりからドライブへ!
 イスラマバードから50キロくらいのところに、Muree (マリー)というところがある。快適なハイウェー(自動車専用道路というより、たんに高規格道路)を抜け、九十九折りの山道を延々と登った、2500メートルの避暑地である。松の巨木がそびえ、どうかした拍子にお寺でもありそうな、雲海の上にある、山岳の観光地だ。それにしても緑が多く瑞々しい。どうも名水でも名のあるところのようで、焼失したが、かつてはビールなども作っていたらしい。

 連れてきてくれたのは、Arshad(アーシャド)さん。彼とは、今回イスラマバードへ出てくる折、カブールの空港で知り合った。イスラマで会社をやっている、れっきとした社長さんだ。空港で、空港利用税を払う小銭を貸してあげたので、今日はそのお礼だそうである。

 ドライブには、お仲間、というよりお客さん3人もいっしょだった。ロンドンで石油会社BPに勤める情報なんとか、の人、イスラマで品質管理サービスをやってるエンジニア、それから貿易商。お金持ちそうだと思ったら、アーシャドさんの会社が作ったリゾートハウスの案内なのだそうだ。なるほど。

 蒸し暑いイスラマバードとは別天地のマリー。カシミールの神々しいばかりの峰峰を、天気のいい日には眺めることができる場所とあって、パキスタン全国から観光客が押し寄せるそうだ。繁華な場所は、なるほど蓼科、軽井沢のような賑わい。新学期が始まった今は、これでも大したことはなくて、シーズン中などは物凄い押し合いへし合いだという。
 それにしても、さすがは全国から人が集まるだけあっておもしろい。日本なら、北海道人も沖縄人も、同じ様な格好だが、ここは違う。緑のターバンをまいて長く垂らしたひと、真っ黒な格好の人、きっちり顔を隠す婦人、ふわりとショールを掛けただけの大美人、ファッション雑誌のグラビアから出てきたような見目形と服装の青年、立派な髭と白い帽子、白装束の御大尽、あらゆる宗派、地域の仮装大会といった様相に見えなくもない。いやあ、おもしろい。そして大変安全である。

 アシャードさんのパーソナリティか、それともパキスタン人の典型なのかは分からないが、ずーっと、それこそずーっと、話題は国際関係か、それとも宗教談義なのだった。神とは、人間をつくりたもうた意志とは、それにしてもアメリカはけしからん、みたいなことについて、各人自説もまじえ、それこそケンケンがくがく、火花をちらすような議論を延々やっているのには、辟易はんぶん驚き半分だった。さすがはわざわざインドから分離独立した国の人達と言うところだ。でも、とってもいい人達である。欧米人よりは、僕には理解し合うことが容易な気がする。

 帰着11時過ぎ。
 それから読書!「パラサイトイヴ」。寝ぼけなまこでなくとも理解不能な医学薬学的記述は、思いっきりすっ飛ばして筋だけ追う。ホラーというが、そんなに怖いもんだとは思わない。哀しいストーリーというほうが正しい。主人公の、亡き若き妻への思慕もせつせつたるものがあるが、映像としては、この小説の眼目である「ミトコンドリア人間」というと陳腐?だが、その最初のミトコンドリア人間が、女性であって、完璧なほどの美しい肉体を持つ女性である、というのが、もっとも想像をかき立てた。かぐや姫や小野小町や楊貴妃うんぬんと同じだ。それも人であって人でないというのだから。

 でもねえ、パキスタン。美人っているもんだなあと思いました。マリーにて。
 ミトコンドリア人間は、彼女たちよりも美しいのだろうか?

 よく読み通した。深夜就寝。



2002.0823 金曜日

 イスラム教の国であっても、パキスタンなどは日曜日が官公庁のお休みとなっている。が、ここアフガニスタンは、今日、金曜日がお休みだ。お店も、午後は閉まってしまうところがある。行商に近い、小さな店はそんなことはお構いなしの賑やかさだ。しかし、平日は車でごった返す街路も、金曜ばかりはすいている。

 今日は午後だけ、たまたま仕事に出ることがあったが、夕方には家に戻った。
 少し買い物を兼ねて、ゆっくり車を走らせてもらいながら、カブールの休日の様子を眺めて回った。
 そのなかで、ソ連の支配と影響が強かった時代に建てられた団地を通りがかって、これが面白いなと思わされた。30年から、もう少し前の建築と思われる、プレキャストを基本にした5階建て程度の住戸がたくさん建っている。市場もあって、これはたぶん最近になって発達したのだろう。間口の小さな店が、ぎっしりと縦横に集積して、肉から金物まで、なんでも売っている。そのうち、ゆっくり訪ねてみたい。



2002.0822 木曜日

 仕事は現地人ローカルスタッフと共にやっている。

 住居は借り上げたところでシェアしている。

 食事は、昨日からコックがついた家でとっている。

 ということで、これに肉付けしようと思ったが、これでおしまい。



2002.0819 月曜日

 今日は、アフガニスタンの独立記念日である。休日となっているが、商店や行商の中には、仕事をしているところも多い。
 それにしても20年来続いてきた戦乱が終わり、初めて迎える平時の独立記念日というのに、この静けさはなんだろう。およそ独立の経緯を持つ国にあっては、この日は最も大切な祝祭の日のひとつだとされてしかるべきだと思うのだが。おそらく、騒乱に発展することを警戒して、なんらかの制限が敷かれているのだろう。

 休日を利用して、宿舎を移した。高台の宿舎から、記念にカブールの遠景を撮影していく。今日は、珍しく砂でまちが煙っていない。いい天気だ。

 新しい宿舎は平地にあり、かなり静かな一角の邸宅を借り上げるものだ。何人かでシェアすることになる。これまで水や電気のトラブルに苦労してきたのだが、この家は大丈夫だと思われたので決めた。一度僕は帰国することになっているが、次に来るときは晩秋から初冬の時期である。最も寒い時期にはマイナス10度以下になるカブールだから、どうか冬に過ごしやすい家であることを祈る。ようするに冷えない家か、風呂でちゃんとお湯が出るか、ということなのだが。



2002.0815 木曜日

 日本で言う日曜日のような役割は、この国では金曜日が担っており、今日木曜日は、一般には半ドンである。いつもどおり昼間は賑やかだった都心では、どの店も日が沈む頃には店を仕舞い、寂しいばかりの静けさとなっている。そんななかを車を出してイタリアレストランへ向かう。知られている限り、ここカブールでは唯一のイタリアンだ。コックが本当にイタリア人なのかどうかは分からない。食べてみると、オリーブオイルは使われているようには思えなかった。そこがちょっと残念である。



2002.0814 水曜日

■銀の太陽
 数日来の風のせいか、カブールは大気の高いところまで砂を巻き上げてしまい、曇りのような様相となっていた。それが午後になって、本当に曇りとなり(そうとしか見えないが、砂なのかも知れない)、ついにぱらぱらと水滴が落ちだした。そしてほんのいっときではあったにせよ、雨は本格的な降りを見せた。夏になってからというもの、もうずっと雨など降ることはなかったし、それがごく普通の、毎年の空のめぐりというものだったのだが。これは異常なのだろうか。
 雨が降ってから、カブールはずっと涼しく、風と相まってほとんど寒かった。半袖で出かけて現場を離れられない僕は、寒さで腹の具合がまたおかしくなってきてしまい、時折車などに逃げ込む始末だった。

 極薄い雲と、砂塵の層を経た太陽の姿は、どこか異様だった。それはまるでマグネシウムを燃やしたときのような、強烈な銀色の輝きで、熱を感じさせなかった。うすいむらのある砂塵と雲の向こうに見える青空をバックに、ぎらぎらと銀色の太陽が輝いていた。

銀の月というのは見たことがあるが、銀色した太陽を見たのは初めてだった。
少し高地の1800メートル。盆地のまわりは、春にも草一本生えない岩山が取り囲む。
乾燥しきった風が、絶えず砂塵を舞い上げており、男たちが手放さないスカーフの意味を知った。
今日は砂嵐。曇っているのが雲なのか、砂なのか、異邦人には見当もつかない。
見上げた空は、すでに青空なんかじゃない。地も砂、天も砂だ。
そして太陽は銀色だ。
まるで温度を感じない、天空の穴みたいな円が、不穏にぎらついている。

突然現れたISAFの軍事ヘリが現場の真上を、顔も分かるくらいの超低空で飛び去っていった。
かつては、銃口がこちらをむいていたのだろうか。
映画だって、こんなシーンは見たことがない。

すっかり絶望と恐怖で頭の中が麻痺してしまっているのなら、まったくこんな日はカブールにおあつらえむき。
パシュトゥンもハザラもタジクも・・・あとはどんな民族がいたろうか・・・・
砂の向こうで、顔なんてわからない。やつらに髭があることは分かってる。
ブルカもこんな日には、いい砂除けじゃないか。
廃墟のほうがずっとまし。
そんな干からびてもとの姿もわからない、日干し煉瓦の塊の集積。
こんなまちには、せめてヘリが爆音でも銃弾でもまきちらせばいいさ。

・・・・・

ところが。

見てみろ、今日は晴れている!
向こうの山も見えている!
金も払わずに居座っていい、山肌にへばりついた、土色した家々のまどまで、すっかり見えている!

満員のバスが、UNHCRのテントをまとったトラックが、このまちの交差点という交差点でごったがえす。

運転手さんよ、俺の家はあそこだ!
厳しく、遠くをみつめながら、なんてやる気に満ちた顔の乗客たちだろう。
俺は帰ってきたぞ!
俺は昨日ついたんだぜ!

見ろ!
あいつだ!久しぶりじゃないか!
いつまでも握手をして離さない仲間たちが、そこにも、あそこにもいる。

こんなはずじゃなかったはずだ。
・・・・そんなため息の底にしずんでいたんじゃなかったのか?

運転手さんよ、私も乗せて!
女の座席はどうしてこうも隅によせられているんだろうね!
でも、もう私だけで外に出たって、だれもとがめるやつはいない。

あいつは、まるで中国人。
あいつは、そっくりマスードのような風貌。
そこにいるのは、カルザイよりも立派な親父。
あそこにいるのは、かつてエリザベステーラーみたいだったおばちゃん。
金髪した人形みたいなチビ。

髪も目も、肌の色も、なにもかもちがう。
時には砂塵舞うカブール。
・・・俺を轢く気か、このタクシーめ。
ちくしょう、この人、なんにもめぐんでくれないよ。
新聞だよ!いらない?
トマトは、一キロ1万アフガニー。え?なんでまけなきゃいけないんだね?
ハエがたかってるけど、どうだね?このずらりと並んでぶら下がった羊は!ヤギは!

おい、そこまで載せていってくれよ。
そうだよ、タクシー。後ろの荷台でいいからさ。

ここで、なにがわかるっていうんだろう。
この青い空の下で!
え?何が知りたい?

もうみんな見えているんだ。窓まで見えるんだ。窓が開いているんだ!
銀色した太陽だって綺麗なもんさ。
ISAFの兵隊さん、ご苦労さん。

メロンを食ったか?うちのはうまいぜ。
すいかは食ったか?絶品だ。
林檎も、桃も、なにもかも!

もうすっかり問い詰められたんだ。歴史には。
だれが終わったといった?歴史が。
過去なんて、かならず過ぎ去っていく。
それよりこのナンのうまさはなんだ?
これこそ変わらないものさ。
でっかいのが1枚で2000アフガニー!
何ドル?5セント?

さあ、手を開け。
握っていないで開いてみろ。
青いんだ、空が。
日を当ててみることさ。

今日も、どっかから、バスに乗って帰り着くやつがいる。
こんな青空ならおあつらえむき。
せめて手を開いていたい。

おまわりも、車が無視したって、なんだか嬉しそう。
砂塵で鼻が、口が、埋もれてしまったって、嬉しそう。

今日もどっかから、バスに乗って帰ってくるやつがいる!
今日も、道端で握手して離さないやつがいる!
今日もカブールは渋滞だ!
ざまあみろ!

 そう。もう銀の太陽が不穏な時代じゃなくなったんだ。



2002.0813 火曜日

 砂塵が舞い、空高くうす茶色の層がひろがって、ついには曇りのようになってしまった。
 外に出るときには、帽子が欠かせない。帽子がないと、日が暮れる頃には必ず砂にまみれて、髪がごわごわになってしまう。

 特に支障もないと思われるので、もう書いてしまうことにし、ここに付す。
 A国とはアフガニスタン。僕がいまいるのは、首都のカブールである。



2002.0809 金曜日

 A国はイスラム教の国で、金曜日がお休みである。よってわがプロジェクト事務所も休みだ。ずっと日本人のスタッフには休みがなかった。僕は昨日来たところだからよくわからないけれど、たぶんこの国のローカルスタッフにも休みは少なかったと思われる。
 せっかくのお休みではあるが、今日はねぎらいと楽しみの意味で、希望者(とおもうが?)でちょっとしたピクニックに出かけることになった。

 戦乱の爪痕が深いこの国、この都市ではあるが、郊外の果樹栽培地帯や谷間のオアシスを目指して、たくさんの車が繰り出し、日本以上にわいわいと賑わっていた。
 宗教や習慣のせいか、賑わいの中に女性を見つけるのは難しかった。遊びに出るのも、子供以外の女性でははばかられるのだろう。華やぎに欠けるようで、ちょっと残念。ただ、男性ばかりでもなかなか楽しそうに盛り上がっているようで、感心してみたり。



2002.0808 木曜日

 午前早くの便でA国に入る。戦乱の跡を残してか、飛行機の残骸が多い。ぎょっとさせられる。



2002.0807 水曜日
出張3日目

 昨日に続き、午前中は雨。よく降る。おかげで涼しい。

 Taxilaへ向かった。試験と遺跡と博物館。



2002.0806 火曜日
出張2日目

 明後日向かうA国のビザを取得するなど、用事をこなす。

 午後は時間が空いたので、一日借り上げていたタクシーでP国の首都イスラマバードを回ってみた。(くちはばったいので、首都の名前は書いてしまう。全く支障ないはず。)
 ガイドなどを見れば分かることだが、この首都は、近代以降に新しく開発された、完全な計画都市である。設計はギリシャ人の<<・・・・・・>>による。形式としては、中国や日本の碁盤の目のようなものに近い街路と街区の構成を持っている。日本で言えば大内裏のある位置に、大統領府が置かれていて、大統領府からは朱雀大路のような巨大な大通りが延々と延びている。この大通り界隈(ブルー・エリアと呼ぶ)をのぞいては、高層建築は建てられないことになっているそうだ。真夏は、現在のモンスーンが終わって雨が少なくなると、40度を超える気温になるそうで、これを今回避けられたのは幸運だった。雨があるせいか、非常に緑濃い町である。治安は、かなりいいと言える。
 アジア最大と言われるシャー・ファイサル・モスクへも行ってみた。決まりにならって裸足で入るのだが、モスクによってはイスラム教徒でなくても入れることを初めて知った。というか、本来異教徒でもモスク自体は入れる物ものなのだろうか。巨大なモスク内を歩いていると、外国人は珍しいのか、サインを求められることもあった。

 イスラマバードだけでは面白くないので、ついでに隣の交易都市ラワルピンディにも足を伸ばした。こちらは、いわゆる西南アジア然とした、高密な賑わいのあるまちである。
 どう考えても過供給としか思えない、ありとあらゆる店や工房、極小工場が、あらゆる街路の区画を埋めている。道路は車と大小入り乱れてのバス、それからバイクと自転車でぎっしりだ。車にぶつかられている人も結構見かけた。ここではちょっとした接触くらいは事故ではないようだ。

 昼食のパキスタン料理がおいしく安いので多くとりすぎた。ということで、今日は夕食をとらないことにした。



2002.0805 月曜日
その2
出張1日目

 暑い日で、朝から汗でびっしょりになってしまった。見送りを受けて、新宿からNEXに乗り込んだ。

 午後の便にて、北京に寄りながらP国の首都へ。機中、偶然にも、また幸運にもというべきか、平山郁夫画伯と乗り合わせた。トイレに立ったとき、どう見ても氏なので、思い切って声を掛けた。昨日、アフガン展を見てきたばかりだったから、感銘とお礼を述べたいと思った。
 想像以上に丁寧で気さくな方だった。僕の仕事の内容などについて、あれこれと質問された。
 言うまでもなく、画伯は現代日本を代表する画家の一人であり、かつアフガンをはじめ文化財の保護等に対して熱心な活動を続けることで国際的に知られている方だが、今回、UNESCOの関係でまたカブールとバーミヤンに向かうのだそうだ。高齢であり多忙ななか、こうして時間を割いてでも遠路の仕事を選ぶのは、相当な思い入れがあってのことと推察する。

 飛行機は無事P国の首都にある空港に到着。夜更けのホテルにチェックインしたのは、もう日付も変わる頃だった。



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