Diario
日々の記録


 
 


2002.0805 月曜日
 

 早朝起床。今日は午後の便にて出張に出る。目指すはA国。中国を経由し、まずP国に入る。8日には現地入りの予定。

 今回の出張は、2ヶ月の予定だが、今後1年間、さらに現地での活動が続いていくことになっている。戦乱後の復興を目の当たりにできるチャンスだ。謙虚に、真摯に、そしてタフにやり抜いてこよう。

 僕自身が健康であることは当然としても、僕に繋がる人々が、全て安穏でありますようにと祈る気持ちにならざるを得ない。運良く、まずはたかだか2ヶ月。何事もなく過ごせますように。
 


2002.0804 日曜日
 

 午後、東京芸術大学美術館へ。アフガニスタン展が行われている。文化財の難民たちが、帰国の前に集められたものだ。いずれもやさしく美しい仏や菩薩、鬼神であり、生活の文物。これからのアフガニスタンがかつてない平和を作り上げることができたとき、これらの文化財は取り戻されたことになる。

 帰路は買い物。明日からの出張にそなえ、帽子など。 
 


2002.0803 土曜日
 

 梅雨明けの1週間だか2週間は、もっとも天候が安定した夏の日々が続く時期なのだそうで、この数日ときどきは雨にも見舞われたが、いつものとおりに順調に、夏らしい酷暑を楽しんでいる。

 先週末に迎えた建築士の試験は、今年もあえなく敗退に終わってしまった。昨年から、受験者に占める合格者の割合が大幅に減らされており、例年2割弱であったものが、今年はとうとう1割を切る見込みだという。来年も受けることになるだろうが、ちょっと暗い気持ち。

 そうして迎えた今週は、南の島のプロジェクトを引き継ぐ作業で終わった。これは病院を作るものだったが、今回新しいプロジェクトのため、相当の期間をそれに当てることになり、ついてはきっぱりと引き継ぐことになったわけだ。
 僕には心残りであり、引き継ぐ方には不安だろう。彼には申し訳ない思いもする。

 この週末が明けて月曜から、まずふた月、A国へ渡ることとなっている。戦時から平静を取り戻すに至って、まだ間もない国である。僕では役不足ではないかというのが正直なところだが、行くとなったらやるまでだ。やらなきゃ殺されるような状況ではないのだ。あたりまえのようで、これが平和と言うものだろう。
 


2002.0802 金曜日
 

 午前、H氏から先日もらった柔道着11着と指導書・ビデオの大荷物を郵便で出しに行く。10着と思ったら、11着だった。郵送費は高額になってしまったが、それでも安いものだ。(数着ですませるつもりではあったのだが・・・集まってしまったら仕方ない)

 夜、仕事をいったん切り上げて、みうらっちに会う。建築談義である。今回酒はなし。パスタとコーヒーで。

 話の仕上げに、彼の作品を通しで見た。A3版のファイルにて。最近になって、少しづつ、ものが実現に向かい始めている彼である。この間はカイロプラクティックの店舗が実現した。
 ものづくりの生活。そのなかには、夾雑物のない感じがする。仕方がないからやっているようなものごとというものが多すぎる。しかし、そんなものに足をとられていないような。
 羨ましい思いがしていた。けして僕は後ろめたくはなかったのだが。僕は、いつになったらものづくりをしていけるのだろうか。 
 


2002.0725 木曜日
 

 かろうじて午前中に起床。静かな毎日。月曜から夏休みをもらっている。今週は、基本的にお休みなのだ。ただし、建築士の勉強に、それは費やされる。去年もそうだった。もうこんなことは終わりにしたいのだが、自信はない。
 去年といえば、エアコンがなかった。あのときは辛かったなあ。東向きの僕の部屋は、午前中、直射日光で灼熱地獄になってしまう。今年は台風が続くせいか、それほど日中は暑くならないが、去年はもう大変だったのだ。よくも扇風機だけで過ごしたものだと思う。注文していたエアコンが届いたのは、去年の建築士の試験が終わった、その夕方だったなあ。

 夕食には、レンズ豆のスープというか、煮料理を作った。タマネギ、ベーコンを炒めて、一緒に煮る。米も少し入れる。チリではレンテハと呼ばれていた。大変香ばしく、おいしいのに、異常に安くできてしまうのがミソだった。
 京王ストアで買った豆は、しかし、チリの物のようには香ばしくなかった。まあ、こんなものか。おいしく頂く。 
 


2002.0718 木曜日
 

 非常に珍しいことだが、早起きした。5時である。なんのことはない。11時前に、昨晩は間違って眠ってしまっただけのこと。朝のお勉強の時間にする。と、6時前から隣近所は洗濯や掃除、食事など、動き出していることに気がついた。みなさん、いつもこんなに早起きだったのね。

 今日は昨日と違って、まずまずの好天の様子。暑くなるかも知れない。しかし、オフィスで仕事をするのなら、はっきりいってそんなことは関係ないと思う。建設現場で鉄筋を組んだり塗装をしたりする職人さん達は、さぞかしきついだろう。H氏も梨農家で、このところネットを張っていると言っていた。彼の顔も腕も、赤く日に焼けていたっけ。
 


2002.0717 水曜日
 

 人に聞いたら、協力隊へ寄贈して海外へ物を置くってもらうことは、なかなか難しいのだそうだ。たぶん僕の場合も、時間をかけたくないなら自前で送るしかないかと思う。

 毎週水曜日はノー残業デーで、夕方に近くなると社内放送がかかるのだが、今日は忘れたのか、それとも先日の台風で早く帰った人が多かったせいか、放送がなかった。で、早めに抜け出すのが難しくなってしまった。
 


2002.0715 月曜日
 

 夜。またH氏来訪。こんどは、柔道着ではなく、柔道の指導書とビデオを持ってきてくれた。これだけあれば、道場が出来そうだ。送るのにも費用がかかるから、まず協力隊の事務局に掛け合ってみようと思う。
 H氏には、沖縄料理を楽しんでもらった。通りすがりのお店。 
 


2002.0713 土曜日
 

 がんばって午前中に起き、少しだけ勉強する。午後は車で電気店へ向かい、ハロゲンの電球を買う。へんなところへ固定してしまったクランプのせいで、アームライトが落っこちてフィラメントが切れてしまったのだ。

 いちにちははやいもので、すぐに夜になってしまった。

 この1週間あまり日記をつけていなかった。書くほどのことはなかったのだろうか。そうではない。たんに余裕がなかっただけのこと。いちにちを振り返るなり、自由に思いを巡らせること。それらは余裕の、すなわちあまりの時間にやるべきことではなく、本来は最も大切なことのはずだ。

 車に乗っていて、蝉の声を聞いた。今年に入って、2度目だ。 
 


2002.0711 木曜日
 

 夜。会社の前でH氏と待ち合わせて、食事と一杯。

 彼は柔道家。4段である。協力隊の訓練所では相部屋で同室だった。懐かしい友人である。1年半ぶりに会った。僕の職場までは車で。申し訳ない。

 今日は柔道着を届けに来てくれたのだった。母校の高校に当たって、10着ほどを揃えてくれた。 
 僕が2年を過ごしたチリのノガレスの町には、今、ふたりの協力隊員がいるが、そのうちのT君に送ってあげるものである。T君の専門は農業土木だが、柔道を教えて欲しいという人が来るというので、心得のある彼が、その武道を紹介するのである。
 といっても、まさか10着も要らないだろう。そこは柔道の指導を専門にする隊員もいるチリである。彼らが使ってくれれば。

 H氏は、そんな顛末を話す僕に、使い古しの柔道着の提供を申し出てくれた。僕はどこで売っているか、と聞いたのだが、ひと肌脱いでくれた。母校の柔道部を当たってくれたのだそうだ。ありがたい。

 しかし、柔道着も10着ともなると凄いボリュームである。こんなにたくさんの柔道着を山にして自室に置くのは、おそらくもう生涯ないような経験である。
 


2002.0704 木曜日
 

 アメリカの独立記念日だ。おそらく移民の国は、どこも独立記念日を非常に大事にする。チリでもそうだった。日本の独立記念日はいつか?と、真顔で聞かれたものだ。

 ブッシュ大統領は、対テロ戦争について言及したという。しかし、「対テロ」ということばには、とても違和感を感じる。僕ぐらいなのだろうか?そんなことはないと思うのだが。

 「テロ」は、あくまでも手法である。国家による正規の軍隊の、ある意味で古典的にすらなってしまった正式な(?)軍事活動とは違って、テロリストたちは姿を現さない。その彼らの独特な手口、それがテロである。しかし、「手口」を相手にした戦争とはなんなのだ?
 対テロ、というと、対象を、自動的に既存のいわゆる体制と対立するものとして、いやおうなく規定してしまうことになる。そこにどうも独善的なものを感じてしまうのだ。

 テロに対する戦争、という言葉に見られる、不明確な敵のとらえ方は危険だと思われる。テロを行う者は、皆同質なのだろうか?
 一面的で危ないいい方になるが、実際のところ、グローバリズムを利己的に押し進める人達が、過激な反対勢力をひとまとめにして同質で許すべからざる悪人とするための、非常に暴力的な発想を、「対テロ戦争」という言葉には感じる。テロリズムに屈してはならないのは当然だが、そこから離れたところに現代の状況はある。

 もとよりテロリズムは悪である。しかし、だからといってテロの対象が、特に国家などの体制が正しいのだとは絶対に言えない。
 憎しみの根源から目をそらして、それを勇気をもって解決しようとすることや、そのような努力を放棄すること、それが「悪」なのではないか?そこをうち捨てて置いて、自らの主張を通すことこそは、「暴力」以外のなにものでもない。
 テロリストはそんな努力を放棄し、解決という理想からは遠いところで無差別殺人をはじめとする罪を犯し、姑息で卑怯な行動を肯定している。また、根源の解決をはかろうとせずに反省なく「対テロ」を叫び、テロリストとの戦争を進めていくものもまた暴力に屈服しており、あまりに哀しい。
 両者共に悪に荷担し、暴力を肯定する危険な存在である。

 憎しみの根源が何か。解決を待っている課題はなんなのか。そして、それに真摯に取り組む人は誰か。それらに注視し、そこで本気で戦っている人を支援することが必要だ。
 例えばサミット等では貧困対策を取り上げるが、先進国の安全保障からの発想だけでなく、いわゆる人間の安全保障の立場から、貧困と困窮しているひとびとそのものを目的として問題の解決を目指すべきだろう。要人達が、本当にそこまで考えていなければ、この問題はけして改善することはない。いわゆる主要国が、軍の士官や技術者を養成するよりも多くの予算と人間を投入して、彼ら士官達よりも多く、平和のための専門家を育てるようでありたい。
 


2002.0630 日曜日
 

 夕刻より来客。みうらっちと飲みつつ語る。現在彼は、初めての現場を進めており、そのプロジェクトについて説明してくれた。

 8時からは、サッカーのワールドカップ、決勝の観戦。ブラジルが2-0でドイツを下した。5回目の優勝という。なんでそこにいるんだ?というほどに、ゴールを決めるロナウドは必ずシュートにからんで見せた。試合後、勝利を家族に、息子に捧げると語った言葉に全く修辞の面影はなかったのが、僕にはなんだか感動的だった。それにしても、すごい髪型ではあったが。

 明日から7月に入る。少し蒸し暑さが戻ってきた。 
 


2002.0629 土曜日
 

 居間でテレビをつけっぱなしのまま、本を枕元に置いて、そして朝まで寝てしまっていた。寒さで起きて、布団で二度寝。午後起床。

 夜半まで休日出勤。受け持ちの南の島のプロジェクトと、それから新しいプロジェクトの仕事が、だんだん交錯し、錯綜しだした。量は大したことがないと思う。ただ、僕には少し手に余る。

 そうそう、今朝、テレビの前で起きる前、変な夢を見てしまった。身体の片半身に、おおきないぼがたくさん出来てきて、とても痒くなってしまって困っている。そういう夢だ。7時ごろのニュースだったか、カネミ油訟の話題をやっていたのを見た。たぶん6時頃にやっているニュースを耳で聞いたためにあの夢を見たのだろうと思う。ニュースによるとあの油には、新事実としてダイオキシン類の混入があったという。
 ただ、カネミの油でいぼが出来た、というのは、僕の夢の中の空想のようだ。

 もうすぐ7月というのに、こんなに涼しくてよかったのだろうか。 
 


2002.0628  金曜日
 

 新しく職場に入ってきた方の歓迎会を、会社を終えて行ったが、忙しくて終わりがけにしか行けなかった。 
 うちは、他の部と違って、若い人が多い。歳のいった人も、なんとはなしに若返るような雰囲気がある。 
 


2002.0626 水曜日
 

 霧のような雨が終日降った。

 仕事を終えてから、夜、一杯やりにでかけた。というよりも、ある紳士をねぎらいに出かけたのだ。この方と、ひとつきほどを一緒に過ごした。そう、南の島でご一緒させていただいた方である。

 先日帰国されたところだった。相変わらずお元気である。なにより。自宅へ食事に来なさいと誘われた。南の島でおっしゃった、そのまま、約束をとりかわした。今週末に伺うことにする。お楽しみである。
 


2002.0625 火曜日
 

 朝のうちから、はらはらと雨が降った。今日はちょっとお休みを頂いている。

 八王子市の南大沢は、いわゆるニュータウンで、新しい都立大のキャンパスもあるところだ。うちからも近い。アウトレットのモールがあるというので、行ってみる。夏服が皆無に近かった。

 腐っても東京というべきだろうか、そのモールは品揃えが非常に豊富で、店の数も多い。はやばやと引き上げるつもりが長居してしまう。いつもなら当たり前の服であればなんでもよいと考えるのに、今日は楽しい服を買いたい気持ちになった。

 しかしよく冷える日だ。風邪を引いたかと思うくらいにたびたび背中が寒くて困る。

 夜、サッカーのワールドカップ。韓国-ドイツ戦。1点を守ってドイツが勝つ。韓国は3位決定戦へ回ることに。

 ただ試合を見るだけでもエネルギーが必要だからだろうか。韓国はよくやったが、負けて口惜しいと思えるような執着は、もはやない。当の韓国のサポーター達も、予選や決勝の1戦目のような熱気はもはや持っていないように思う。なんだか不思議な現象である。日本が決勝トーナメントで敗れたときもそうだった。
 


2002.0622 土曜日
 

 昼ご飯にと、日野館に出かける。甲州街道沿いの名主の家をそのまま使った、立派な立派なそば屋さんである。うちから車ですぐの場所にある。このあたりは思い当たる範囲ではなにも名物のない地域なのだが、日野館はなかなかの構えのお店である。親でも来たら連れてこようかと思う。

 料金はさすがに少し高い。が、非常に腰のある蕎麦と、デザートに食べた蕎麦の実入りアイスクリームの素晴らしい香ばしさには満足。
 


2002.0616 日曜日
 

 昨晩は遅かったが、奮起して9時前に起きる。勉強の前に、散らかった部屋を掃除。と、その前に、部屋造りが始まってしまう。

 僕の部屋は2階の2LDKである。広めのLDKと続きになった6畳、さらにもうひとつ6畳がついている。LDKのみがフローリングの洋間だ。

 片方の和室が居間になっているのだが、これはLDKを作業用の机と、独り住まいには大きめのダイニングテーブル、それから通しで幅3.6メートルある腰までの高さの本棚が占めているせいで、とても洋間がリビングとして使えないからだ。LDKのほうは、よくいえば、これぞSOHOというような部屋である。
 で、そのSOHOみたいな洋間の作業机を、やっと今日、整えた。買ってきた材木を組んで製図用の天板を載せただけだったので、デスクトップのマックをはじめ、その他諸々が載っかって、結局半年ほど机として使えていなかった。天板の下に一段棚板を作って、マックやプリンターを持っていき、やっと今日、机が使えるようになったわけだ。

 夕刻になって、めんどうな配線も終わり、昨日買ったハロゲンのアームの長いランプを寄せて勉強を始める。

 夜半、会社へ借りていたバッグを返しに行ったら、オフィスの模様替えが終わっていた。さあ、心機一転とばかり、ねじを巻き直して行こう。

 サッカーのワールドカップは、決勝トーナメント2試合が行われた。どちらも延長戦にもつれ込む接戦。セネガルが勝ち進んで、なんとなく嬉しい気持ちになる。日本とぶつからなければいいのに。そういえば南米はブラジルだけしか残っていない。スペイン語圏のラテンアメリカの国と言うことで、メキシコには粘って欲しいものだ。
 


2002.0615 土曜日
 

 夕方、車で電気店まで行って、部屋の照明を買い求める。LDKの全体照明だけではぼんやりとしているので、汎用性のありそうな、アームの長いスタンドライトを買った。思った通り、ダイニングテーブルにも、作業机にも届き、さらに天井への間接照明にすることもできるので、部屋はだいぶ雰囲気が良くなった。

 それにしても晴れ間のない気候だ。これでまだ梅雨ではないのだろうか。冬以来、富士山も全く見えなくなってしまったし。
 


2002.0614 金曜日
 

 この土日でオフィスは模様替えである。慢性的な席の不足を一気に解消するべく、一気に模様替えを行う。とんでもない量の書類なども、この際整理される。

 というわけで、遅くまでほとんど引っ越し屋さんの状態となる。終わるとなんだか、腰が痛くなってしまった。 
 


2002.0613 木曜日
 

 昼下がり、新宿に用向きで出る。うまくやったもので、帰り道、覗いたお店では、サッカーワールドカップの日本戦をテレビでやっていた。これは見逃せまい。終了前の20分ほど、相席となった見知らぬ背広のおじさんと見る。チュニジアに、少しの余裕さえ持たせて勝利。1勝でもできればよいと言われていた日本が、これで決勝トーナメントに進むことになった。しかも、ブラジルを避けて、まだ勝てる可能性のあるトルコと当たる組み合わせだ。ついている!

 全く彼らは、今や日本の希望でさえある。景気や経済をとりあげたって、僕は、今の日本がだめだなんて思わないのだけれど、彼ら日本代表チームは、ほかに何も較べられないような痛快さを見せてくれた。偉大なことではないか。
 昔と違って、サッカーはサッカー、景気は景気、あれはあれ、これはこれ、僕は僕、あなたはあなた。そういう世間である。世の中変わったような気がする。が、お祭りで世の中明るくなるのは、今も同じなのだ。
 


2002.0608 土曜日
 

 いい天気だ。建築士の勉強等。家で過ごす。昼食はとろろをうどんにかけて。山芋を自分で擦ったのは、はじめてのことだ。

 閉店間際のスーパーで、夕食前に買い物をする。週に一度か二度のことだが、数千円を使ってしまうことが多く、果たして外食にくらべてどれほどの節約になっているか、毎回疑問に思う。贅沢品を買っているわけでなし、豆腐なども一番安いものしか買わないのだが。
 


2002.0604 火曜日
 

 会社をかなり早く出た。家に着いたら、もう始まっていた。サッカーのワールドカップ。日本の初戦、ベルギー戦を見るのだ。
 勝つかと思われたが、敵もさるもの。そうはいかない。2対2で引き分けた。しかし、よくやったと思う。上出来だ。これならいけるかもしれない。なにせ2点をあげたというのは、かなりの成長だろう。しつこい攻撃ができるようになっていると思う。あとはディフェンスさえしっかりしておれば。
 韓国は勝った。こちらは力強かった。お隣さんだけに嬉しいものである。 
 


2002.0602 月曜日
 

吉祥寺

 夕刻、吉祥寺に出た。みうらっちとY崎に会う。建築話を井の頭公園そばの焼鳥屋(?)にて。その後移動し、ハモニカ横町のバーにて。

 吉祥寺は、なかなかおもしろい町だと思う。格好いいところなのかと思っていたが、なんのことはない、とてもヒューマンでアジアンな(わけわかんない)、お店のたくさんあるところなのだった。でかい商店街のあるまちだと言えば、それまでである。なんだか、大阪の天神橋に少し似ている。神戸の元町と言った方が人聞きがいいだろうか。ともかく、小さな店が、大型店よりも幅を効かせている。垢抜けているかどうかなんて、もともとどうでもいいくらいに、生き生きとして見える。

 ハモニカ横町のバーでは、たまたまチリ人と出逢った。ときどきかかってくるのかかけるのか、携帯電話で話す言葉が、どう聴いたってチリのスペイン語だったのだ。いてもたってもいられずに声を掛けてみたら、サンティアゴ出身だと答えた。久しぶりで心配したスペイン語も、簡単な会話程度なら問題なかったので安心した。名はホアンといった。

 スキンヘッドという店を兄弟とやっているホアンは、なぜかジョニーの名で通っており、いかついパンク風のいでたちには、店の品であろうでかでかとした銀細工があちこちに張り付いている。頭はもちろんスキンヘッド。スペイン語ならペラードってところか。
 今度友達と来いと言われた。そのうち行ってみようか。買うものはあんまりないかも知れないが。オンセ(いわゆる夕食のような軽食、お茶)でもやろうと言うと、それはいいやと笑っていた。
 


2002.0601 土曜日
 

 昨晩が遅かったので、ほとんど昼まで寝ていた。 
 午後、車の修理に出かける。このあいだから、エンジンのベルトがゆるんできたためか、走らせているときに、きゅーきゅーと音がするようになっていた。これを近所のディーラーへ行って治した。もう6年ほど乗っているから、ベルトは交換することにした。
 そういえば冬からタイヤを交換していないから、まだスタッドレスを履いたままだ。作業した人には分かってしまったろう。ちょっと恥ずかしい。

 その後は散髪へ。2月末以来である。相当に伸びてしまっていた。さわやかな気分になる。

 建築士の勉強できず。いかんいかん。 
 


2002.0531 金曜日
 

 なんだか疲れ気味なのだが、誘われるまま、半分仕事で飲みに出かける。 
 余りにナイーブだといわれそうだが、無邪気に楽しい酒こそ好きだなあと思う。 
 


2002.0530 木曜日
 

 だんだんと日中の気温が高くなっているのが分かる。洋装では会社に着ていくのはどうしたって長ズボンだから、早足で向かう朝の通勤時間など、太股辺りが蒸れて仕方がなく不快だ。

 午後、新宿まで出て、A型肝炎のワクチンを接種する。夏から赴く出張への備えだ。先日の健康診断では血液検査まで行ったが、これで僕は陽性だった。協力隊に行く前のワクチンの効果なのか、それともチリでウニにあたったのは肝炎だったのか。予防なのだから、一応それでも受けておいた。あとは破傷風と狂犬病を受けることにしたが、これは1週間後に同時に受ける。ただし2回打つことになっているので、その後ひと月したらもう一度やらないといけない。

 夜、出張期間について前々から変更があると聞いていたものの、とりあえずの結果を知った。途切れ途切れとはいえ、ちょっと長い。生活や人生設計を考えると、余りといえば余りである。が、どのように受け止めてやっていけるのか、工夫のしようは残っている気がしているから拒否はしなかった。
 


2002.0518 土曜日
 

ミニチリ映画祭

 夕刻よりタイヨー君の家に向かう。僕とタイヨー君のほか、トシコさんとミワコさんもやってきた。今日はささやかながら、久しぶりに、そしてどっぷりとチリの文物にもういちど馴染んでみよう、楽しんでみようという集まりだ。先日チリへ行ってきたタイヨー君が、音楽や映画のビデオを持って帰ってきているので、みんなで見ようというわけだ。
 そう、僕らはいずれも、かつて2年ほどをあの国で過ごした経験を持っている。

 懐かしむことも大事だが、今も言葉やラテンアメリカの生活への順応性みたいなものを失いたくないという気持ちが皆つよいのではないだろうか。単に思い出としての財産ではない。いつでも使うことのできる資産のようなものとして、たぶん僕らはかつての生活の記憶を捉えている。一種の技術と言っていいかも知れない。

 「El Chacotero Sentimental(える・ちゃこてろ・せんちめんたる)」「El Gringuito(える・ぐりんぎーと)」「Taxi para 3(たくしー・ぱら・とれす)」。この3本を見た。どれもチリを舞台とした映画だ。

 El Gringuitoは、はっきり言って駄作だと思われる。なぜチリ人に評判がいいのか理解に苦しむ。

 3つの生活オムニバスからなるEl Chacotero Sentimentalは、ラジオの電話相談(ないしお喋り)の番組で取り上げられた実話を下敷きにしており、DJ当人が出演している。最初の物語で大笑いさせておいて、ふたつ目で背徳と地獄を見せつけ、三番目でチリらしいほのぼのとしたハッピーエンドとなる。
 どれも現代チリを活写して非常に巧みだ。今風に気が利いた演出や映像、脚本は、チリを途上国や中進国として見くびっている人からは驚きのレベルではないだろうか。3つのストーリーは、どれも結局は性と生活を扱っていることにおいて共通している。

 Taxi para 3。これはラテンアメリカらしい、しかもチリの味が良く出ている、それなりに苦い苦いストーリーだ。
 ようするにどうしようもないちんぴら強盗二人組と、仕方なくグルになって逃亡を手助けしながら日銭を稼ぐタクシードライバー、計3人の、愚かで哀しく、しかし人間らしい日々と破局を描いている。映像もなかなかに美しいと思う。
 


2002.0514 火曜日
 

 建築士の申し込みへ行く。 
 


2002.0513 月曜日
 

 久しぶりに会社へ。 
 乗り換えする駅の駅前ロータリーの工事が終わっていたり、家の近くの通勤路上にあるマンションの工事が始まっていた。 
 


2002.0512 日曜日
 

 雪舟展へ。東京国立博物館。最終日が近かった。相当の人出。車で行ったため着いたのが遅く、それこそ早足で見た。中国の作家の作品もたくさん展示されており、素晴らしかった。不思議なことに、日本画や洋画とくらべると、中国の絵画に関しては、あまり紹介されていないのではないだろうか。画集なども驚くほど少ない。息をのむほどの名画がたくさんあるというのに。

 帰り道、メキシコ料理を食べる。

 さらに福ちゃんの家へ。新生活の拠点。楽しそうだった。 
 


2002.0511 土曜日
 

 休む。近所を散歩。 
 


2002.0509 木曜日
 

シドニーのパブ

 今日でシドニーもお仕舞いで、夜には成田への飛行機に乗る。

 数日だけの外国旅行となれば、どんなふうに過ごすのがいいのだろう。それは人それぞれなのだろうが、シドニーのようなまちであれば、まったく様々な過ごし方ができるに違いない。
 僕はといえば、郊外へは昨日オリンピックパークへ足を伸ばしたきりで、別段ボンダイビーチなどへも興味を持たないし、今更郊外へ行く気もないのだが、都心もなんだか飽きてしまっていた。おもしろそうな場所、感じのいい町並みを歩き回ってきょろきょろとし、そこの空気を吸って来るくらいしかやることもなくなっているのに、ふたつきも小さな小さな南の島にいたものだから、久しぶりに歩き回って向こうずねの筋が張ってしまっていて、これでは歩くのも意気揚々とはいかなくなってしまっている。

 結局博物館をまわってから、もう一度オペラハウスを見に行って、そのあとハーバーブリッジのたもとのロックスという古い町並みを残したという観光地を歩くに留まった。歩く以外は、ちょっとした店のテラス席でひとり悦に入ってニョッキなど食べてみただけだ。ついでで頼んだ葉っぱのサラダは、まるで馬に食わせる飼い葉みたいにボールでいっぱいに出てきて格好が悪かったが。

 そうは言っても、ある程度の距離だ。いいかげん歩き疲れた夕方、のどが渇いてしまった。飛行機の出る時間は夜の10時過ぎで、空港へのタクシーにかかる時間を考えても、7時までにホテルへ戻り、荷物を受け取ればよかった。映画でも見て時間を潰すなり、疲れたら寝てしまうなりしようかと考えたが、そうするには少々遅くなっている。仕方がないので、パブによってビールでも飲むことにした。

 あまりうるさくなくて、屈託もなくて、いやらしさもない。そんなパブなら、ただもうそれだけで最高だなと思うが、適当に入った店で黒ビールを飲みながら、シドニーはそういう店が多いんじゃないかと思った。まだ2軒しか入ったことがないけれども、お洒落そうなパブも、どうでも良さそうな店も、いずれもこの土地の人達のさっぱりしたところや、「柄の悪くないところ」がでていて、よそのハードな大都市に較べてほのぼのとしたものが漂っている。仕事帰りに、何の緊張感もまとうことなく立ち寄れそうな、そんな空気を感じて、やっと僕はこのまちに魅力を感じられるようになった。
 ひょっとしたらここは、お気に入りのパブのようなまちなのかも知れない。

 あとはお笑いである。南の島で予約した飛行機のカンタスだが、なんとその予約が間違いで、実はJAL以外は選べないチケットなのだった。島の係のおにいさんは、真面目だけれど頼りなかった。心配していた通りになったわけだ。
 せっかくカンタスのオフィスに日中確認に行ったというのに、最近はリコンファームは一切しなくてよくなっていて、ただひとこと、大丈夫ですよ、その必要はありません、と笑顔で応対されてお仕舞いなのだった。そのかわり、こんな初歩的なミスがチェックインのカウンターに来なければ分からなくなってしまっている。
 空港でそのカンタスの相談カウンターに行ってみた。もしも今日帰りたければ、JALは明日の朝しか便がないので、大金をはたいてキップを買う以外にないと言われた。そして、それができないなら、今日はホテルをとりなさい、と。

 というわけで、パブの黒ビールでしめるつもりのシドニーも、空港近くの安モーテルでもう一晩過ごすことと相成った次第。

 リコンファーム。なにがなんでもやるべし。 
 


2002.0508 水曜日
 

 午後、オリンピックパークへ向かった。2000年オリンピックシドニー大会のメイン会場である。市内中心部より、電車で小一時間。
 鉄骨造の大建築が広いエリアに並んでいる。お国柄か、最近の世界的な傾向からか、いずれの建物も、国家的な行事のために設計されたのにもかかわらず、まったく仰々しいところがなかった。ただ淡々と明るく、機能的でしかないと言ってもいいような、そんなまとめ方だと感じた。

 夜は湾岸の再開発地区へ。独りながら、どうどうとレストランのテラス席で食事。イタリアンレストラン。サラダがうまい。パスタがうまい。ビールもいける。

 8時も回ってから、次は水族館へ。10時までやっているとのこと。素晴らしい。 
 


2002.0507 火曜日
 

結局よくわからない

 早朝の便でシドニーへ飛ぶ。国の様子は、空港の構えからして、なんとなく伝わってくるものがある。シドニーのそれは、よくある先進国のそれだ。

 帰国は金曜となる。今日はここへ泊まり、2日ほど有給休暇をあてた。5月の連休などを返上した形であったから、というと仕事に対して甘いといわれるだろうが、南の島は、職場では比較的過酷な生活環境とされているので、少し休みをとってもよいという雰囲気があった。どちらにしても、名のある都市をしっかり見ることは大切なことだ。機会があるならつべこべ言わないで、どんなことをしてもやればいいと思っている。

 ホテルへチェックインしたら、午後早く、早速オペラハウスを見に行く。 
 複雑な入り江を構成するシドニーの湾の一角、小さな岬の突端に白く陽光を反射させて輝く建築を認めたときは、なんとなくほっとした気分になった。感激することがなかったのは、南の島やフィジーとの落差を、数時間でこの身に体験していることにたいして、まだどうにも素直になれないでいるからだ。難しい話ではなくて、ともかく飲み込めないだけだ。
 この大都会はゴミもあまり落ちていず、治安もよく、信号だらけで車はよく洗車されて美しく、超高層ビルがひしめいている。湾岸は賑やかに開発されていて、立派で美しくさえあるサンドイッチなどのスナックもよく売れている様子だ。まあとにかく、ご近所の他の国とは見事なまでに様子が違う。建築の素晴らしさを受け入れるのは、その辺に慣れてからだ。

 しかし、ほかの太平洋諸国にくらべて、なぜこんなに違うのだろう。当たり前ではないか。ここは途上国ではなく先進国なのだから。そんな返事をしそうな人の顔が何人か浮かんだ。しかしそれでは答になっていない。たしかに、答えることは簡単にはできない。それなりの事情を知る必要がある。僕はそのあたりを知らない。だから、南の島のことも、オーストラリアのことも、相当な部分について、結局よくわかっていないことになるのかもしれない。
 

さてもオペラハウス

 さてもオペラハウス。50年代にあったコンペがもとで作られたというのが信じがたいくらいのエンジニアリングである。というよりも、その位しなければ実現しないようなデザインなのだ。

 この建築は、工費と工期が異常に増えて、完成までに14年もかかってしまったあげく、途中で設計者もおっぽりだしてしまった(追い出された?)いわく付きの難事業の産物だ。悲しいかな、名建築であるにもかかわらず、そんな語り草が常について回っている。
 けれど僕は、逆に、そのような難事業であったにもかかわらず、最後まで実現を目指して、いかに変更が大幅であったとはいえ、決してオリジナルデザインは白紙にされることがなかったということに感動してしまう。
 そこまでしても実現したいと人々に思わせ、その夢を14年も引っ張り続ける設計案というものは、そうそうあるものではない。そして、現に実現した後は、シドニーというまちの顔となり、オーストラリア大陸全体にあってさえ、象徴的な存在となっている。

 エンジニアリングに感心した、と最初に言ったのは、どこまでも夢の実現に向かってゆく意志を、その一点に読みとることができたからだ。建築が美しいのだけれど、「美しいはずの建築」を、なんとしても実現させてみせるという、その強い意志の崇高さに打たれたのだ。

 このような建築にかかわり、応えることができたなら、その人は幸せだろう。そこまでの要求をされることは、今ではめったにないことであり、そんな要求に応えることのできる者もまた、めったとはいないのだ。
 


2002.0506 月曜日
 

 南の島を去る日がやってきた。朝早く、ホテルのチェックアウトをすませて、自転車で出た。国立図書館で借りた本の返却。お世話になった島の方への挨拶など。

 ターボロップの小型旅客機へ乗り込み、不安な離陸を終えた後、外を見た。

 直径20キロの環礁の一角を占める本島が見える。異常なまでに細長く、ブーメラン型をした島が見える。いつもは見上げるばかりだった椰子の列が、今は黒々と強い緑の葉を茂らせているのを見下ろす。外洋はひきしまった群青で、浸食の波を延々と打ち寄せている。内海は盆の中の清水で、島の大気の温度を伝えてくるような、あたたかな緑と青の色模様をみせている。

 また来ることがあるだろうか。

 フィジーはナンディに泊まった。インド系の多い都市なので、カレーを食べた。食傷は解消されつつある様子。 
 


2002.0505 日曜日
 

 午前少しく雨が降るも、午後近くになって快晴。眩しいばかりの太陽。青い、南の島の空気がむせて薫る。

 今日は休みで、夕刻まであれこれと時間をつぶしてから自転車に乗って外に出た。 
 10日ほど前のこと、ヨーロッパの海で、ドイツの方だと聞いたが、この島出身の船乗りが海難事故で3人亡くなった。それで、今日は空港ターミナルの広場で、追悼のミサがあった。千人近い正装の島民が集まっていた。
 出稼ぎ経済と言ってもいいかも知れない。船員学校があって、そこを出ると遠洋の航路の船乗りとなり、世界中をめぐるこの国の人がたくさんいる。長いときは数年も戻らない。妻や子や、親を残して、たくさんの島の男達が日本を含む、たくさんの国の港を目指して進む船に乗っている。

 夕日を見送りに、使われていないような、近くの埠頭へ行き、腰を下ろした。 
 知らない男の子がひとり、すたすたとビーチサンダルの音をさせてかたわらに座った。僕らはしばらく無言で南へ流れる夕映えの雲を眺めていた。
 男の子は「わっち」という名だという。いくつか島の言葉を教えてくれた。

魚:いか 
海:たい 
蟹:(忘れた)

 神のことは、「あとぅあ」と呼ぶそうだ。これは、「わっち」に聞いたのではなくて、「えすたー」という子に聞いたのだが。ちなみに女、は「あか」という。忘れぬうちに、なんでもよいから書いておく。

わっち

km:わっち

 日が沈んでしばらく経った。暗くなったので、わっちに「ふぁふぇたい」と礼を述べて別れた。

 涼しく、爽やかな最後の夜が始まる。 
 


2002.0504 土曜日
 

 今日も仕事。帰る間際なので、たいていのことは片づけてしまっている。荷造りも、今度は荷が減っており楽だろう。

 ここを離れる前にしておきたいこととは何だろうか。気の済むまで歩いたり、人々の表情を写真に納めたりすることだろうか。

 東京での勤務が始まったら、またなぜか忙しく日々が過ぎていくことになる。仕事も生活も甘くはないが、せめて時々は、落ち着いた時間を持っていたいと思う。そんなときには、たぶんこの島のことを思い出すようになるだろう。想像に逃避するというよりは、比較して今がどのくらい安らかなのかを知るために。
 


2002.0503 金曜日
 

 今日は終日の雨。昨日の曇り日も珍しかったが、いちにち雨が続くなんて、これまで何度もなかったことだ。

 南の島には、CDを20枚ほどと、数十曲のmp3エンコードの曲をパワーブックに入れて持ってきている。仕事で使っているのは東芝のノートだが。

 仕事の合間には、田舎らしい歌声がほほえましいこの島のはやりうたをおもいがけずそこここで聞くことがあるが、仕事を終えて部屋へ戻ったときには、気に入った音楽をかけることにしている。
 といっても、もうふたつきだから、どの曲もとっくに何度も繰り返し聞いており、ちょっと飽きてきている。いつも持ってきているラジオは、あいにく今回持ってこなかった。

 来週の月曜日には、この島を発つ。 
 パシフィックの一角、のんびりと暖かなダンスミュージックは、もう聴けない。帰国したら、何を聴くだろう。何を聴きたいと思うだろう。

 ラジオなんかでDJをしているお医者さんがいて、彼にCDを貸した。誰かを通じて、またいつか返してくれればいい。選んだのは、日本のポピュラー。その手のはほとんど聴かないなか、適当に持ってきていた山下達郎の古いライブである。「甘く危険な香り」や「蒼氓」、「Rainy Day」、「Sparkle」などが入っている。

 ここは台風が生まれ、太平洋の雲という雲が湧き起こる場所だ。夏を愛する音楽家の曲が、たぶん何曲か選ばれて、この島のFMに流されることになる。ちょっと素敵だなと思うのだが、それを確認できないのは残念なことである。
 


2002.0502 木曜日
 

 ずっときれぎれに曇天が続く。めずらしいことだ。おかげで涼しい。

 よく休めているはずなのに、日中がっくりと眠い。血圧でも低いのだろうか。なのに、少々忙しい日になった。

 今週からホテルの机の上に、花が皿に生けて飾られるようになった。ときどきやってくれていたのだが、復活したのだ。 
 夜、電球の明かりで数種の柔らかな花々を眺めるのは、なかなかに綺麗なものだ。 
 


2002.0501 水曜日
 

 メーデーは、国によっては実質の祝日となっているが、ここ南の島は、全くその様子はない。元気にみんないつもと同じように過ごしている。

 もう5月だ。つまり年間のうち半分とは言わないまでも、かなりの時間が今年、既に過ぎたと言うことだ。

 すなわち数年ともなれば無為に過ごすことはやめなければならない。あなたが、本当に心動かされているのなら、その通り正直に生きればいいではないか。仕事はなにより生きている時間を差し出すことだ。しかし、焦ってはただ損をする。納得できる方向へ、その流れを、今から向けていけばよい。(私信)
 


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