Diario
日々の記録

 
 
 
 


image:ブランカおばさん
km: ブランカさん  

もう一回、砂漠の花を。 
連れていってくれたブランカさん夫妻。 
 感謝を込めて。ほら、奥さん綺麗ですね。 


2000.1119 日曜日
晴れ
 

 暑い。汗が噴きそうに暑い。乾燥しているから汗が出ないだけだ。これはもう夏。11月も下旬だものな。

 午後から市役所で文書の作業をする。報告書だ。具体的で意味のある文書を作るのは、難しい。僕の書くものは、どうも空虚な修辞に堕する傾向がある。

 深夜、休憩しながらサンドイッチを作って食べながら、オフィスを歩き回る。こうして夜の仕事場にひとりでいるのが好きだ。静まり返っているのが、何か嬉しい。
 なぜだか持っていたのが山下達郎の昔のライブアルバム「JOY」。さっきまで静寂を楽しんでいた癖に、今度はボリュームを上げて一緒に歌う。
 こういうのが、僕の一番乗れるパターンだ。誰しも、こういう乗れる状況設定というものがあると思う。

 仕事でなくてもいい、それぞれの乗れる状況について聞いて回ったらおもしろいだろう。
 


2000.1118 土曜日
晴れ
 

更衣

 午後に起きて、市役所で少し仕事。

 夜、カレラの知り合いのおばさん達のところで、食事を頂く。これまでもたびたび、よくしていただいた人達。今日は、お別れの晩餐。
 僕にとって、彼女たちは、チリ人がいかなる人々であるか、多くを印象づけたひとたちだ。感謝は、どう表現されるべきだったのだろう。

 ありがとうございました。またきっとお会いしたいと思います。本気です。それまで、お元気でいっらっしゃるように。

 ノガレスでコレクティーボを降りた。
 夜には霧が出たりすることの多い毎日だったのが、今日はさえ渡る空となった。実質夏となって、南半球の夏の星座たるオリオンや大好きなスバルが、北半球の姿とは逆さまになって輝いている。盆地の田舎だから臨める、満点の星ぼし。
 なぜか照れくさくて、しばらくしか空を仰いでいられなかった。

花の色にそめしたもとの惜しければ衣かへうき今日にもあるかな

 夏となり、更衣の日を迎えた。愛し馴染んだ春の着物の色と別れるのが惜しい。そういう意味だ。
 何重かの意味を持って味わえる歌である。
 


2000.1117 金曜日
快晴
 

「のっぽさん、はじめて喋りました。」

 と、NHKの幼児番組「できるかな」の最終回でのっぽさんが言ったそうである。それまで完全な無言劇を貫いていた、彼の言葉。

 僕の方は、今日、はじめてチリで怒りを露わにしてしまった。ぷんぷん程度だけど。
 いやはや、参った。もうたくさん。

 いやね、うちには看護学生がインターン中で4人いるでしょう。彼女たちはとってもいい子たちなのです。が、ほかにあと二人、不定期で、特に週末にやってくるのがいるんです。この子達がねえ、女の子ですがね。よく散らかすんで、前にちょっと張り紙でお小言を述べたことがあったんですがね。いや、綺麗にしよう!てなスローガンですよ。まあ、概して僕とは仲がいいんですが、それが今日を最後に、もう泊まりで来ることがないらしいので、お別れ会をするとかでリビングでワインを頂いていたのです。
 こちらも帰国間近で異常な忙しさなので、夜中になったところで丁重に断って、自室に仕事をしにすっこんだんですよ。ところがね、ほかに仲間が来てるのに、僕がガイジンで珍しいというか、おもしろいというか、人がいいと思われているのか、もう引っ張って放さなくって、何度断って仕事をしようとしても、邪魔が入る始末なんですわ。これがまたひどい邪魔の仕方でね。書けませんが。
 これにはねえ、なんぼ気のいい兄ちゃんの僕も、ええ加減頭に来ましてね、どなるわけにもいかんので、夜中の2時から家を出ましたよ。相手も慌ててた様子が少しだけ伺えましたが、謝るとかどうとかいうわけでもなく、どうも最後までまともなコミュニケーションができませんでした。僕の言葉のせいもあるけれど、ありゃ、相手が悪かったと思います。
 で、今、朝の5時ですよ。市役所です。ありがとうございます。仕事しております。おかげさまでよく仕事が出来ます。家にいても、この時間までは仕事をするつもりだったから、時間はいいんですがね。

 ・・・異文化コミュニケーションの問題と片づけていいのかどうか。今になってこんなへんてこな目に遭うとは思わなかった。これも笑えるいい経験になるだろう。(と書きながら、まだ怒っていたりする。)が、後々問題にならないだろうか。習慣の違いから来ることであると、どうでもいい些事が妙なこじれ方をすることがあるから。
 例えば、フィエスタには必ずルームメイトを誘わないと非礼に当たるとか、お別れ会は最後までいないとおかしいとか、女の子の誘いは断わると無礼だとか、そういうことってないだろうか。
 実際、何かに誘われたら、たとえ行けないと分かっていても、行くよと答えるのが常識の国なのだ。行けないとか、行きたくないなどと言うのは、非常に感じの悪い、わきまえのないことらしい。で、行けないときは、連絡もしないでいい。これは約束を破ったことにはならない。ようするに、そういうことなのだ。誘う方は、日本以上に深謀遠慮を尽くして探りを入れるか、予定は未定とあきらめるしかないのである。

 まあそんなことはいいか。はじめて怒りました。ああ。
 

アイマラ人の男の目

 しかし、収穫もあった。彼女たちの仲間のひとりの男の子と話していて、彼がいわゆるインディヘナの出身で、いろいろと話ができたことだ。チリ北部やボリビアなどにいるアイマラの出だという。独自の言葉を持つ人々で、ほか、近い民族にケチュアなどもある。彼はたしかに、ほかのヨーロッパ系のチリ人とは違うインディヘナの顔をしていた。チリでは、政策の違いから、あまり先住民との混血や文化の混淆が進まなかった。だから、インディヘナと白人との外見上の違いがペルーやボリビアと比べてはっきりしている。

 バルパライソの大学生である彼の目は、どこか拒絶するような動きをするときがあった。きつい言い方だが、要するに否定し難くある差別の視線の中で生きる人間の目だった。そして話すうちわかったのは、明らかに、普通のチリ人とは違った世の中の見方をしていたということだ。
 チリの中でのマイノリティとして、アジア人である僕には、何か親しみを感じている様子だった。

 マルセロと言った。マルセロとは、火星の子もしくは火星をシンボルとする神の子、という意味である。戦いの神の子。たけし、たける、といったところだろうか、日本でいえば。
 彼の専攻は、社会学だ。バルパライソにあるマプチェ族のコミュニティを支援する活動にも参加していると言った。

 彼を他の仲間がどう扱っているかを見ていた。彼の戦いは、こんにゃくに刃物といった風な困難さがありそうに感じた。インディヘナに対する明らかな差別感情を、仲間達は負であるとは思っていないか、差別する側が解決するべき大切な問題であるとは意識していないようだった。「あなどり」の心が透けて見えていた。
 それは、寒気がしそうなことじゃないのか?とてつもなく寂しいことじゃないのか?
 そのあなどりの目は、本当の意味では僕にも注がれているのだ。経済的に成功した国の人間だからと相殺されている。そんな建前だけを頼りに、僕は差別の視線からまぬかれていることになっている。

 本題からは外れるが、少数民族のコミュニティの側に立って仕事をする人達がいる。協力隊にもいる。それは、とても難しい立場の仕事なのだなということを想像した。
 感情的にも論理的にも、全てを肩入れしてはならず、もっと全体観に立つということ。外部との間で、そのコミュニティにとって利益となるように結果を導いていくこと。そんなことを可能にするためには、よほどの鍛錬と見識が必要だろう。実際にはどうなんだろうか。そういうことも思った。

 寒いな。朝方のオフィスは。昨日の昼は、30度近かったというのに。ここ数日で、チリは夏へ向かいだしている。
 


2000.1116 木曜日
快晴
 

 最近、どうも食事が楽しくなくなっている。日本なら気晴らしに出かけて、普段と違うものを食べることができるのに、ここではそれができない。エルミニア婆さんのところで食べる昼食は心配ないが、問題は夜だ。
 今まで大丈夫だったのに、なぜかここへ来てオンセで我慢しているのが辛くなってきた。いや、ほんとに辛い。外で食べようと思っても、なんでどこもかしこも似たものしか食わせないのかと恨めしくなる。

 これは僕の方の問題でもある。今の僕には、たとえ高級店でも、もはや西洋の料理は何でも似通ったものに感じられる。他の選択肢は、こちらでは、あって中華だが、これがまた大抵まずい。日本人の口に合わないというだけではなくて。
 じゃあ、何が食べたいのだろう。

 仕方がないので、夜食にそばを作った。今日は出汁がうまくできた。「だしの素」と鰹節さまさまだ。そばは、行くところへ行けば売っている。

 ああ、そばを食ってしまった。明日は何を食えばいいんだ。
 


2000.1115 水曜日
快晴
 

 いちにち、ほとんどを家で作業。静かでないといけなくなってきたからだ。
 午後の日射しが西向きの僕の部屋に差してくる。これから遅くまで照り続ける。カーテン越しに乾いた熱気が伝わってくる。

 午後5時52分頃、地震。震度は2程度。
 最初すこしく揺れた後、数秒のかすかな地鳴り。次いで5秒程度の揺れがあった。
 昨日も揺れた。地震国チリにいるのだなと思う。大阪などより、ノガレスはずっと多い。大地震の予兆でないといいが。
 


2000.1114 火曜日
快晴
 

 美しい晴れの日。たぶんこれから一気に夏になっていくんだろう。家のシャワー・トイレにぶら下げたタオルの乾き方が早くなってきた。

 午前、Kへ、マフラーを送る。気に入ってくれるだろうか。最近音沙汰がないけれど、元気にしていて欲しい。

 深夜2時33分頃、ちょっとした地震。震度は2から3だろうか。短い振動だったから、もしかしたら表のハイウェーを通るトレーラーの振動かも知れない。
 


2000.1113 月曜日
快晴
 
 

最後のデート

 午前、サンティアゴの事務所から調整員のSさんが来た。調整員は協力隊の事務方のスタッフで、僕らのバックアップをしてくれる人のことだ。彼自身もその昔ペルーの隊員だった。
 チリ隊では、活動の記録ビデオを各隊員ごとに作っている。その撮影をSさんがしてくれるというわけだ。

 役所の仲間を捕まえてはカメラに向かって紹介し、メッセージをもらう。主要な仕事についても、画像を記録していく。登ったこともない丘の上へも行って、そこからの眺めを映す。こんなふうにノガレスが見えるなんて。家も撮った。

 撮影がひととおり終わったら、食事を頂いた。昼間っからパリジャーダ。巨大バーベキューの盛り合わせだ。2年間のねぎらいかな?彼も来年そうそう帰国するので同じなのだが。

 夜になって、珍しく少し心が不安定になった。これまで薄っぺらながら住み着いてきたものを、この残りの期間で仕事を片づけたら引き剥がすようにして始末しなくてはならない。今日ビデオを撮って、そう意識せざるを得なくなったからだ。
 学校を卒業するときや、事務所を辞めるとき。そんな、あのときとも違った気持ちだ。多分もう会わないと分かっている相手と、最後のデートに出かけるとき。そういうのに近いだろうか。

 それにしても、そのデートはいろいろ宿題が多い。終えられるか分からなくなってきた仕事を夜中までだらだらと続ける。すると、チリに来る前の1年と少しをひとりで働いていた時のことを思い出した。あの時吸っていた空気の味や匂いがどんなだったかを思い出したのだ。あの時、白い壁の前で、白い机の上で、白い紙や白いコンピュータに向かいながら、夜のアトリエで過ごしていたときに感じていた空気がどんなだったかを。
 そうしたら、あのころの空気の湿り気みたいなものが、今はないということに気づいた。
 


2000.1112 日曜日
晴れ
 

 夕方、ノガレスに戻った。日曜の午後の広場はたくさんのひとで賑わっている。7時を過ぎても明るい陽が差している。もっと垢抜けたまちなら、ほんとうに絵のように美しいだろうと思うような、斜めのひかりなのだ。

 ノガレスの広場には、ハカランダ(ジャカランダ:ノウゼンカズラの一種)の立派な木が何本も植えられている。すみれ色のハカランダの花が、いつの間にかたくさん咲いていることに気付いた。
 


2000.1111 土曜日
晴れ
 

 たった千ペソ(約200円)で入れる映画館がサンティアゴのセントロにある。「X MEN」を見る。シネラマというのだろうか?湾曲した大画面で、えらい迫力だ。筋はなんだか「サイボーグ009」や「仮面ライダー」に似ていると思う。北米流の味付けで見せるとああなるかという感じ。子供連れが多いけれど、ここまできつい表現では問題があると思うのだが。これでどうして日本のアニメばかり暴力表現が多いと言われるんだろうと不思議になる。日本のは、あきらかに子供向けだからかな。
 


2000.1110 金曜日
晴れ
 

 市役所新庁舎の草案ができた。これまでも幾つか作っては見てきたのだけれど、伝統的な雰囲気というものにこだわるあまり、平面計画に矛盾が来るか、全くつまらない案になってしまっていた。今回、とりあえず没個性でもいいから、今風でもいいから、素直な案とした。

 夜、隊員連絡所でアサードをやるという情報を聞き、急ぎ出向いた。この週末はノガレスで仕事だと決めていたのに、発散もしないとだめだ。
 炭火で焼く肉はうまい。体中薫製みたいな匂いをさせながらビールを飲む。

 曇りの日が続いていたから、サンティアゴでも夜は寒かった。日本から帰国隊員した隊員が来ていたらしいのだが、彼は秋の終わりの日本より寒いと言っていたとのこと。今年は何かおかしいのではなかろうか。
 


2000.1109 木曜日
晴れ
 

こんなゆめを見た Tuve tal suen~o

 目覚める直前、なんとも珍しい夢を見た。

 幼稚園に上がるかどうかというほどの小さなかわいい男の子がいる。ショッピングセンターのような、研究所のような、閉鎖的で外が見えない建物の中。まだ真新しかった。
 僕は夢の中の登場人物ではあるのだろうが、しかし、別人であるようにも思えた。

 突然に男の子がポケットから拳銃を取り出した。小さな、小さな拳銃だ。まわりにはあまり人はいなかったが、大人達は皆血相を変えて逃げ出した。男の子が廊下を曲がって歩いていく。出会いがしらに拳銃を向けられてしまった中年の男は逃げまどって頭の上ほども高い窓から外へ逃げようとばたついている。

 ひと騒動続いた後、ほかに拳銃を持った男が男の子を撃った。その拳銃もごく小さなもので、命中したけれど、男の子はかすり傷ほどの怪我しかしなかった。
 男の子は、しかし、撃たれる直前、男を撃っていた。が、彼に当たってシャツを汚したのは、赤ワインだった。彼の拳銃はワインを詰めた水鉄砲だったのだ。
 火のついたように泣き出す男の子と、水鉄砲におびえて醜態をさらしながら逃げていった大人。そして撃った男。その男は僕であったような気もするし、そうではなかったようにも思える。

 騒動の終わりと共に、体中の力が抜けていった。そしてなんともいえない、重い気持ちになった。大人達の情けなさや、あんな男の子が怪物のようになってしまう状況は、なんなのか。そういうことを思っていたのだろうか。もう思い出せない。

 起きた後、短い映画でも見たような気分だった。珍しい夢だったな。他人に見せられたように、自分の外からの作為みたいなものを感じる夢だった。
 

 夜、昨日借りたスライド・プロジェクターで、いつか自分の撮った写真を見る。今日、家には僕以外誰もいない。居間の白い壁一杯に、沖縄の風景や学生のとき見た建築、働きだしてから見た建築などを映す。
 懐かしい気分。思い出して、それらの作品に再度感動する。気分が豊かになるのだが、それはしかし、スライドの内容によるものよりも、夜、こうしてひとりで幻灯の絵を見ているという満足によるものが大きい。
 


2000.1108 水曜日
晴れ
 

建築談義

 久しぶりに綺麗に晴れ上がった。

 クラウディアの友達、マルセロがやって来た。マルセロという名は全く多くて、2割のチリ人はマルセロじゃないかと思うくらいでややこしい。

 彼は建築の学生だ。チリではほとんどの学科は通常5年を修了年限とする。建築もその例にもれない。今は6年目だそうで、今は卒業のための設計に追われている。

 6年目と言っても、入学した者のうち1割にも満たない学生しか卒業させないチリの大学では、これくらいは優秀なうちなのだ。卒業させないというのは、学内の試験でさえ落とすためにやっているというべきやりかただそうで、彼自身がそう言っていた。それに今の設計が教授達にパスされると言うことは、すなわち「建築家資格」を手にすることを意味する。日本のようなたんなる「建築士」ではない。だから、今、彼は実に大切な時期にいるわけだ。

 で、本題だが、彼はバルパライソ大学で学んでいて、そこでクラウディアと知り合った。そして日本から来ている建築家(自分で言うと嘘っぽい)である僕のことを聞いた。で、僕と建築の話をしたい、そういうことなのだ。

 昼食をクラウディアを含め、3人でとる。

 建築する人達というのは妙なもので、特に学生ともなれば、建築一般からディティールなどはもちろんのこと、社会的な一般事項に至るまで、もう何事であれ建築学的に(?)解釈し、自分の存在と結びつけずにはおられないものだ。他の分野でも同じ様なことは見られるだろう。建築学生は、ある意味で革命家と変わらない。

 まるで時間もなにもかも忘れて、興奮して大柄なマルセロは話す。僕は言葉が下手だから、もう大変だ。彼はゆっくりしっかり話すタイプなので、それでもなんとか会話がなりたっている。

 彼は、以前映画のシナリオを学んでいたとも言った。世界観が問われる、またはある世界を作るという意味で、映画と建築は互いに触発しあえる関係にあるものだ。
 

 市役所に戻って、日本の寺社建築や古い住居、つまり伝統建築をスライドで見せる。さらに現代の日本人建築家として安藤忠雄の作品も見せる。

 以下、マルセロとの会話の骨子。

  • 日本、チリ、ヨーロッパの建築家に対する社会一般における認知度の比較
  • 日本との建築家教育、制度の違いについて
  • 現代チリにおける文化の独自性のなさ
  • チリの地方農村には、文化を発信する施設が必要だ
  • マルセロも谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」を知っていて(あの著作、ほんとに有名だったのか)、彼の今取り組んでいる設計でも、近代の典型的な均質な明るい空間よりは翳りを伴う空間特性を操作することを目論んでいる
  • 建築的形態を人々がどう認知するのか、そして建築家はいかにその個別で気まぐれな認知を承知しながら具体的形態を創造するか
  • 歴史的景観の継承の仕方について、京都における問題の例をあげる
  • 時間的存在としての建築について
等々

 いろいろ話していて思ったことは、チリの学生も日本の学生も、問題意識にそう大きな開きはないということ。早い話がよく似ている。
 しかし、考え方やアプローチは、チリの方がより論理的で構築することを指向している。つまり、なにごとも脈絡を追わなくてはいけないと思っているらしい。
 その辺は日本人はあまり熱心ではない。「なぜならば」という言葉はそんなに重要でなく、「ともかくも」こうしよう、とばっさり切って見せて、結果で判断、というやりかたを好むのが日本人ではなかろうか。これは実際的なやりかただが、失敗しても、「まあこんなもので仕方あるまい」という風に既成事実には不本意でもおもねる素地を作ってしまう。そしてこの積み重ねが、現に「不本意のかたまり」みたいな都市としてたちあらわれてしまった、といっては言い過ぎか。
 チリは理詰めで建築を構築するが、実際のまちや景観は、まだまだ建築者達の理想からは遠いものになっている。いっぽう日本はどうかというと、「ともかく」現実のまちや景観は世界に冠たるひどいものだ。
 そうして「建築家とは、じゃあ何なのだ?」という存在の意味を問うまでに至るのだが、マルセロはその辺をうまく説明していた。

 マルセロ曰く
「車を買おうというとき、店に行く。幾つモデルがあるのかと聞くと、細かく分けたら100を越えるという。よろしい、ではどれを選ぶかというと、人々は実に神経質になるだろう。用途は何か、デザインの好みは、経済性は、安全性は、予算は、等。そして、買った後は、じつに大切に乗る。」
「建築はどうか。あなたは家を買うとき、車よりも神経を使わずに買うというのか。設計は大切ではないか?価格の設定、つまり建設費は重要ではないのか?あなたの生活のスタイルに、それはフィットした計画になっているのか。親類や友人を、胸を張って招待できるデザインなのか。」
「それは誰もが重要な事項だと思うはずだ。しかし、現実は、そうした大切なことに建築家が関わっている、関わることで良い結果が期待できるという風には思われていない。まるで病人が医者の存在を知らないようなものだ。」
「これは、建築家の怠慢と、ひとびとの無知によるものだと言えないか?それじゃあんまりだよ。」

 彼の設計する施設は地方に作る地元ワインの資料館(というか、試飲なんかのできるところ)である。実は、なかなかそのデザインがよかった。

 夜、ガチョン市長と市長室で話す。こっちはこっちで、落選のお悔やみ(?)に始まって、ノガレスの地域振興戦略に至るまでの長い長い対話になってしまった。

 いちにち、これだけ集中しながら一生懸命外国語を話すことも珍しい。もの凄く疲れた。
 疲れた割には、日記が長い。
 


2000.1107 火曜日
晴れ、雲多し
 

 市役所の設計。まだ案が固まらない。焦る。

 午後、カルメンの日本語講座。

「そのくろいねこは、わたしのです。」
「そー!、そー、そー。べしーとっ(キッス)!」

 日本語らしいことを喋ると、もう手放しで嬉しい。しかし、まだこんなレベルでは実際に日本へ行ったら全く通用しない。どうしたものか。彼女は英語も分からないし。

 あっという間に月末になるだろう。そろそろ荷物を箱詰めし始めないといけないなと感じている。
 


2000.1106 月曜日
曇りときどき晴れ間覗く
 

ぷち

 仕事の方は、何ほどのこともできずいちにちが終わってしまった。

 最近暖かくなってきたので、なにが起こるかというと、ノミと蜘蛛である。
 突然刺されて痒くなる。蜘蛛の子が天井からしょっちゅうぶら下がってくる。
 笑えませんよ、あなた。

 蜘蛛は害虫とも言えないので極力見逃してきたが、こう多いとサヨナラしてもらうしかない。僕の部屋はモノが多くて蜘蛛には絶好の住処なんだろう。
 あ、またぶら下がってきたな。これで今日何匹目だろう。

 ぷち。
 


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kmdesign/MATSUOKA Ken'ichiro