Diario
日々の記録

 
 
 
 


image:マルタ
km: ミゲロとルチート  

彼らも市役所職員。 
で、酒好きなうちのご近所さん。 
 左のミゲロの娘はモデルをしてる。 


2000.1105 日曜日
曇り
 
 

マヤの土人形

 プレコロンビノ美術館へ行く。サンティアゴのセントロ、ど真ん中にある旧税関である。
 名前の通り、コロンブス以前の先史(?)アメリカ文明の文物を扱っているようだ。
 ここの展示の美しさは、チリではおそらく随一だろう。同じサンティアゴの国立自然史博物館とは好対照だ。

 土器には大変優れたものが多かった。特にマヤのものは、僕の度肝を抜いた。マヤの焼き物の人形達は、ほとんどなまめかしいばかりに、怪しく、生き生きしていた。なんという柔らかな、そして静かな動きを写し取っていることか。しかし、その肌はどこも隙のない張りに満ちていて、内部には底知れないような激しさが詰まっていることを伝えてくる。

 おどろおどろしいものたちのもつ、なにか暗い吸引力。近代が苦手な、そして否定さえしてきた強さ。

 明るいこと。明快であること。機能的であること。効率がよいこと。できうる限り普遍的であること。これは近代だ。近代とは、産業のための効率に資するのが目的だった考え方と言ってもいい。そう考えている。
 伺いようのない暗さを持つこと。不可解で神秘的な面を持つこと。精神的な存在であること。非効率など大したことではないという強さがあること。普遍よりは特殊であること。これらは、未だに有効な魅力を失っていない。生活とは、もっと全体的なものだからだ。
 


2000.1104 土曜日
曇り
 

ファドと八代亜紀

 夜、サンティアゴに上京し、ベジャビスタ地区のレストランに入った。ポルトガル料理を食べた。あまり大したことはなかった。

 赤ちゃんを含む子供連れが隣のテーブルにいた。ほとんど酒場のようなこの店でも、平気で子供と食事する家族は、そう珍しくはない。少し羨ましい。

 当然、店の音楽はポルトガルの歌曲、ファドだ。うら悲しく、えんえんと歌い上げる大人の女性の、声のうねり。日本の歌手なら、八代亜紀に歌って欲しいなと思う。え?ちょっとちがう?いや、いい企画じゃないかな。
 


2000.1103 金曜日
曇り
 

恍惚?

 午前、郵便物を投函。

 今日も市役所新庁舎関係。しかし、マキシモは市長が替わることだし、そのプロジェクトは実施される見込みがないと言う。僕だってそう思うのだが、しかし、実施されていく可能性もある。その可能性が大きくなったときに、たたき台があるのと、全く白紙であるのとでは、かなり状況が変わってくるだろう。それを期待している。言い換えれば、僕はただそんなことのためだけに働こうというのだ。他にやるべき事はなかったか。

 夜、合間に小説を読んでいた。有吉佐和子の「恍惚の人」。わざとだろうが、表現が断定的できつく、下手をするとかなり失礼な物言いなので、どうも腹が立ってくる。が、あれくらいでちょうどいいものなのだろう、痴呆老人を家族に持つと言うことは。

 僕の祖母は、重度と言っていい痴呆症だ。九州の家では面倒を見きれなくなったので、大阪の僕の家へ呼んだことがある。しかし、痴呆というものは環境の変化に適応できなくさせるものらしい。トイレの場所が分からない。僕ら家族が分からない。実の娘である僕の母のことも、しょっちゅう他人だと思ってしまう。結局、泣く泣く実家へ帰すことになった。
 その祖母がいよいよ今日九州へ帰るという日になって、突然僕の名を呼んでくれた。僕のことも、会うたびに自己紹介からしなければならなかったのに、その時は、まるで別人のようだった。

「今度は、いつ熊本へ来るんね?建一郎さん。いらっしゃいよ。待っとるけん、元気でね。」

 あまりのことで、どう答えてよいか分からず、しばらく無言になってしまった。よほど帰るのが嬉しかったんだろう。

 あれから何年も経って、今は施設に預けられている祖母。もう、家族の顔もなにもかも忘れてしまった。母は、そのことを何よりも悲しんでいる。長い間苦労の続いた母には、女として最も理解のあった母親が離れて行ってしまうということは、余りにも酷な悲しみとなる。

 偶然だが、今日、市役所内でも痴呆のお婆さんがいるという話が出た。彼女の家の玄関には、これでもかというほどの鍵がついている。何故かと問うてみたら、こう答えたそうだ。

「アルトゥーロ・プラットが、毎晩、私を犯そうと狙って来るのよ。」

 プラットとは、チリの歴史上の英雄だ。なにがどうなって、こういう妄想が起きるんだろうか。呆けても自惚れの強い女なんだろうか?みんなは笑っていたが、僕はいろいろ考えさせられた。
 


2000.1102 木曜日
曇り
 

 なんとなく市役所内が落ち着かず、暗い雰囲気。市長が交代してしまうせいだ。

 勤務後、所用でキジョータへ出る。バスで40分位の県都。ここも、あと何度も訪れることはできないのか。

 市役所新庁舎のスケッチを終日。
 前に書いていた手紙やらの郵便物を用意。返事は、チリで読むことはできないだろう。
 任地を離れる日まで、もうひとつきを切った。

 何をしても感慨の材料になる。まだ少し早いな。
 


2000.1101 水曜日
曇り
 

これが日本食だ

 カルメンと、カルメンの彼氏のポロを連れて、サンティアゴへ上京。今日は、お楽しみの日本食体験の日だ。前々から約束していた。

 サンティアゴ北東部のビタクラ地区は、国連の人間開発指数で言うとチリで最も豊かなところだ。そこに日本料理のレストラン「さくら」はある。オーナーは日本人だ。味が良く、店は大変お洒落。

 ちょっといい店でもあるので、3人ではもったいない。同期隊員のジュキも呼んだ。4人で昼食を座敷でとる。

 食べたメニュー。
 寿司各種。刺身盛り合わせ。天ぷら。串カツ。牛タンの塩焼き。味噌汁。納豆。
 飲んだもの。
 緑茶。キリンビール(アメリカ製)。吟醸冷酒(松竹梅)。

 魚は嫌いだといっていたカルメンだったが、日本の魚料理はチリのものとは全く違うということで、問題なかった。
 味噌汁は、うまいと言った。
 驚いたことに、納豆もうまいのだそうだ。大阪人の僕としては、信じられない。僕は納豆は大好きだけど。

 ポロも、全てうまそうに食っていた。酒もまあまあという感想。

 食後は、ジュキによる折り紙講座となった。掘り炬燵様の腰掛け座敷には、僕らだけしかいない。ゆっくりと兜や鶴、朝顔などを作った。ちなみに折り紙は本当によく知られた日本の文物で、「オリガミ」という言葉を知らない人はいないほどだ。

 日本でも自分の金で食べたことのないようなご馳走だったが、今日は特別な日だ。だから彼らは招待である。カルメンは、まだ不確かとはいえ、来年日本で1年近くを研修で過ごすのだから、その前に日本への不安を払って、代わりに憧れを持たせてあげたい。
 そうそう。これから書くスペイン語の報告書のチェックなんかも頼まないといけない。そういう目論見も、もちろんある。
 


2000.1031 火曜日
曇り
 

市長の落選、交代

 午前中、どうも下痢で調子が悪かった。
 午後、市役所へ顔を出す。日曜の市長選挙以来、初めてだった。

 わが企画局の秘書エリアや局長アロンソと話す。市長選挙の結果についてだ。

 フェルディナン・ガチョン市長が、まさか落選するとは、だれが想像し得たろうか。誰もが前回の初めての当選の時のように、圧倒的な支持で勝つものと思っていた。

 新しい市長はオスカル・コルテスといい、エル・メロンでパン屋さんをやっている人である。半年以上も前から、周到な運動で準備をしていたとも聞く。党派としてはキリスト教民主党で、政府を構成する中道左派連合のコンセルタシオン系であるという意味で、現職のガチョン市長と同じである。

 党派が同じであるからとはいえ、大部分の職員は年毎に契約更改をしなけらばならない。皆、残れるかどうか戦々恐々の日々だろう。
 企画調整局長、地域振興課長、顧問弁護士は市長が直接任命するので、自動的に更迭が決定したことになる。つまりアロンソは失業するわけだ。

 僕の後に来るはずの農業土木と土木設計の隊員は、その椅子を失わないか。海外技術研修員として日本へ行くことになるかも知れない(現在は受入自治体を探している段階)カルメンは、ちゃんと契約が更新されるのか。僕の心配はその辺にある。
 アロンソは半月程度で、それらについて文書で確約をとってくれると言った。
 また、僕が現在進めている作業は、とにかく進めるようにとのこと。

 ガチョン市長が任期を終えて、コルテス新市長にその権限を移すのは12月7日。僕がチリから出国する前日である。しかし、その日はもう首都に上がってしまっており、ノガレスが新しい出発をするという場に、僕が居合わせることはできそうにない。
 


2000.1030 月曜日
曇り
 

 サンティアゴにいる。

 昼食はベトナム料理で。まずくはないが、うまくもない。本物は、もっといいものだと思うのだが。店の女主人はベトナム人だそうだ。中国語が達者だった(ように思う)。英語も話した。もちろん、スペイン語も。変わった訛だったが、あれでも通じるのか。僕の言葉はどうなんだろうか?

 昼食後は市内のコンピュータ専門店へテンキーを探して歩く。なしのつぶて。あきらめた。

 夜、ノガレスに電話した。クラウディアがまだ仕事中だった。昨日の選挙の結果を聞いた。なんということだろう。フェルディナン・ガチョン市長が落選したのだそうだ。大変なことになった。
 


2000.1029 日曜日
曇り
 

キンタイからイスラ・ネグラへ

 タクオ君に連れられて、キンタイのまちから南へ広がる広大な松林を抜けていく。すると、急に視界が開けて緑の丘陵となり、断崖の下に、優しい岩礁があって、太平洋の波が砕けている。コチャジュージョという名の海草が、髪の毛の様に波に弄ばれている。丘陵も、岩礁の上も、数知れない多様な花と緑に埋め尽くされている。

 なんて綺麗なんだろう。それに、誰もいない。

 ここがプラジャ・チカ(小さな砂浜)と呼ばれる、キンタイ自慢の名所である。しばし散策。写真も撮る。

 プラジャ・チカはチリ全体でも、最も気に入った場所のひとつになった。こんなところが近くにあったら、いつでも来て、思索を練るも、デザイン構想をまとめるも、ぼーっとするも、昼寝するも、そう、自由にできるではないか。最高だ。日本に持って帰りたい・・・。

 タクオ君にお礼を言って、午後はイスラ・ネグラへ。キンタイの、さらに南。しかし、道が通じていないので、いったん北のバルパライソまで出ないといけなかった。

 イスラ・ネグラは、パブロ・ネルーダが全盛期を過ごした家のある浜辺のまちである。以前小説「イル・ポスティーノ」(原題はアルディエンテ・パシエンシア)を読んで以来、是非とも訪れたい場所だった。チリの心である詩人のネルーダが愛した場所とは、どんなところなのか?
 小説によれば、このイスラ・ネグラの家で、彼はノーベル文学賞の知らせを受け、またチリ大統領の候補になるよう打診を受けている。

 相変わらずの曇り空。風も強い。寂しい天気の中、今は資料館になっている彼の邸宅へ行ってみると、なんと閉館。今日は全国市長選挙の日。しまった・・・・。

 浜に降りて、海を見た。旧ネルーダ邸のお隣さんの庭に、なぜか元気に泳ぐ鯉のぼりがあった。浜辺の岩、波、風、そして鯉のぼり。さあ詩でも、と行きたかったが、ここまで。トイレに行きたくなって、にわか詩人は退散することに。帰国までにまた来るからな、待ってろよ、イスラ・ネグラ。
 


2000.1028 土曜日
曇り
 

キンタイ旅行

 キンタイ(Quintay)は、第5州の南はしに近い漁村。赴任して半年ほどのタクオ君が住んでいる。人口は7百人台。彼はここの漁業財団で貝類の養殖をやっている。
 バルパライソからコレクティーボで、キンタイに入った。運転手は、日本の言葉を少しだけ知っていた。キンタイは40年程前まで、日本の捕鯨船の寄港する基地だったのだ。

 よく考えたら、また旅行している。

 断崖が太平洋に迫るキンタイは、あいにくの曇り空でも美しかった。捕鯨基地の遺構が野外資料館になっている。こんな所まで日本人が来ていたとは。
 捕鯨基地に隣接してアンドレス・ベージョ大学の水産試験施設がある。ここをタクオ君は実際の仕事場にしていた。
 この手の施設は初めて。実におもしろい。各種の水槽にはウニの赤ちゃんとかヒラメとか、カニとか、さらには伊勢エビまでがいる。

 夜は、昼間海で穫った貝とウニをメインに飲む。水産試験場で働く学生のミゲルもやって来た。彼がウニを捕ってくれたのだ。チリのビールとワインを次々開けた。

 ミゲルに聞くと、やはり日本人とチリ人の間に生まれた子供もいるのだそうだ。ほか、この間聞いたのだけれど不完全な情報しかなかったチリ映画の話を聞くなどした。。楽しい夜。静かな夜。
 


2000.1027 金曜日
曇り
 

 午前、日本文化展の片づけ。

 午後、ごっちゃんのホームステイ先の加藤家へ、みんなで昼食を頂きに上がる。頂き物の日本酒と、買い置きしていたワインを持っていった。この会食には松原さん達若い夫婦も招かれた。
 非常に立派でおいしいコースを頂いた。もちろんワインも。

 順に人が少なくなっていく。リビングのソファーに座り、最近行ってきたという南米最南端の地への旅行を収めたビデオを見せていただいた。悠々自適を地でいくような、いい旅だったようだ。普段は体のことがあってほんの少ししか飲まないお酒も、僕が注ぐままに飲んでいる加藤さん。

 暮らしについて、軍政時代について等々、少し改まった話も聞かせていただいた。
 


2000.1026 木曜日
晴れ
 

日本文化展4日目最終日

 まるでクレヨンで塗ったように濃度のある青をした空から、思い出したように強烈な日射しが照りつける。すると、昨日までの肌寒い春は失せて、たちまち季節が夏へと変わってしまう。暑い。

 今日も僕は日本文化展のうち、出張サービスの映画の上映を担当する。この午後はエル・メロンのほうで2回の上映。会場はエル・メロンの文化の家。昔鉱山会社が作った映画館で、今はつまり集会所として使われているのだ。

 午後4時。今日は学校の授業枠を使って生徒がやって来た。しかし、あろうことか椅子がない。足りないのではなくて、ただのひとつもないのだ。市役所の担当者が、ここから持ち出された多数の椅子をトラックで戻すよう手配したが、それはチリ。時間通りには到着しないのだ。
 開演予定の4時にも到着しないので、生徒達には申し訳ないが、椅子なしで上映開始とする。昨日と同じプログラム。「子象物語」。
 映画が始まって30分以上も過ぎた頃、椅子を載せたトラックが到着する。高校生達がどんどん椅子を並べてくれた。

 機械が古いのか回転がわずかに遅く、2時間近い上映時間となってしまった。最終的には3クラスほどが来たので、たぶん鑑賞者は百人を越えていたと思う。小学生くらいの子供達が、ハッピーエンドに手を叩いて喜んでいるさまを見て、とりあえず良かったと思った。

 午後7時からの「息子」の方は、ぐっと減って、まあ10人くらいだったか。小さな子供達は出入りしていたが。

 近くの町に住む日本からの移住者Kさん夫妻も来てくれていた。夫人はチリ人である。Kさんは東北は宮城の人で、お二人とも既に第三の人生に入っている。
 「息子」は、岩手の山間の里から老父が東京に出て来て、息子達に会い、そして帰るまでを描いている。Kさんは、ご自分がチリに出てこられた人だ。そして、映画の老父のように、それぞれの息子達は自立して間もない。東北の風景や言葉は懐かしかったろう。そして映画の中のそれぞれのエピソードは、いちいち胸を叩いたことと思う。

 さらにこの会場の近くに住む松原さん夫妻も来てくれた。こちらは老父の息子の世代だ。これまでも幾度か書いてきたように、夫の松原さんは日系アルゼンチン2世。
 映画のなかで、結婚する決意を息子が父親へ告げるというシーンがあるが、松原さんはそれをこの間やったばかりの新婚さんである。もちろんチリの女性が奥さんだ。

 この「息子」という作品は、実に山田作品らしい映画だが、今日のこの二人の日本人入植者に見てもらえただけでも良かったのではないかと思っている。
 数は少なかったにしても、全くのチリ人鑑賞者のほうも途中退場などなく、こちらもまあまあの感想だったようだ。

 ほっとした。帰宅後ビールで読書。
 


2000.1025 水曜日
曇りのち晴れ
 

日本文化展3日目 日本映画祭

 あれこれと走り回って準備を終わらせる。
 今日は、日本文化展のひとつの出し物、日本映画を上映する。

 午後四時。武田鉄矢主演による映画「子象物語」を上映。いわゆる「かわいそうな象」のお話だ。後半が、いつか教科書で読んだ実話であるとされるものと、少し違っていた。あれもまた実話なのだろうか?
 4時からということで、立派な友人である近所の子供達が、ちゃんと友情を示してやって来てくれた。彼らには、まだ残酷なシーンは見せたくなかった。映画は、その辺をちゃんと考えて、うまく戦争というテーマを扱ってくれていた。

 午後7時。今度は、永瀬、なんといったっけ?そうそう、キョンキョンの旦那の永瀬正敏君と和久井映見(あってる?)、それから三国連太郎が出てくる山田洋二監督の家族劇「息子」を上映。
 岩手出身という設定の、永瀬の言葉が良かった。どんな言葉の技巧も叶わないような温度というものが方言にはある。三国連太郎の田舎の爺さん役も良かった。何よりも、目が良かった。来てくれた人の多くは、彼の演技を絶賛していた。あれは、チリの人にも理解できる演技だった。

 映画を見ている間、まだ二つか三つの小さな女の子を抱いていた。なつかれて、一緒に音楽に合わせて体を大きく揺らせながら、とても幸せな気分になった。

 映画については、市役所に大変協力してもらっている。その割に、やってみると、こちらの準備不足が露呈する有様となった。まあ、想像通りではあったが、もう少し人を集めたかったところだ。2回の上演で40人程度の参加ではなかったか。
 明日はエル・メロンでの上演。今度は、どうかな。多分知り合いがいない分、来てくれる人は減るだろうなあ。

 先日敷地を視察したばかりの小広場の計画について、夜も更けてから設計を始める。今日いきなりアロンソに言われたのだ。金曜日までに州政府へ掛け合うための企画設計が必要だということだった。ペンと色鉛筆でスケッチを作る。細部というもののない案となったが、基本的な考え方や、予算というものは算出できるだろう。

 早寝と行きたかったが、今日も就寝は夜中も2時となった。日記を書きながら、着いたばかりの紙パックの日本酒を飲む。日本映画をみたせいだ。特に秀作であろうがなかろうが、日本にいようがいまいが、何か、この米で作ったという酒を飲みたいな。そんな気になった。「息子」に出てきた雪深い冬の東北の映像のせいだろうか?ついでだから、なぜか母が送りつけてきた「さだまさし」も聞いている。これ、こうやっていろんな人に聞かれているんだろうなと思う。
 


2000.1024 火曜日
曇りのち晴れ
 

日本文化展2日目

 主役である、ごっちゃん、それに雪絵ちゃんやジュキには申し訳ないけれど、文化展で行っている文化紹介のクラス授業には行かず、夜になってからの懇親会にだけ顔を出す。
 全校生徒、150を越える女子高生達を食堂に集めて、おかき、韓国製「ぽぽろん(?)」、かっぱえびせん、粟おこし、白玉団子などをみんなで食べる。最も好評だったのは、意外にも「かっぱえびせん」。やめられない、とまらない。これは、世界に通用するフレーズであった。

 いくら子供とはいえ、もう高校生なので、多数の女性ばかりを相手にするのはちょっとばかり緊張した。なにせ、ここは全寮制の女子校なのだから。

 夜更け、なんとか「道の駅」の提案書の草稿を仕上げる。日本語とスペイン語によるものである。うーん、もうちょっとビジュアル的にも親切でありたいが、それは校正が済んでからだ。これもまた、できるなら1年前にやってしまって、事の推移を見たいところだった。
 


2000.1023 月曜日
曇り
 

日本文化展初日

 午前、主会場である農村教育センターのノガレス校、図書室を展示会場にする。
 この文化展は同センターで働く隊員達が協力して巡回しているもので、ノガレス校は3つ目の開催地である。当然というか、ノガレス校で働くごっちゃんが今回の主人公。それから他の地域の同センターで働く雪絵ちゃんやジュキが主宰者だ。僕はお手伝いを少しするのみ。

 午後、準備を終えて生徒達や近隣の人達、市役所の仲間達がやって来てくれた。
 展示物はほとんどが日本大使館のもの。各種写真パネル、浮世絵、実物の凧、それに日本食のレストラン用見本、さらに伝統玩具など。日本紹介やJICA紹介のビデオもある。花にかんする専門家であるごっちゃんの、生け花作品コーナーも、ちゃんとある。彼女がここで初めて栽培した品種も、晴れの舞台に立派に生けられて美しい。

 手作りではあるけれど、会場はなかなかにかわいくまとまって、楽しいものになった。それを証拠に、生徒達は楽しそうに遊んでいるし、来る人皆質問責めにしてくる。僕でさえ日本文化紹介のビデオに見入った。ごっちゃんたちの準備は、さぞたいへんだったことだろう。

 こんな文化というものが、世界中たくさんあるということを思う。チリの文化を日本や、たくさんの国に紹介しても、やはりまたおもしろいだろう。

 無数に平行する生活の風景というものがある。無限の差異がそこには見られる。そのどれもが、かけがえがないものとは言えないかも知れない。が、人の営為というものが、今、同時にどこかで無数に行われているというイメージを持ちたいと思う。
 それをもって、素晴らしいとは言わない。へどが出るような生活をする人もいるだろう。しかし、ともかく今同時に生きる人間がいるというイメージを、少し拾ってみたい。
 


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kmdesign/MATSUOKA Ken'ichiro