Diario
日々の記録

 
 
 


chancha.jpg 
km: きみのひとみにこいしてる  

IER バジェナール校にて  


2000.0924 日曜日
晴れ
 

 あれこれ雑事をし、午後所用のため外出。

 戻るが、昼、来訪したごっちゃんと来月に予定されている日本文化展ノガレス展について打ち合わせを少し。こう言うとかなり大げさだが、つまりごっちゃんたちのやる文化展にあやかって、僕も市役所のほうで日本映画などを上映してみようかというだけのことだ。
 大使館などで貸し出してくれるあれこれを使うなどして、隊員が日本文化を紹介するイベントを行うことは、結構あるようだ。個人的には、別段そんなことやらなくても、などと僕は思ってしまうのだが、しかし、実際のところノガレスの人々は、こういうイベントがあると喜ぶのだから仕方ない。僕もよく考えると、チリの人には外国の文化、とくにアジアやイスラム圏のような全く違った文化圏のものに触れて欲しいなあと思っているのではなかったか。ということで、やっぱりやれるものらやったほうがいいと結論。
 来月末の日曜日は市長選挙があるので、役所はそれどころではないのかも知れない。僕は僕で、うちの分科会やらもあるし、その他もろもろを考えると、週末を含め、かなりタイトなスケジュールになる。
 まあ普通の仕事に比べれば、なんということはない。楽しくこなそうではないか。中にはできなくなることも出てくる可能性はあるが・・・・。気楽だな。

 週末は僕以外の住人のいない我が家。表のハイウェーの騒音を除けば、静かこの上ない。しあわせ。
 


2000.0923 土曜日
晴れ、ときどき曇り
 

 ぽかぽか陽気のノガレスの通りを歩いて、近くの八百屋で多少の野菜を買った。昨日の残りの肉と和風の煮物を作って食べた。
 買い物からの帰り、ポケットに突っ込んだ本をプラサ(広場)で読もうと思っていたのに、どうも人出が多くて落ち着けそうになかった。それで結局まっすぐ家に帰ることにした。

 今日でビビエンダ・バシカ、英語でいうならベーシック・ハウスの設計を終えた。修正をしたビビエンダ・プログレシーバ(同じくプログレッシブ・ハウス?)のほうが若干面積が大きく、拡張性が高いので、名前を交換することにした。バシカのほうがグレードが高いからだ。入居者組合の中でもめないか気がかりだ。そうなったら、先週から出勤しだしたクラウディアのことが心配になる。

 メロン広場と市役所新庁舎の図面リストを概略で作った。これだけの図面を揃えることができるだろうか?

 オリンピック。少し顔を出した市役所で、守衛のセルヒオに日本がアメリカに負けたと聞いた。なんとナカタがPKでミスったという。チリはナイジェリアに大差で勝っている。サッカーの話だ。これでカメルーン、スペイン、アメリカと並んで、チリはベスト4に入った。これは金メダルも夢ではなくなったということか。
 それにしても、日本は惜しいことになった。が、よくは分からないが、今や弱小チームではなくなったと言ってもいいらしい。こちらのメディアでは、韓国も日本も、いづれも伝統あるサッカー王国とあと少しの差しかないと評価されている。

 テレビを見たら、女子マラソンで日本の選手が優勝していた。生で見たかった・・・。
 


2000.0922 金曜日
晴れ
 

 今日も暖か。しつこいようだが、僕はチリの春が好きだ。たぶん大概の人は好きになってくれると思っている。

 ビビエンダ・バシカ、貧困者住宅の設計は、ほぼ終わりを迎えている。そろそろ全ての仕事を仕上げにかかっているので、その他のプロジェクトのスケッチとか原稿書きなどにも忙しい。嬉しいことだが、ちょっと荷が重すぎると感じる。
 

日本語教室

 ここ最近、週に2回から3回、カルメンに日本語を教えている。来年の2月には可否が連絡されるはずの海外技術研修員として日本に行く予定だからだ。JICAから小冊子が供与されているので、その会話集を使って教授を進めている。
 まだまだ話ができるレベルではないが、言葉を絞れば、雰囲気でコミュニケーションを取れるようになってきたような気がする。ちょっと評価がすぎるけれど、でも、嬉しいものなのだ。

「げんきですか?」
「はい、げんきです」
「これは、にほんごで、なんといいますか?」
「ホッチキス」
「でんわは、どこにありますか?」
「でんわは、そこです」
「わかりますか?」
「まあまあ」

 いったい、人にものを教えるのって、塾の講師のアルバイトを除けば初めてのことじゃないだろうか。それが言葉とあれば、じつに楽しい経験だ。どうかカルメンには是非日本に渡ってもらい、向こうで(つまり日本で)日本語で何か話をしてみたいものだ。僕の冴えないまちを案内しながらでもいいし、お気に入りのまちを案内しながらでもいい。
 そのカルメンには、付き合って半年ほどの彼がいる。あだ名をポロという。赤い髪の、がっしりした大学生だ。カルメンが日本に行ってしまったら寂しいだろうと聞いてみた。市役所に遊びに来ているからだ。ああ、ちょっと寂しいよね、と言った。彼女の帰国までにはワールドカップが始まるかも知れない。きっと来いよ、と声を掛けた。その頃、彼は卒業へ向けて論文に取り組んでいるはずではあるけれど。

 夜、オリンピックの中継を見る。シンクロナイズド・ダイビングというのか?その男子の試技で、着水後水着がずれたのをキャスター達がいつまでも笑っているのが、なんともチリらしかった。
 ところで、まだ田村亮子の優勝の試合を見ていない。また、全試合を一本で勝ちあげた男も。なんていったろうか。チリ人は、つくづくオリンピックに興味がないのだろう。放送が少ないのは柔道だけではないからだ。
 圧倒的なもの。それは、なんと・・・・なんと、なんと、何と言おうかな。それは、なんと力あるものか。全力を挙げ、しのぎあって勝つ姿もいいが、やはり圧倒的に他を征服してしまうような、そんな様子をこそオリンピックでは見てみたいと思う。
 


2000.0921 木曜日
曇りのち晴れ
 

 うってかわって暑い。明日から暦は春になるとテレビが伝えている。遠くの山並みの雪化粧と、手前の緑の畑や低い山並み、そして菜の花や、名も知らぬオレンジの花がひとつの光景をつくっている。
 いつが一番美しい春となるのか、毎日が楽しみな時期だ。やがて夏が来れば、また荒涼とした砂礫の色に戻ってしまうから。
 とにかく、チリは春が美しい。僕はこの春が好きだ。

 この間市役所各部局に配ったアンケートが帰って来始めた。市役所新庁舎の設計のために利用するものだ。任期は残り少なく、日程が押し迫っている。少々焦りながら目を通す。
 手書きのものは、マキシモに読んでもらう。とてもじゃないが、チリ人の字は読めない。友人のイタリア人やザイール人の字も読めなかったなあ(すごい取り合わせ)。日本人の文字がくそ丁寧なのもあるし、アルファベットで生活している人達の文字が、日本人と実際は違っているというのもある。

 夜、人にもらった本を少し読みすすめる。星野道夫の「旅をする木」。文春文庫版。エッセイと言うにはあまりに丁寧に書かれている。大切に読みたい。そう思わせる文章であり、内容だった。急逝が惜しまれる作者だったが、タイトルよろしく、彼の本もまた、アラスカ、ベーリング海を流され旅していくトウヒの木みたいに、流れ流れて今は僕の手元にある。
 作者はアラスカを愛して定住を始め、写真を撮り続けていたという。そのうち彼の写真を見たい。
 


2000.0920 水曜日
曇り時々雨
 

 雑務のためサンティアゴ。
 先週とれてしまったパワーブックのキーについては、どの業者もキーボード全体の交換しか手はないと言う。仕方ないから応急処置だけ自分でやって、あとは帰国後のこととする。その間、詳しい友人に日本の業者への問い合わせなどを頼んだ。
 パソコンの、特にノートの修理は、アップルの場合、程度の問題はあるがこちらでもできる。しかし、日本のメーカーの場合、例えば富士通などは売っているのも見かけないので、何かあるとややこしいことになる。デスクトップは、基本的に大丈夫だ。

 雨のためか冬のように寒い。そろそろ暦上も春となるチリ。今日の最高気温は15度程度までだった。
 


2000.0919 火曜日
晴れ
 

第3州旅行4日目

 バジェナール。朝のバスでサンティアゴへ。

 美しい景色だ。4州は起伏が激しい乾燥地帯。往きには気が付かなかった菜の花畑が拡がっている盆地もあった。

菜の花畑

 南へ向かうごとに曇天。雨が降らんばかり。寒くなってくる。
 


2000.0918 月曜日
晴れ
 

第3州旅行3日目

 バジェナールは去年の5月頃に一度来たことがあった。協力隊の訓練所でスペイン語を教えてくれたパトリシア先生は、じつにここ、バジェナールの出身だったのだ。前回はどんなところか見に来ただけだったが、今回は、このバジェナール近くに拡がる砂漠の花を見るために来ている。

 午前、泊めてもらった陽一郎君の仕事場を見学する。全寮制の農業学校IER(いえーる、Instituto de Educacion Rural、農村教育センター)は教会系のNGOで、チリ全土に23校の施設がある。うちのノガレスにも女子校があって、同期のごっちゃんはそこで働いている。陽一郎君は農業土木隊員。自作の観測施設を見せてもらった。百葉箱や蒸発皿(というのか?)などを使って、耕作のための基礎データの記録を習慣づけようとしている。

 陽一郎君の必死のコーディネートで、IERの秘書(というか事務員?)ブランカさんと夫のエリックさんの夫婦に「砂漠の花」を見に連れていってもらえることになった。ついては、その前にアサードをしようということに。チリにおけるパーティの定式だ。そういえば、今日こそチリの独立記念日じゃないか。一番のお祭りの日だ。

 エリックさんのお手並みになる炭火焼き肉、つまりアサードは大変結構な味。
 ゆっくりしているとすぐに夜になってしまう。エリックさん、ブランカさん夫婦と共に、愛車のマツダで砂漠へ。
 

砂漠の花

 砂漠と言っても、ここから遠い訳じゃない。バジェナールはまちごと砂漠の中にある。パンアメリカンを北へ走り、よさそうなところで未舗装路へと入って行く。ハイウェーから遠ざかるほどに、だんだんと花が増えていく様子だ。柔らかな風が止むことなく吹いていて、ここが砂漠であったことを信じることができないほどの花々が揺れている。
 時々降りて、じっくり歩き、花を見る。気を付けないと、そこらじゅうにあるサボテンの棘で怪我をする。棘は非常に硬く、小さなものでも嘗めていると痛い目に遭う。

 パタ・デ・レオンという花がある。おそらく葉のかたちから名付けられたのだろう。「ライオンの足(脚ではない)」と言う意味だ。厚く、水分を蓄えた葉の上には、コスモスのようなピンク色の花が咲き、ひらひらと風に揺れる。
 アニュニョカは百合のような花で、黄色からだいだい色。地中深いところから茎を30センチほど伸ばして先端に花だけ付ける。葉は糸状で、地表に投げ出されている。大変繊細で美しい。水辺ならまだしも、どうしてこれが砂漠に咲くのか不思議だ。花のあとには種袋が残り、黒く薄い種をまき散らす。可憐な姿に人気が集まって、抜いてしまう人が少なくないらしい。
 そのほか、幾種類もの花が見られる。白、薄い青、黄色など。もう少しすれば、赤い花も咲くだろう。

 みはるかす続く緑と花の平原は、この間まで砂漠だった。さらさらと細かな砂と瓦礫の無機の世界。これが、雨の力であっという間に花に満ちてしまう。つまり、非情の世界には、無数の花の種が潜んでいたのだ。雨を待って、花の種は何年でも待ち続けるということか。それを人間の目は普段の砂漠に読みとることができない。
 何か寓意に満ちたような、それでいてそんな思いこみは実際に砂漠に足を踏み入れれば飛んでいってしまうような、そんな現象と光景が僕の目の前にある。
 来てよかった。

 エリックさんによると、雨は一度にたくさん降るだけではいけないのだそうだ。時期を得た雨が何度か降らなければ、花が咲くまでにはいたらないらしい。これも寓意に満ちている。

砂漠の花

km: Pata de Leon en el decierto florido

 エリックさんの家に戻り、オンセを。ブランカさん手製のエンパナーダを頂く。正しいディエシオチョ(18日の意)だ。正月に餅という感じである。
 次女のジェシカちゃんは4歳で、幼稚園に行き始めたばかり。どこで覚えるのか、きどったしゃべり方で、だれもを召使いとばかりに鼻であしらう。この一人前のセニョーラぶりにあきれかえってしまうが、それがもう、たまらなくかわいい。おかげで楽しい食事になる。

 夜、フォンドへ。お祭り広場のことだ。移動遊園地まで来ているし、市も立っている。
 陽一郎君が同僚で友人のマウリシオを連れてやって来る。ふたりとも背の高いスポーツマンでかっこいい。みんなでラマダへ入り、チチャを飲む。
 チチャとは葡萄の若いどぶろく(?)。さしづめおとそ。ラマダは民族音楽クエカを流して踊る場所だ。実際はコロンビアの庶民的な音楽クンビアのほうに人気があったりするが。
 フォンドにはこうしたラマダが幾つもあって、耳がおかしくなりそうなほどに盛り上がっている。

 甘いチチャは、舌をやさしくしびれさせる。マウリシオの容赦ないチリの言葉に耳を傾けながら、たぶん最後になるディエシオチョの夜は更けていく。
 


2000.0917 日曜日
晴れ
 

第3州旅行2日目

 州都コピアポを散歩。未明、ホテルでオリンピックのサッカー、チリ・スペイン戦をちらちら見ていたので眠い。チリが勝ってくれたので、起きていた甲斐があった。

 コピアポは人口約10万人の都市だ。チリではまあまあの都会である。歴史は先史まで遡ると長いが、スペイン人達が入ってきたのは16世紀ごろ。鉱山のまちとして栄えた。チリで最初の鉄道が敷かれたのもこのまち。駅まで行って、写真を撮った。

 午後、コピアポから74キロ北の港町カルデラへ行ってみる。この辺りは、もう全くの砂漠だ。しかし、数年来の降雨のため、見渡す限り柔らかく続く平原は、薄く緑の化粧をされて、今はすっかりサバンナのようだ。
 カルデラに着く直前に、突然家々が見えて来る。当たり前だが、古代中国の城邑のように城壁があるわけではないチリの砂漠のまちは、全く何もない中に、そこだけ家や施設が密集していて、それがまちだ、というかたちをとる。予告なく都市が現れるようで、なんだかおもしろい。
 カルデラは、多少観光を意識した雰囲気があるが、たいしたことはなかった。海沿いのレストランで食事をして帰る。
 もう少し北部のまち、チャニャラルの隊員は漁業系で、彼が言うには、この辺りで捕れるウニなどの魚介類は南部よりもうまいとのこと。たしかにホタテは柔らかかった。

 夜、コピアポから南へ150キロ戻ったバジェナールへ。明日の「砂漠の花」見物は、このまちから。
 今日は、ここの隊員陽一郎君の働く農業学校に泊めてもらうことにする。
 


2000.0916 土曜日
晴れ
 

第3州旅行1日目

 サンティアゴを朝出るバスに乗り込んだ。北部第3州の州都コピアポまでは801キロある。12時間程度かかってコピアポに着いたのは、もう夜。この週末は、月曜火曜と祝日のために長く、そのため日本人に比べれば出不精なチリの人達も旅に出る人が多い様子。行程はパンアメリカン・ハイウェーを一直線に北上するのだが、ところどころで渋滞気味になった。

 サンティアゴの首都圏州を抜けると、ノガレスのある第5州。僕の家の前を通って、さらに行くと程なくして4州に入る。この辺りから地中海性気候と聞いてもピンとこない乾燥地帯になり、ブッシュしかない不毛の土地が続く。4州は起伏が激しく、海岸線を走ったり盆地を抜けたり、あるいは大きな谷間を過ぎたりと、風景の変化が楽しい。しかし、その間、全て空の青と砂と瓦礫のベージュや灰や茶、そしてサボテンや灌木の緑だけの世界だ。山羊をよく見かける。
 第3州からは、また延々と盆地を抜ける。より一層砂漠らしい景色に変わっていく。集落やまちの間隔はますます広がり、人家を見かけることは少なくなる。やがて夜になると、バスのディーゼル音だけが止むことなく続き、外は暗黒の土地の上に月と星が光るのみとなった。


2000.0915 金曜日
晴れ
 

18(ディエシオチョ)

 今月18日は「祖国の日」、独立記念日だ。この日を中心にした約一週間はチリの、まさしく正月となる。なぜか日本の正月そっくりで、コマや凧で子供達は遊ぶ。春の、もっともチリらしい風景なのだが、なんか不思議。

 そろそろこの「18日」の気分が盛り上がってきている。今日は馬の蹄の音の絶えないノガレスだった。夏の終わりに決勝を迎える国技「ロデオ」の地方大会はこのころ始まるので、それに合わせて民族衣装に身を固めたカウボーイの「ウァソ」たちは自慢の馬に乗って各種行事にも参加する。今日などぞろぞろまちを闊歩しているのだから、こたえられない。ロデオの大会にはこのウァソ達が一堂に会して技を競い合う。いわゆる北米のロデオと違っていて、おもしろいスポーツだ。
 ロデオについては、ここを。

 家族や知り合いを招いてのパーティ「フィエスタ」では、ほとんど丸焼きかと言うほどの肉を焼く本式の「アサード」を食べ、大瓶のワインや葡萄のどぶろく(?)ともいえる「チチャ」を飲み、ことあるごとに巨大な餃子のごとき「エンパナーダ」を食べる。
 ロデオの会場やまちに幾つもあるサッカー場の脇などには、こうしたお祭りをコミュニティ単位でやっている「ラマダ(またはフォンド)」というものがあり、ユーカリの葉などで葺いた優しく巨大な天蓋を架ける。そこで、昼となく夜となく、食べ、飲み、そして民族音楽である「クエカ」を踊る。合間には庶民的なコロンビア起源のポップ「クンビア」などもかかる。

 これらはいずれも大変チリらしい風物であって、これがまとめてこの1週間で見られるのだから、もしも観光でチリに来るならこの9月18日を目標にするのがおそらく最高のプランと言えるだろう。

 去年は地元で過ごしたので、今回は北部を旅することにする。19日は「軍の日」で、今年は4連休になるからだ。ただいま北部第3州あたりの砂漠は、ここ数年来無かった降雨があり、一斉にみどりに包まれて花が咲き乱れているという。「花咲く砂漠」という意味で「デシエルト・フロリード」という。本で見る写真ではほとんど「花漠」といえるくらいに美しい。帰国までに行ける、最後のまともな旅になりそうなこともあって、とても期待している。
 


2000.0914 木曜日
曇り
 

遠い空の下、災害を思う

 また少し暖かになった。空は、しかしまだ曇りで、いつ雨が来てもおかしくないといった風。あれほど雨の降らなかった土地なのに、これではまるで日本のようだ。

 その日本。中部東海あたりが、豪雨でひどい被害が出ているというニュースは、ここチリでもよく報道されている。中国、もしくはベトナムの映像も出ていた。同じ原因(台風とか)によるものなのかどうか知らない。チリ人にはどれが日本なのかは分からないようだ。ともかく、雨は猛威をふるう。
 何度か書いたけれど、サンティアゴなどは日本では普通の降りの雨が豪雨とされ、水害をもたらす。何年経っても同じだそうだ。対策が進んでいない。日本では治山治水は公の第一の仕事とも言えるので、そこそこチリよりは進んでいるとは思うが、しかし、どこまでやっても被害は出る。完璧なのに出るのではなく、必ずある、そして結構たくさんある取りこぼしにしわ寄せが来る。

 しかしまあ、ここ最近のチリにおける日本関係の報道と言えば、三宅島やら豪雨やらといったものばかりで、帰国を前になにか不穏なまでの天災続きの印象がある。同僚達は「君のまちは大丈夫か?」と聞いてくるけれど、僕も日本の友達に聞きたいくらいだ。
 こういう気持ちを察してか、よく日本の友人達はメールでこの類の情報を送ってくれる。

 僕の実家は大阪にある。生まれてこのかた、まともな天災で困ったことはほぼない。台風は大抵大阪をそれるか、直撃してもなぜか勢力をゆるめる。火山もない。震災の時は結構揺れて家にヒビが入ったけれど、そのくらいで済んだ。そのせいか、台風だろうが火山だろうが、そんなニュースを聞いても大阪は大丈夫だろうと踏んでいるところがある。だが、そういう気持ちに気が付いて、いつも自分で気分が悪くなってしまう。自分だけはという根拠のない思いこみ、エゴイズムとは別なのか?と。そしてそれは、別ではないと知っているからだ。

 余談だが、震災の時に現地からレポートした地震学者(たしか京大の先生だったと思うが、うろ覚え)は、過度の反応を恐れて危険を知らせることに尻込みしていた姿勢を反省しながら言っていた。大阪でも、近いうち、5年程度のうちにこういう地震が起こる可能性があると言っておく、と。これは、今回も安心している大阪の人達に、あなたがたも例外ではない、と警告したと言うことだ。

 起こりうる災害に対してとる方策は二つしかない。それに対して対処できるように各方面から準備するか、そうした危険のない場所へ移るか、である。例えばチリには台風が来ないし、アメリカ東海岸には地震がない。
 海外ドキュメンタリーなどで、厳しい自然の中で暮らす人達を見ると、なぜ未だに「あんな場所」に住んでいるのか?と思うことがある。しかし、何らかの危険があるという意味では、どうして誰もが「そんな場所」に住んでいるのだ。
 住み続けている以上、それは危険を承知する「理由」があるということを意味する。その理由を守るための対処は、日々、糧を稼いで生活を安定させるのと同じくらいの努力でもってやる必要がある。

 長くなっているが、最後に。
 災害時、日本でたぶん一番のアドバンテージとなるのは治安だろうと思う。よく言われることでもあるけれど、実感だ。
 治安の悪化とは、悪事を働く人間が出てくるということもそうだが、それより怖いのは無政府・無法状態だ。まともな社会が崩壊して、なにが起こるか分からなくなる、人を信用できなくなるということ。こういうことは、比較的現状の日本では起きにくい。多少のことなら、逆に結束を固くさせる。これは、かなり珍しいケースだと思う。とは言っても、例えば関東大震災のときには、デマのために6千人を超える朝鮮人が殺害されている。だから、治安がいいのも、それは現状であって絶対ではないのだ。・・・自分で書いて、なんだそうか、とがっくりしてしまった。まあ、とにかく今は海外と比べて治安がいい。
 相変わらず訳の分からない事件も続く日本だけれど、せめて他人を信用できなくなるようには、なって欲しくない。困ったときに助けてくれこそすれ、まず誰もこちらを襲うことはないという安心だけは、絶対になくしてはならない。もしもそうなってしまったら、天災の危険におびえながら日本に住む理由というのは希薄になるだろう。
 


2000.0913 水曜日
曇り時々晴れ間
 

 少し寒さがゆるんできたようだ。住宅の設計は、見切り発車同然で、もう詳細図に入った。といっても1/50どまりだけれど。

 ノガレスの女子高生がこの3月か5月だかから行方不明だった。ついこの間、ずっと南部のまちで保護されたということで、市役所内部でもちょっとしたニュースになっている。もっと大騒ぎになってもいいんじゃないかと思うのだが、どうも勝手がつかめない。写真をテレビの取材用に出すからと、スキャンを頼まれた。メールで局まで送った。
 少女の話では、つまるところ誘拐だったそうだが、マキシモなどは、どうもおかしいと思わない?と言っている。なんか裏があるとか、例えば駆け落ちとか、そういうことを想像しているらしい。まあ、元気だそうでなによりだ。

 女子高生と言えば、エルミニアばあさんのところで昼食をとっていたら、その婆さんがべたべたのチリ弁でなにやら言ってくる。歯が抜けているし、くだけた話し方しかしないので難解この上ない。

「ケン、しってるかい!女の子がねえ、けんかしたんだよー!学校でだよ!でねえ、怪我しちゃって、ここの診療所じゃどうにもならんからって、カレラの方へ行ったってさ!あんたとこの家に住んどる看護婦がいるだろうがね。その子が連れてったってさあ!」
「なんで喧嘩したの?」
「ぽろろだよー!」
「ぽろろ?彼氏か!ほー。すごいなあ。(この辺日本語!)」
「彼氏の取り合いでさあ、けんかしたのさ!」

「看護婦ったら、あんたとこの看護婦さん、この雨でさ!雨漏りしちゃって服も何も、ずぶぬれになっちゃったっていうよ!コンピュータ置いてたら、それもいかれちまったってさ!ケン、あんた大丈夫だったのかね?」

 冬になるまえに屋根のトタンを取り替えたばかりだったのに。あーあ。かわいそうになあ。僕の部屋は大丈夫だった。隊員にも雨漏りでノートパソコンをやられた人がいたな。
 日本も、ちょっと昔なら雨漏りというのは馴染みのあるものだったと思う。しかし、これ、本当に困りものなのだ。建築家はすべからく雨漏りの怖さを知るべし。
 そういえば、0910で雨漏りがしなくなったって書いてたな。甘かった。
 


2000.0912 火曜日
雨のち曇り
 

 出かけついでにCDを買う。まとめて5枚も買ってしまった。どれも安売りだったものだ。一応全部チリのもの。
 どれが何と語るほどの知識がない。ということで、やっとのことでミスチェックを果たし、ここにリンクのページを載せます。この中の「feria del disco」が、今日買ったお店。よかったら見てみて下さい。

Separador / 栞




2000.0911 月曜日
曇り、晴れ間覗く
 

Q

 んがっ。

 ぴょーん。

 午前。作業。設計をノートパソコンでやるには、外付けテンキーが欠かせない。これを取り付けようとしたところ、思わず落としてしまった。で、んがっ。

 落ちたところがいけない。あろうことかキーボードの上。見事にキーを直撃。「Q」が、ぴょーん。

 しーん。

 立ちすくむ間抜けがひとり。

 去年の今頃だったか。盗難の補償でこのパワーブックが来たのは。あー、どれどれ。あ、キーのツメ、割れてる。しかし、どうだ。左肩の「~」と交換してやる。えい。おお、どうだ。うまいもんだ。付いたがな。本体は大丈夫だな?よしよし。・・・しかし。

 残り任期3ヶ月を切って、気合いを入れたばかりだったのに。どうして何故にこうパソコンに恵まれないものか。扱いが悪いだけか?そんなことはないのだが。
 部品の発注は、早くしたほうがいいな。ここはチリだ。帰国してから届くかも知れない。・・・いや、慌てず仕事をしたほうがいいぞ。時間ないでしょう?うーむ。
 ロバのようにぼんやり悩む僕を、机の上の壊れたキーが見ているような気がする。(しないけどね)

「QQQQQQQQQQ.....」

 あーっ!笑いやがったな、お前。そんなにおかしいか?

 ロバの住むノガレスは、本当に真冬へ逆戻りしてしまったかのようだ。朝、戸口に立ったら、表のハイウェーを3頭立ての馬車(ロバではない)が走って行った。馬の息が真っ白だった。みとれた。雨上がりのまちの向こうには、新雪をたっぷりかぶって化粧した山々が見えている。
 早く春になってくれ。春らしい春に。けれど、溶けて消えるには惜しい、美しい雪の山並である。

 例によって天気の話でもせんと気が納まらん。

 今日は、原田宗典風に決めて見ました。
 ぴょーん。
 


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