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Diary
日々の記録 ![]() km: 同僚シリーズ
エバと、だれだっけ? 右がエバ。
メキシコのサーカス冬だというのに大変暑いサンティアゴを出かけていく。午後、市東部のラス・コンデス地区内で興業が行われているサーカスを見に。メキシコのサーカスだ。スキー帰りに見たテントの夜景が素晴らしく美しかったので、行きたかった。料金は自由席の大人4000ペソ、子供3000ペソ。指定席の大人は7000ペソだった。自由席はすぐに売り切れてしまい、指定席を買わざるを得なかった。 チリにいると、当然南米大陸の国々のこと、中米やメキシコを含んだラテンアメリカのことを多く知ることができる。国や地域が互いにどういうふうに相手を見ているかも。とはいっても、チリなりの見方だけだけれど。まあしかし、メキシコにしても、やはり少しは見方が変わってきたなと感じている。
身振り手振りでしか演じないピエロ。何を言っているかとてもよく分かった。こちらのゼスチャーそのままだからだ。国は違えど、多くの文化を同じくする人達なりの、うらやましいようなやりとり。 出し物はいずれもなかなかのものだった。が、一番印象に残ったのは、おそらく座長であろうひとりの男が虎を操り、トランポリンをやり、大型の機械で危険なアクロバットをこなし、道化師として観衆をわかせ、それから・・・。まあ超人的なまでに芸をこなしてサーカスという決して短くない出し物を進めていたことだった。もちろんほかにも芸人はたくさんいたのだが。
ああおもしろかったとテントを出ると、次の公演を待つ長蛇の列があった。「CIRCO DE MEXICO(しるこ・で・めひこ、メキシコのサーカス)」と名を冠した看板が、全く堂々と誇らしげに見えた。 ついでにいうと、この間まで来ていたフランスの一座を見逃していた。こちらはサーカスではない。ヌードが多いレビューである。が、ニュースで公演が伝えられるほどの芸術性高いステージをやる一座だ。きっと世界的に有名なんだろうな。「CRAZY
HORSE」といった。
2000.0729 土曜日
今年2度目のスキーへ。今日は僕を含めて4人で。みんな隊員。この間と同じサンティアゴ郊外のバジェ・ネバードで滑る。最近気温が上がってきたせいか、新雪がないのか、雪が固かった。
そういえば、なかなか休日にチリの友人と遊ぶということがない。このあたり僕は成り行き任せで、無理して現地に馴染まなくったっていいじゃないかと思っているのだが、どうなんだろうか。これでいけないなんて思わないが、機会というものを粗末にしているだろうか。ここへ書かないだけで、あれこれとチリの人とは付き合いもあるけれど、それだけでは寂しいだろうか。
2000.0728 金曜日
夜、上京してオカモトさんを見送った。月曜にはまた出勤とのこと。お疲れさま。
友人が自分の国にやって来るというのは、おもしろい経験だった。僕にとっては初めてで、しかもこのページを作ったことにって知り合ったのだ。なにやら出会いというのは不思議だな、などと当たり前ながら感慨にふける。
さて、来週からお仕事、がんばりますか!
2000.0727 木曜日
午後、オカモトさんをともなってノガレスへ帰った。いままで都会ばかりを見てきたから、今度は農村や、あるいは貧しく小さな、しかしどこにでもあるチリのまちの生活を見てもらおうということだ。それが僕の任地なら、見過ごすようなことも説明で補えるということもあるだろう。 車でノガレス市西部の辺域ラ・ペーニャへ行き、続いて市最大の人口のあるエル・メロン地区を訪ねた。
僕が設計したメロンの体育館を少し見て、ノガレス市の象徴であるメロンのサンタ・イサベル教会を訪ねた。教会には学校が併設されているので、前庭には子供達が一杯だった。オカモトさんに言わせれば、パウロ・・・なんだっけ?僕も読んだことがあるのだが、そのなんとかいう作家の「アルケミスト」という小説に出てきそうな教会なのだそうだ。なるほど。 我が家は今週から4人の看護実習生が住んでいる。他の住人は他の家へ移っていった。ぴーちくぱーちくとさざめくようなスペイン語をバックに、僕らは南米の建築やらについて話をした。
2000.0726 水曜日
勤務中の同僚達には申し訳ないが、僕の旅案内はまだ続く。今日はビーニャ・デル・マルの南隣の古い町、バルパライソへ。何度も訪れた港町。
ミツヒロさんの家へ戻る。このところの食三昧で胃腸が辛い。しかしミツヒロさんは元気一杯で特製ビーフシチューを作って下さった。胃薬飲んで食えという。言われるままに飲み、食うと、おいしさのあまり、またも大食いをしてしまうのだった。今日のお供のワインはメルローの素晴らしい一本「cono
sur(コノ・スール)」。なんと端正な味か。合掌。
2000.0725 火曜日
午後からサンティアゴを離れ、バスでビーニャ・デル・マルへ。百キロほど西へ行った海岸の美しい大都市だ。
ビーニャでは、ここに住むJICA専門家ミツヒロさんの家にお世話になる。ここには年末年始でもお世話になっている。
夜は、やっぱりワインでしょう。ということで仕入れたとっておきの名酒「Molina(モリーナ)」を開ける。スーパーならたったの5000ペソ(千円)程度。しかし、こういう時でないと僕らは手が出ない金額だ。隊員には感覚的に5000円近い。で、3人して飲む。日本でも今はすっかりワインの国としてチリは知れ渡ったから、彼女もこれを楽しみにしていたようだ。
で、ミツヒロさんの方はもうひとつお楽しみ。彼女のプレゼントしてくれた地の日本酒である。これを、彼の作った魚の醤油漬けやら筋子で飲むのである。彼は水産加工が専門で、市場や漁師達とはもちろん親しい。食品のプロなのだから、味にはこだわり以上のものがある。僕もおこぼれを頂く。全員で唸った。冗談抜きで、涙が出そうになったほどである。 あとは夜通しのサルサ、メレンゲ教室となった。コロンビア仕込みの踊りを手取り足取り教え、楽しむミツヒロさん。隊員には帝王と呼ばれ、自他共に認める踊り好きなのだ。・・・・風邪を引いてしんどかったのでは?
2000.0724 月曜日
さて、やっぱり建築行脚でしょう、とオカモトさんを連れてバスに乗り込み午前に訪ねたのは、サンティアゴ西部の庶民的な住宅地区マイプに聳えるマイプ寺院。19世紀初めの独立に絡んだマイプの戦いを記念して建立が宣言された由緒あるカトリック教会。今の建築は1960年代後半のもの。鉄筋コンクリートの荘重な構造をあらわに見せて、頂部の大鐘楼はマイプ全域から望まれそうなほどに高い。
再びバスに乗って市内へ戻り、セントロの東の外れにあるサンタ・ルシアの丘に登る。ここはチリの草創期、砦として機能していた。いまは美しい公園だ。頂上で市内を見渡し、冬のサンティアゴの名物であるスモッグを堪能する。 サンタ・ルシアの丘から北東へ歩いて、今度は更に高いサン・クリストバルの丘を目指したが、今はちょうど学校が冬休み。山ごと公園になっているここは、あまりの混雑で入場制限中だった。人いきれだけで満足することに。
またバスに乗り、今度は東へ。プロビデンシア地区の中心部ロス・レオネスにある建築・美術書専門書店コントラ・プント。 夜は地下鉄サンタ・イサベル駅を出て少しのレストラン「ロス・アドベス・デ・アルゴメド」へ。「地球の歩き方」にも載っている店だ。ディナータイムはダンス付きのショーもある。値段も内容の割に手頃で、サービスはチリとは思えないほどにいい。ここで、今日の思い切り観光的なサンティアゴのまち歩きを締めくくる。踊りや音楽を、シーズンを無視しても楽しめるのはこういう場所だけだから。 オカモトさん、昨日今日と肉が続いて胃腸が重そう。ふうふう言ってホテルへ帰っていった。実は僕だって同じなのだ。でも、まだまだがんばりましょう。
2000.0723 日曜日
サンティアゴに上京。夕方、地下鉄1号線のカトリック大学駅へ。待ち合わせ。 僕の方が遅れてしまった。現れた女性はすらりと背の高い大人だった。今日の朝、日本から24時間以上かけて到着したばかりというのに時差ボケもなさそうな元気さ。
隊員が友人や家族その他を任地などに案内して回るというのは、そう珍しいことではない。勤務先も、多少なら協力して休みを認めてくれるのが通例。 今日のところは顔合わせ。近くのチリ料理を出す店で食事をし、日曜の夜で何もすることがないから映画を見た。どうせならと見たのは「Tierra
del Fuego(ティエラ・デル・フエゴ)」。チリ、スペイン、それからどこだったかの協力で作った映画で、開拓期、チリ最南部のマゼラン海峡の向こうの未開の島ティエラ・デル・フエゴでの歴史的なストーリーを扱っている。先住民というか、現地人との間の諍いと和解が軸だ。
実際のところ、僕と同様か、あるいは似通ったふうに建築と第三世界について興味を持った人とコンタクトをとれたというのは、彼女とのことが初めてだった。このホームページを作ったのは、ひとつにはそのあたりに目的があったのだが、いかんせん中途半端なページのまま日々更新だけを続けているから仕方がない。
2000.0722 土曜日
結婚式夜8時。エル・メロンにあるサンタ・イサベル教会にて、フランシスコとジャケリンの結婚式。ジャケリンは市役所の職員の、青い目をした女の子。フランシスコは、いつもはパンチョと呼ばれるいい男で、いつか平日にうちでフィエスタ(打ち上げというのか?)をやって、警察を呼ばれたときに一緒にいた奴だ。 そして、この教会は、国定の史跡。かつて修復計画のために来たことのある、ノガレスのシンボル。 ひょっとしたらノガレスでは初めてネクタイをするんじゃないかな?いつものゴアテックスのジャケットではなく、紺のステンカラーを着て出かけた。
この二人のために、田舎の教会は一杯になった。赤ん坊からおじいさんお婆さんまでの縁者達が集った。祈りの言葉を唱え、拍手したあと、細長い粒のライスシャワーを浴びせた。頬にキスし肩を抱き合い叩き合い、二人と挨拶し、祝った。どこまでも暖かく、親しげだった。格式よりも何よりも、ここの空気は素直で優しいことが優先されていた。くるくるとねじれた白いリボンが一杯に貼りつけられた新郎新婦の車を先頭に、披露宴会場となる主の家へと車の列がメロンからノガレスの外れへと迷惑そっちのけでハイウェーを進んでいく。聞こうが聞くまいが、クラクションを鳴らしながら進む、明るい一列。 僕はフィエスタには行かず、家で仕事をした。家に入る前、見上げた空は晴れ上がって天の川が横切っていた。 今夜、祝いの宴の誰が天の星を見上げることがあるだろう。そんな必要なんてないじゃないか。月より明るい彼らパンチョとジャケの二人の顔を見ながら朝まで笑い声が響く空には、星影はまるではかない。 結婚おめでとう。お祝い申し上げます。
むちゃす・ふぇりしだーです 2000.0721 金曜日
午前、昨日の夜用意して置いたスペイン語による自作の諸注意を片手に、カルメン、アロンソとともに市長室へ行く。海外技術研修員の申請をするためである。諸注意というのは、締め切りが近いために、間違いをしそうな点について釘を指すためだ。 地方自治体海外技術研修員制度地方自治体海外技術研修員制度は、外務省と各都道府県自治体などが連携して途上国からの技術研修員を約10ヶ月に渡って受け入れ、実習的に研修を行うもの。協力隊が途上国の現場で活動することから、同僚を推薦して吸い上げることでこの事業の効果を高め、さらに帰国研修員によって協力隊員の活動成果を継承したり確実にすることができる。そのため、僕ら隊員も積極的にこの制度の片棒を担いで研修員を送り出そうという風になっている。公共事業課の建築家ベルナルドを去年研修に送り出したが、あれはJICAによる高いレベルの短期研修だった。今回については、僕はもっと草の根的な、つまりエリートでない人を対象にレベルアップを図れればと考えていた。 で、白羽の矢が立ったのがカルメンだ。 カルメンは28歳の独身女性。いつかも書いたが、いわゆるモレーナで、つまり肌が浅黒い。インディオ系というよりも、まるでブラジル人のようだ。眉もまつげも濃い。そのままアクション映画に出てもよさそうな、グラマーでしっかりした体格をしている。が、性格の方は全く温厚で優しい。気だてのよいことで、市役所内でも定評がある。
日本といえば車や電気製品などの技術立国、あるいはポケモンやドラゴンボール、はたまた「おしん」と「カミカゼ」の国であり、狭い国土に溢れ帰るように、同じ顔をした日本人がわんさとひしめきあって騒がしく生活している。チリではそんな程度の認識しかされていない。カルメンならばチリの田舎の観光担当者として、日本の田舎で営まれている普通の暮らしを、興味を持ってみてくれるのではないか。向こうへ行って、おもしろそうな都会へ行って、ステレオタイプを助長させる結果になるだけでは、あんまりもったいない。そういうことにはならないのではないか。 来週申請書を提出する予定。間に合えば、具体的な自治体の機関が、世界中の応募者の中から適当な人間の選定に入る。「当たる」確立は20パーセント以下。受け入れ開始は来年の日本の春以降だ。
住宅政策担当のクラウディアと話す。来月にも貧困者住宅のプロジェクトのうち、僕のかかわったもののひとつが入札にかけられるとのこと。まだ設計の終わっていないほうのタイプを、早急に設計し終えるように言われた。あれは案を練り直す必要があって、ほったらかしだった。もう待ったなしだ。
2000.0720 木曜日
昨日整えた書類とか資料の類をサンティアゴの調整員のもとへFAX。
フロホ怠け者。スペイン語ではこういう。サボリ、くらいの意味だ。これまで時間的にも内容的にも自由にさせてもらっていたのだが、そろそろこの辺で仕事のまとめにかからないといけなくなってきた。ボスである企画局長アロンソと、後任の話の後、今後の予定について話す。「ケン、これからはフロホってる場合じゃいぜ。広場の設計は、詳細までちゃんとやっていってくれよ。それになんだっけ?」
「君はこの12月で日本へ帰るだろう?置いていってくれたプロジェクトは、君が入れてくれるデジカメで撮ってさ、メールで報告してやるよ。広場の工事やなんかの現場をね。」
いわゆる貧困者住宅にかんしても、いまのところ二つのタイプについて設計をしなくてはならない。様子見のためと言いながら、担当者ののんびりさにかまけて、今のところほったらかしだ。 さあ、火がついてきた。そろそろ走り出そうか。 僕は生来フロホである。だが、一応おしりに火がついたら慌てることのできるフロホだと思っている。しかし、きっと全てフロホの人間というものは、慌ててがんばってもどうにもならないくらいのフロホに、ついに自分はなってしまうのではないかと心配しているものだ。まったくどうしようもない性向である。おまけに手を切るのが難しいことにかけては、タバコなどの比ではないのだ。
2000.0718 火曜日
朝早いうちは、この季節らしいもやが出ていた。それがどんよりした曇り日の朝となり、午後にはすっきりと払われて快晴に変わる。見事なまでの移り変わりに僕などまだ感動してしまうのだが、ノガレスのひとびとには毎度のことでしかないようだ。
セニョーラ・アニタエルミニア婆さんのところで昼食をとる。テーブルで一緒だったのは公共事業課長のアニタだけだった。ちょうど僕の母親と同じ世代。55前後ではないだろうか?彼女と男女の話に花が咲く。花だったのかというとどうかな。「ケン、日本じゃ結婚は恋愛?お見合い?どっちが多いの?」
そのうちエルミニアのところへ嫁いでいる40そこそこのマリアが隣のテーブルで加勢する。いつの間にか彼女と一緒に食事をしている旦那や舅は肩身が狭そうだ。わいわいしゃべるので、僕には半分も分からなくなった。 珍しく市役所への帰り道も、アニタは一緒に帰ろうという。話の続きがしたいらしい。 「アニタ、あなたは旦那さんとどうなんです?仲良くやってるんですか?」
僕が家に戻る角に着くまでに、アニタはこういった。若さを楽しめる時代はもうこれぽっちの短いものだ。そのあとの現実に向き合う時間は長い。そうしてどのみち長い孤独と付き合っていかなければならないのだ、と。
2000.0717 月曜日
体中の筋肉が張っている。どこの筋肉がどう動いているかよく分かる。明日はもうこちこちの筋肉痛だろう。いや、歳だから明後日になるかな。いや、スキーをしたので。
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