Diary
日々の記録

 


image:ルーチョとコテ
km: 同僚シリーズ
ルーチョとコテ

ルーチョ(ルイス)は受付のおじさん。
コテ(ホセ)は用務員のおじさん。
まじめでやさしいノガリーノ(ノガレスっ子)。


2000.0716 日曜日
快晴
 

スキー

 サンティアゴ東部のラスコンデス市に、スキー・トータルという名のスキーツアー店がある。朝8時、僕らは待ち合わせをして借りる道具を選び、ワゴンに乗ってアンデスへと向かった。今日はアンデスでスキーだ。

 サンティアゴをそのまま東へと1時間半ほど行く。2車線がやっとのつづら折れの道を延々と登っていく。ある標高から突然積雪が増して、快晴の太陽が眩しくなる。路面が雪や氷で怪しくなると、チェーンを付ける作業風景が多く見られるようになる。ほどなくしてバジェ・ネバードのスキー場に着く。  www.vallenevado.com

 バジェ・ネバードとは雪の谷の意だ。
 駐車場やホテル、レストラン、カフェ、貸しスキー窓口のある3025メートル地点を中心に、3670メートルから2805メートルの範囲で広がる27のゲレンデを、9本のリフトやテレスキーが結んでいる。テレスキーはスキーやボード(ここはボードももちろんオッケー)を付けたまま、魔法使いのほうきのようにアルミの棒を跨いでワイヤーで斜面をひとりづつ引っ張り上げてもらう装置だ。
 ゲレンデは難易度別で初級4本、中級9本、上級11本で、上級のうち3本はエキスパート向けとなっている。最も長いコースは3キロ。
 参照した情報は2年近く前のものなので、若干規模の拡大があったりするかもしれない。

 サンティアゴ近郊のスキー場はほかにも二つあって、いずれもここの近く。エル・コロラド-ファレジョネスとパルバだ。

 僕らはみんな協力隊員や日系青年ボランティア(協力隊と似たJICAのプログラム)で、チリとパラグアイの混成グループ。うち、わがチリのコージ君とパラグアイのYさんは1級資格を持っている。聞くとこのふたり、金曜から今日で3日連続のスキーだそうだ。日頃の何かをここで爆発させるスキー・ジャンキー達。
 僕は、彼らとは世界が違う。リフトまで転ばずに辿り着けたことに我ながら感心するような、超初心者だ。

 しばらくは新雪もなかったように思われるものの、積雪は十分でたいへん滑りやすかった。この標高では、日が照っても雪が溶け出すことはないのだろうか?また駐車場の関係で入場制限をしているので、リフト待ちが気にならない。スキーもボードものびのびと楽しむことができている。僕は、おかげであまり後ろを気にせずに練習することができた。一日という短時間の割には多少の上達はあったんではないか?満足だ。
 5時でリフトが止まるまで滑る。日が陰ると白い斜面は青く沈む。とたんに3000メートルの風の冷たさを感じる。遠く望む斜面には岩場が露出しているが、それらは日本の山の濡れた土のように黒くなく、乾いた茶色だ。白と黒の日本の雪山とは違って、ここの山の色合いは白、青、茶色のあっけらかんとしたものだ。

 リフトで同乗したボーダーや親子連れのスキーヤー達と話を交わすことがあった。誰もがとても感じが良かった。彼らは社会人や学生たちだが、このチリではスキーは庶民に手の届かない贅沢なスポーツであることは事実で、彼らは一部の富裕層か、もしくは北半球からの旅行者なのだということを意識せざるを得なかった。物腰や話し言葉に、違いははっきりと出る。
 なんといっていいか分からないけれど、今日スキーに来たことをノガレスの人たちには言いにくいと感じている。後ろめたさとは違う。しかし、言わない方がいいな、と。でも、また来よう。やっぱり楽しいな、これ。

 費用は以下の通り。

  • 板・ブーツ・ストックのセット:通常9500ペソ、エキスパート用13000ペソ
  • ボードの板・ブーツセット:13000ペソ
  • ウェア:8000ペソ
  • ワゴン車(往復):6000ペソ
  • リフト券(1日):17000ペソ
  • グラブ:3000ペソ


 僕はウェアを適当に着て行ったので、道具のセット、ワゴン、リフト券で32500ペソ(約6500円)だった。
(正確には、1ドル=530ペソ程度)
 


2000.0715 土曜日
晴れ
 

 サンティアゴ。買い物に出かけた。ちょうど今、冬物のバーゲンが行われている。多少ともチリは安いから、コートとかセーターなんかを百貨店で買っておきたい。
 が、連日の狂騒の後ということで、どうにも疲れが溜まっているようだ。そうそうに引き返した。

 ここ数日のチリ中部は暖かい。20度近くまで気温が上がる。このまま春になるのだろうか?
 今年はいつになく多雨だった。北部の砂漠にも雨があったらしい。砂と土、石しかなかった平原が、今はひとときだけの草原になっている。ちらほらと花も咲いている画像が、テレビニュースで見られた。「砂漠の花」が見られる、という話が、チレーノ(チリ人)たちの間で語られている。雨が降ると咲くのだと。それが特別ななにかの花を指すのか、それともたんに野の花が咲き乱れるということなのかは分からないが、美しい話だ。
 


2000.0714 金曜日
晴れ
 

 JICA事務所へ。後任要請の書類を出しに行く。

 夜、帰国隊員のノブタカさんを空港まで見送りに行く。彼はチリ協力隊初めての隊員にして、任期を1年延長した、ミスターチリ協力隊だった。今日、3年目にして彼も帰国の途についた。アメリカを旅して帰るとのこと。
 彼の専門だった果樹のことなど、農業のことは全く分からないが、チリのような農業国にとって最も必要な分野であることは確か。苦労も多かったと聞くけれど、やれるだけのことを本当にやった男である。
 帰国後の進路について、興味があったから聞いた。しばらくの間、旅をしたい。その後、ゆっくり可能性のあるものを順に当たって決めようと考えている、という。
 そうだな。僕だってそうしたい。そして、やはり仕切直しを誰もがしなくてはいけないのだなと思った。

 もう少し早い便では、花卉(花の栽培など)のヒトシさんも帰国していった。彼の方はオランダを経由するらしい。チューリップとヒトシさんか。ひとつきもすれば、真夏の長野、浅間山を望むまちにひょうひょうとした足取りでたどり着いているはず。

 見送りメンバーで、夕食はペルー料理を。前回はもっとおいしく感じたんだけどなあ、こんなのだったかなと考えながら、チリの高級ワインと一緒に舌鼓。
 


2000.0713 木曜日
曇りだったか
 

 午前、大統領府であるモネダ宮殿、地下のオーディトリアムにてチリ協力隊3周年の式典があった。内務省の主催で、全隊員が招かれた。去年も同じ様な式典をしてくれたが、なかなかに丁寧なお国柄だという。他国ではこうはいかない。うちの市長も来てくれた。ありがたい。ちゃんと応えよう。

 夕刻までホテルに戻って昼寝。のち日本大使館へ。JICA関係者向けの安全対策会議。いつも同じような内容の防犯教育。しかし、これが重要なのだ。
 隊員がスリなどに遭うケースは、多い。最近でも地下鉄でのスリが2件、バスターミナルでナイフによるリュックの切り裂き被害1件があった。僕も以前やられているが、安全といわれるチリだが、それは単に比較の話。危険と言うべきレベルだと思う。

 安全・・・が終わったら、その場で立食パーティ。日本食とワインなどが振る舞われる。

 何故、日本食と言うんだろう?日本では和食といっていたが。考えるに、洋食の類も厳密には日本的なメニューであることが多い。和牛のステーキ、カツ、カレーなど。これらも含め、日本で食べられている、ごく普通のメニューであれば「日本食」と呼んでいるようだ。

 さて、今日で健康診断や隊員総会といった半期に一度の行事もお仕舞い。そして、12月に帰国する僕には、最後の行事となった。帰国が近いなと、感じる。
 


2000.0712 水曜日
くもりだったか
 

 午後、隊員総会。しゃんしゃんで終わる。平和。

 夕方、韓国料理店「キル・モック」で新隊員、帰国隊員の歓送迎会。焼き肉の煙とキムチの匂いのなか、わいわい。
 新隊員は今回、野菜と農業土木が各1名。遅れて着任する人も1名いる。職種は知らない。帰国隊員は4名。果樹、花卉、植林、鍼灸マッサージ師。
 同じ都市計画隊員のコージ君は多彩で、今回もギターで自作の送る歌を。義肢装具士のヒロカズ君と共に、爆笑と喝采を受けていた。

 匂いを染みつかせて連絡所へ向かう。隊員機関誌の画像関係などのデザインは、マックの使える僕に比重がかかっている。統括のごっちゃんの指示で明け方まで作業。その間、ごっちゃんはもくもくと裏方の作業を続けていた。頭が下がる思い。
 編集とかレイアウト、デザインといった、雑誌の誌面づくりは大変楽しい。が、プロの仕事としては、普通じゃ何年も続けられるモノではないな。きっと業界には超人がうようよいるんだろう。
 


2000.0711 火曜日
わすれた!
 

 なにもなし。寝まくり。
 いや、隊員機関誌の編集とデザインの作業をした。さらに、食べて飲んだ。
 


2000.0710 月曜日
曇りのち一時雨、ときおりみぞれの降る
 

 午前中、定期健康診断。クリニカ・アラウコにて。胸部レントゲン、採血、検尿、検便、内科検診、眼科検診。

 このクリニックに、30名を越える隊員達が今日と明日の二日間詰めて検査を受けるわけだ。が、以前もそうだったように、今回もまたか、という事件(?)があった。

 内科の医者はくりくりと縮れた頭髪で、頬や鼻、顎にこれまたたっぷり髭を蓄えた50がらみの中年男性。この医者、どうも行動がよくないのだ。男性・女性にかかわらず、意味もなく「全部脱がせる」、「触る」のだ。
 去年、隊員の間から相当悪評が立ったので、今年はみんな警戒した面立ちで望んだらしい。結果、少なかったとはいえ被害が出た様子。どうも、女性にはスケベ心、男性には他人種への好奇心が旺盛であるらしい。全く、とんでもない奴だ。

 責めれば、きっと医者としての専門にかまけて、自分のやったことの正当さを語り出すに違いない。その辺がまた卑怯この上ない。
 

分科会

 午後は隊員連絡所にて、土木・建築系隊員分科会。会場は、東京からミッションが来ていると言うことで、断りなく会場の変更を強いられてしまった。気分の悪い話である。こっちだって遊びではない。ひとこと言って欲しかった。

 今回の分科会は活動報告を中心にして行った。座長も、今回からヤスノリさんに交替してもらっている。恒例にしていたサロンは、今回はなし。
 現在我々は都市計画2名、農業土木2名の計4名である。いっときに比べると少なくなってきた。が、ひとりの話を詳しく聞くにはちょうどいい。ちなみにチリ隊全体の職種最大派閥は農業だ。以下、保健・医療系、村落開発、わが土木・建築系、水産系、教育系などとなる。

 時間が押してしまい、分科会は全ての予定を消化できなかった。例えば任国外旅行の報告は、僕だけしかできなかった。はみ出てしまった人には、全く申し訳がない。こういうことはしてはいけない。

 振り返って、少し。
 それぞれの活動報告を聞くのは、とても興味深い。協力隊は不自然なくらいに他人のペースや活動に対して競争意識を持たずに活動している(ように僕には感じられる)ので、こうした機会によって触発されたり反省したりといったことがたくさんある。例えば以下の点。

  • みんな専門分野について、チリの現状を良く掴んでいる。
  • 用語などをよく調べている。
  • 測量や灌漑工事などにかかる費用について、つっこんで調べている。
  • 自分のできること、できないことについて、法的なことも含め、よく認識している。
  • 自分の職場の問題点を把握した上で、やるべき仕事を、つっこんでやり遂げている。直球勝負であって、逃げをうっていない。例えば灌漑施設の費用テーブル付マニュアルや、都市計画マスタープランの作製など。


 飲んで食べて。ホテルに戻ると、気分が悪くなって少し吐く。吐いたのなんか、小学校か中学校以来じゃないか?幾ら酔っても吐けないし、今日だって少しだけだった。何か変なモノを食べたのか、それとも体力的に弱っているのか。
 我ながらしっかりしろと思う。
 


2000.0709 日曜日
曇りだったか
 

 午後、隊員機関誌の編集会議。というよりも、編集作業だ。遅くまで作業する。楽しい。
 


2000.0708 土曜日
曇天に小雨
 

 健康診断のため、サンティアゴに上京。土曜だし、映画でも見るか。ミッション・インポシブル2。
 監督のジョン・ウーは中国人?中国系アメリカ人?とにかく中国系のようだが、見せ方が実にアジア的というか、情念的で新鮮だった。気恥ずかしいほどに各場面の「キメ」をきめてくるので、ちょっと稚拙な感じがしたが、物語的でいい。変な自然主義のアクションなんておもしろくないものな。

 夜は、いつぞやに飲んでおいしかった赤ワイン。トレオン・デ・パレデスのカベルネ・ソーヴィニョン1997を買って飲む。こんなに辛かったかなと思う。しかし、これくらいうまくて普通じゃないのかな。
 ちょっと高めの4000ペソだが、日本円だと800円だ。

 外は冷えるいちにちだった。
 


2000.0707 金曜日
曇り
 

 僕の所属する企画局のボス、アロンソから協力隊の要請書を受け取る。健康診断等で来週はべったり上京するから、ついでに内務省の関係部署へ僕の方から提出することにした。
 結局新たに要請するのは土木と農業。土木は下水道や舗装などの設計を主にした業務。農業は技術指導とともに、農村としてのノガレスに新風を吹き込むことが望まれている。建築がないのは残念だが、外注費を極力避けるためには、構造計算や法的業務をこなせることまでが求められるので、僕の実例を踏めば、これは得策でなかったと受け止められたのだろう。ただ、土木でもそういう問題は起こると思われるが、まあいい。

 せっかくの七夕。今日はどうしようもない曇りだった。しかし、スペイン語では天の川は「道」であって、恋人を隔てる川ではない。晴れた日に、好きなだけ逢瀬を楽しめばいい。サンティアゴはともかく、ノガレスならいつだって「道」が出ている。
 しかしなんだな。彦星、織り姫星って、ここから見えたかな。こんど見てみよう。
 ちなみに南十字星(南十字座)は、何故か探すまでもなく、いつでも目が向いた位置に出ている。以外に地味な星々だが、なにげなく目に入ってくる、そんな不思議な星座だ。
 


2000.0706 木曜日
曇り、夜半霧雨
 

 今日も報告書やらなんやらでばたばた。こういうのもまあ、楽しいか。本来の市役所の仕事なんかそっちのけ。
 


2000.0705 水曜日
晴れ
 

 協力隊で義務づけられている定期報告書だのなんだので、寝る間なし。辛い。なんでいままでやらなかったのか。
 


2000.0704 火曜日
晴れ、暖か
 

 長雨が去ったら、冬至を過ぎたばかりだというのに春に近づいたような陽気だ。薄茶色した緑少ない山々が、にわかに草穂の色に染まりだした。だが、まだ春は来ない。
 

任期延長と進路

 青年海外協力隊の任期は通常2年。今年12月7日が、僕の任期満了日。
 規則では配属先の要請があれば、あと1年任期延長が認められる場合がある。仕事の行方や内容によっては、2年では足らず3年働く人も実際いる。そう多くはないが。いっぽう1週間とか数ヶ月、あるいは半年という人は結構多い。この手続きは早いほうが予算の関係上有利だが、最低でも4ヶ月前には所定の手続きをとらなくてはならない。僕にもその時期が近づいてきた。どうしようか。

 もともと延長するつもりはなかった。しかし、2年では語学や業務の慣行等を身に付けるには短いのは確かだし、当初目論んでいた仕事をやるにも実際足りなかった。だから、せめて数ヶ月でも延長するのはどうなのだろうか・・・。

 結論からいえば、おそらく僕は任期の延長をすることはあるまい。ゼロ号報告書でも書いたように、協力隊での経験は、今後のために現段階で実地を見ておくことを最大の目的としていたので、長い目で見れば、今は延長するよりも次の段階へと進んでおいた方がいい。延長してできることは、たぶんたかが知れているだろう。経験と能力に乏しい今の自分に必要なのは、自分を鍛えることだ。延長してもそれは望めない。

 そうなると、気になってくるのは帰国後の進路だ。この4月に帰国した建築隊員のノリヒコさんからのメールでは、建設・建築業界は相変わらずの不況で、意中の就職は大変困難だという。延長も検討した方がいいと助言してくれたが、さて。
 帰国後の身の振り方は、31歳という僕の年齢からして、とても重要。慎重に、きちんと着地したいものだ。しかし、どこへ?はっきり言うと日に日に次の目標はぼやけて行っている。そう、目標そのもののアウトラインと、その道筋というものが。
 こういうときに触れたいのは、既に似たようなことをしている人や組織だ。既存のイメージというものは、きっとあるはず。切り拓けないなら、それに依りたい。
 小さな虻も、駿馬と共に千里を越える。

 身の丈を知ること。次へと進むこと。生活をつくること。などなど。年間千名にもなる帰国隊員たち。現職を休職するなどして参加したひとはともかく、多くはこういう経験をそれぞれ乗り越えている。

 断っておくが、別段ここで協力隊ガイドを僕は書きたい訳じゃない。僕自身の経験を、それはそれとして留めておきたいだけだ。
 

 昼夜、3号報告書を書く。雑事等。
 


2000.0703 月曜日
晴れ、雲も出る
 

出来てしまった

 午前、上司のアロンソ、同僚のマキシモと共にメロンへ向かった。
 体育館を見に行く。これは先日偶然立ち上がっていることを知った、僕の設計の体育館だ。工事は8割方終わったというところ。マキシモ達は、もとの設計と相違がないかメジャーを持って調べている。僕はカメラを手に、うろうろ。
 元の設計は、予算やらなにやらの制約があって、自分でも疑問ののこるものだった。今立ち上がっているのは、更に譲歩して変更された結果のようだ。公共事業課のベルナルドが中心となって変更を行ったようだ。仕方がないとはいえ、何か悲しい。また、変更によって今後つきまとう不都合も多少出来てしまっている。ただ、施工はチリの田舎の割に、まだましかも知れない。いつもながら、細く頼りない鉄骨の構造メンバーには不安を覚える。台風が来ないから、これでいいのか。

 続いてメロンにあるスタジアムへ。去年ちょこちょこと設計を指示した階段席やその屋根、国旗掲揚のポール、得点表示板、便所の増築、キオスクの建家。すでにこれらは使用されている。今まで見に来なかっただけだ。いずれも大小の変更や、省略がなされている。こちらは体育館と違い、大変荒い工事。キオスクなんか、小さくてかわいいだけに、雑さが目立ってしまっている。が、まあいいのかな。日本では考えられないような低予算で作られるモノは、少なくとも使用に耐えればよい。こういうものなのだろう。少なくともスタンドの屋根が先日の大風でも飛んでいないのだ。これで十分かな。

 設計をしたり、提案したり、助言したりといった仕事達が、帰国までになんらカタチにならないことになったら。心配していたことは、これでなんとか回避できた。が、設計はあれで本当によかったか?工事の監理にかんして、なにもしていないのはおかしくないのか?といった疑問が残った。
 少なくとも日本では、建築する人間である以上、実際に建物が立ち上がって引き渡しをするまでの監理を含めなければ、建築をつくったと言えない。役所のいち部署での企画設計と割り切ることはそれはそれでひとつのあり方だが、どうも変な気分だ。
 



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