Diary
日々の記録

 
 


image:フォンチョ
km:フォンチョ(2000.0610)


2000.0618 日曜日
晴れ
 

 旅行3日目。
 ペンションの朝食にはチリでは珍しいインスタントでないコーヒーが出たし、自家製のクルミやココナッツなどのクーヘン(薄いケーキ)、アップルパイ等が出て、甘いものが苦手な僕も大変満足。

 湖畔の道を散歩。道中、野良犬が先導をしてくれた。こいつは帰りも付いてきてくれた。
 まちへ戻り、ドイツ料理を。これも大変よろしい。

 フルティジャールはこじんまりとした静かな静かな湖畔のまちだ。人影も少な目で、チリには珍しいタイプの落ち着きがあるし、観光地として下手な売り出し方をせずに成功していると思う。チリらしさに欠けるとさえいえるかもしれない。が、僕の最も好きなチリのまちのひとつだ。

 ほぼ満月。夜、湖を挟んでオソルノ山のある東から上った月は、西へ昇ってますます高く輝いていた。
 秀麗な山、大きく澄んだ波を立てる湖、冷えた大気、銀の月。2階のバルコニーに面した窓から、それらを飽くまで眺め続けた。完璧な光景はつまらない思考を遠ざける。ただ眺め、波の音を聞いた。
 


2000.0617 土曜日
晴れ
 

 多雨といわれるチリ南部の旅行も2日目だが、今日も晴れ。今回旅行は二人で来ているが、これには同行者ともども、喜んでいる。しかし、昼になっても日陰の植え込みには5センチ以上もある霜柱だ。草という草は凍り付いている。寒さというものは、全くやる気を無くさせる。このオルノピレンには温泉もあるのだが、別に日本みたいに整備されたものでなし、見送ることに決定。船で島へ渡ればいいところもあると聞いたけど・・・。僕はめげていたようだ。

 時間まで市の体育館でバスケットをして遊び、昨日乗ったバスに再び乗り込む。せっかく来たのになという思いもあるが、プエルト・モン、オルノピレン間の道はとても美しく、ここを走るだけで価値がある。ちなみに片道2800ペソ。約560円。これでもちょっと高めである。

 道中はフィヨルドの地形の中を走るから、窓から見る景色は変化に富んでいる。岩盤が露出しがちな山肌は、チリにしては雨が多い方なのでびっしりと緑に覆われている。植生は今まで見たこともないもので、下草には巨大なシダの類やらなにやら、よく分からない灌木、そしてときおり枯れ木立だったりする背の高い常緑樹。これは針葉樹かどうかも僕には判別できない。感じる空気は、どことなく新生代以前といった風。後日、写真でも載せたい。

 プエルト・モンで遅い昼食をとる。メルルーサと呼ばれる鱈の一種や鮭などの料理。新鮮で大きく、さっぱりとしてうまい。

 プエルト・モンから小1時間ほど北へ行く。オソルノ山をジャンキウェ湖の対岸に望む美しい小さなまち、フルティジャール。去年の今頃も来ている。2度目だ。快晴の今日は、夕方でもすっきりと晴れて、富士山そっくりの優美なオソルノ山をはじめとする山々の姿がいっそう美しい。ここも寒いのだが、オルノピレンと違って、ほっとする。
 ザルツブルグと名の付いたペンションへ。ここは、ほかのジャンキウェのまちと同様、ドイツ移民のまちだ。夏には毎年クラシックの音楽祭が行われる。
 


2000.0616 金曜日
晴れ
 

 来週6月22日木曜日はCorps Cristi。「聖体の祝日」なのだそうで、カトリックのお国柄、お休み。ところが金曜日を挟む飛び石連休は、今回お国が変更。22日を19日月曜日に前倒しして土日月の3連休となった。4連休を狙っていたのになと残念がる人、多数とのこと。
 で、敵もさるもの。いや、僕のこと。堂々今日から休んでやって、4連休である。安売りの航空券を買って、南部チリへ飛ぶ。

 朝早い便。第10州の州都プエルト・モンに着いた後、バスで移動。途中フェリーにバスごと乗せて、未舗装の道を4時間。三方を山に囲まれ、一方を海に開いた小さな集落オルノピレンに着く。北海道並の高緯度の10州の寒村は、さすがに寒い。が、冬の北海道がマイナスの世界であるのに対して、ここはいいところ関東地方程度だろうか?見た感じが寒々としているだけで、雪もなく、実のところ大したことはない。ただまともな宿が少なく、泊まった部屋に暖房がないことが一番こたえた。が、こんなことはチリでは当たり前なのだった。
 


2000.0615 木曜日

 

 今日まで4日続くと予報されていた雨も、今日の未明までには時折ぱらつく程度になっていた。晴れ間も覗いているし、もう心配ないだろう。

 日本でも同じようなものなのだろう。災害ともなると市役所は通常の業務を停止して対策に向かう。こういう経験って、私企業にいたことしかない僕には、当然のことではあれ面白いと思う。

 ここ、ノガレスには大した被害のなかった今回の大雨。それにしても印象的だったのは、それぞれの持ち場で役目をこなすここの職員達が、なんの悲壮感もなく、全くいつものように時には談笑さえ交わしながら作業を進めていたことだった。
 全ては神のみぞ知ると言わんばかり。日常見せない緊張感というものも、やはり今回も顔を出さなかった。

 チリの田舎は、のんびりのびのび。いついかなる時でさえ、誰も慌てず騒がず、ほのぼのと和やかだ。時と場合で瞬時に気を引き締めることに美徳を見いだす日本人の僕には、これはほとんど驚きの対象。これはこれで泰然自若というのか何というのか。やはり一種の徳質じゃないのかなと思う。
 


2000.0614 水曜日

 

災害救援作業

 昨晩から雨はますます強くなってきた。今日で降り続く雨は3日目に入る。日本でも何日も連続して降る雨には警戒するが、雨期の冬でさえ僕には少雨と感じられるここの気候である。備えもなかろうに大丈夫だろうか。

 夜のニュースでは、サンティアゴ東部の庶民的な住宅地区マイプで、いつになく広範囲な冠水を伝えている。日本のような高床の構造を持たないチリの住宅では、道路の冠水はそのまま床上浸水を意味する。首都と言えど、道路などに雨水排水管等の設備がなくて当たり前で、どの地区も軒並み道路は川のような様相になっている。マイプは低地らしく、水が集まる箇所があるようだ。まともな雨が降る度、住民が被害を訴える映像を見るけれど、今回はひどい。ただ、河川の氾濫であるとか堤防の決壊によるものでなく、排水の悪さによる洪水というのはどうにかならないものだろうか。チリでは、これをもって人災という風には呼ばないと思われるが、真相の程は知らない。

 ここ、ノガレスはまだそのような広域的な被害は出ていない模様で、合羽を着込んでまちを見回っても平静そのものだった。しかし、ただでさえトタンやスレート板の粗末な屋根の家屋がほとんどだから、雨漏りの被害は多いようだった。
 とはいえ、一部の水はけの悪い地域では浸水しそうになっているとか、川が溢れそうで橋が通行禁止になったりしている。午後から市役所も騒がしくなり、男性職員は支給された合羽を着込んで忙しく立ち回っている。見回りや緊急の夜具、食料、屋根にかけるビニールシートの支給が主な役割らしい。僕も一緒に車に乗って回ったが、幸いどこも大した被害がなく、深夜にメロン地区の役所の作業小屋で夜食を頂いて帰った。メロンの斜面地は岩盤でできているらしく、土砂崩れの被害がなかったのが幸いだった。
 夜半、小雨となり、その後、ほぼ雨は止んだ。

メロンの体育館

 メロンでの作業中、思いがけないものを見てしまった。最初に僕が設計したといえる体育館がいつの間にか完成していたのだ。まだ使用されていないという。
 闇夜に浮かぶそれは大変巨大で、超ローコストの為、想像していたとはいえ恐ろしいほどプアーだった。原型を留めているとは言えないくらいに変更されていたせいもある。しかし、事前の相談がなかったことを悲しく思う。たぶん平面計画だけが生き残ったんだろう。
 いずれにしても、僕の仕事のなれの果てだ。悲喜こもごもの感慨がある。が、正直なところ、大半は計画の進行を知らなかったというショックで占められていた。工事は公共事業課が管轄しており、事実上企画局の人間である僕とは手が切れているが、それにしてもという思いは大きい。以後の戒めとすることだ。
 


2000.0613 火曜日

 

 昨日夕刻から降り出した雨は、断続的ながら、14日に日付が変わっても降り続いている。つい2週間ほど前だったか、チリ南部で大雨による被害がでたばかりだった。今度は中部へ前線の通過ということだそうだ。日本の梅雨の雨か、もしくはもう少し強めかな。台風の予兆みたいな降り方だ。それにしても、普段ほとんど降らないこの土地では、ちょっと怖いくらいの雨量である。
 ニュースで流れるサンティアゴ西部は、すでに洪水の様相を呈している。雨水排水に対して、基本的な設備などの備えがないからだ。対して、以外に大丈夫なノガレス。ただし、メロン地区の一部などでは浸水するなどの被害がでているらしい。
 昨晩遅く役所へ顔を出してみたが、宿直のカルロスが電話の応対をしているだけだった。しかし、このまま予報通り木曜まで降られると、ちょっと危険じゃないだろうか?見たところ、雨漏りや窓の被いに使うための透明ビニールシートの配布とか、ビスケットなどの差し入れは既に行われているようだ。

 聞いたところでは、3年前にも大雨があって、ちょっとした洪水になったという。あの年は干ばつじゃなかったっけ?一時的な大雨だったのか?
 


2000.0612 月曜日
曇りのち雨
 

夢想の散歩

 6月の南半球の中緯度は、日本と比べれば冬とは呼べない程度の冷え込みにしかならない。住み慣れるに従って、それでも心に寂しさを与えるのは、こちらの冬が、あたかも晩秋がいつ終わるともなく続いているように思われるからだろうか。もっともこれはここ、チリの話だが。

 風邪を引いてしまい、昼前になって今日は休むことを公衆電話から仕事先へ連絡してベッドに戻った。下痢が続いており、よほど空腹にならない限りは何も食べるまいと決めてしまうと、かえってからだがすっきりしてくるような気がした。
 自室で椅子に座ってできる何事かを手に取ってみたものの、その気にはなれなかった。適当に心休まる音楽ディスクを手にとって、ヘッドホンで聴きながら横になるしかなかった。

 どのような本も集中できないので読むことができず、しばらくの間、窓の外のパティオで葉をゆすっているアボガドの木を眺めていた。晴れていれば、にこやかな表情で包んでくれるような陽光が降りもするのに、今日は曇りで、そういう愛想の良さはなく、ぷいと後ろを向かれてしまった感じだ。こういうときに吹く風はただ冷たく、アボガドの常緑の葉も鈍い光をゆらゆらと反射させているに過ぎない。
 退屈さえも鈍く重く、しかしベッドの中で生暖かだった。

 うすくカーテンを開けたその窓から、気持ちだけ抜け出してゆらゆら散歩してみることはできないか。できるなら普段よりも1メートルは高い視点まで身を持ち上げて。散歩する僕は、今は「気持ち」というもの、それだけなのだから、簡単なことだ。

 家の表へ、パティオから屋根を飛び越えて出てみる。ひとしきりトレーラーや小型の日本車や韓国車、ピックアップトラックがパン・アメリカン・ハイウェーを往来するのを眺めてから、ゆらゆら移動する。

 少しだけ西へ行ってみた。コンクリートの粗末な舗装路は、それでも十分な幅があるのだが、そのせいで余計に埃っぽく閑散として見える。今日のような寒々した空の下では、掃除でプラスチックの箒をせわしなく動かしている太ったセニョーラのひとりもいない。
 独特な形をした電柱と、日本に劣らずだらしなく張り巡らされた電線伝いに散歩を続けたが、なに目新しいもののない街路の散歩ほどつまらないものはないと気付くと、せっかくだから東の山あいの緑が多い地区へと行ってみることにした。犬は僕のことが見えるのか、たくさんいる野良犬が、大きいのから小さいのまで僕に吠えてかかる。ゆらゆらした微笑みをかえしてやった。

 僕の住むまちは、市街地もあるが総体としては村と言った方がいい。山裾に一本古い街道が通るようにラ・ペーニャの未舗装路が走る場所まで、ゆらゆらそんな村の休耕地が続いているところを道を外れて進んだ。近くのラ・クルスやキジョータ、イフエラはあれほど農業が盛んというのに、なぜこの村はこんなに元気がないのかと思う。冬空の下の手入れのない休耕地ほど寒々したものはない。夏には農夫が休む木陰を作るはずの木々は、今は枯木にしか見えない。
 いつかの夏に一度来たきりのラ・ペーニャは、同じ村の中とは思えないほど緑陰深いみずみずしい街道の集落だった。それが今日のような寒い曇り日では、その緑深さがこんなにどんより重い印象を与えるものとは思っていなかった。ただイメージの中で散歩に来ただけだというのに。

 不意に高校生の頃、天候に関わらず自転車で近県の田舎道を貪るみたいに走っていたことを思い出した。頬や指先や足先が冷えて、閑散とした旧街道の自販機の前でミルクティーを飲んだときのこと。刈り取りが済んで、もうだいぶ経った田んぼが、くろぐろと含んだ水分のせいで余計に冷たく見えたこと。まるで厭世に来たみたいに思わされるように、行く先々の集落には人影が見あたらず、大抵鍵もかけられていない白い軽トラックがそこここに駐車されているのが、どうもうち捨てられたようにしか見えなかったこと。
 鼻をすすりながら、ひとり黙々とペダルをまわしたり、ひとり黙って地図を見たり、ただぼうっと遠くの黒い山並みと漂白されてしまったような枯れた草原や畑をながめたりした、そういう記憶が、ゆらゆら散歩している僕の、わずか頭上を流れていく。

 視点を持ち上げたところで追いつくはずもない高い樹高の連なりの向こう側に、頭だけ見せて低い山が並んでいる。数百メートルのこれらの山々は、日本なら禿げ山とされるほどにサボテンや灌木しか生えない不毛の斜面を拡げている。さらにその背後には、まだアンデスへは遠いというのに数千メートル級の標高の山塊があって、こちらは本当の不毛の岩肌を常時薄いバラ色に染めて聳えており、よほど雲が低いときや砂塵の舞う日以外、屏風のようにその姿を見せている。
 今日の僕は身軽だが、いくらゆらゆらと「気持ち」だけでやって来たと言っても、あのバラ色のてっぺんをきわめたいなんていう気にはならない。

 ぼんやりと薄暗い木の下でひととき佇むことに飽きてしまったら、もう動く以外にやることはない。気の向くまま北へと街道を伝ってゆらゆらと向かったが、このときの本当の僕の気持ちはもうベッドの中にあって、イメージの散歩を楽しむことも止めていたのだった。
 とりあえず僕は僕の「気持ち」を見送った。

 雨が降り出しそうだ。いつになく風が強くなり、ごおっという音がなりやまなくなってきた。窓の外のアボガドの木が常緑の厚い葉の枝を折れそうなくらいに揺すぶっているのを見て、散歩を終えておいてよかったと思ったが、すぐにさっき見送ったばかりの頼りない「気持ち」の後ろ姿を思い出した。あのあと彼はどこへ行ったのだろうか。
 


2000.0612 日曜日
曇り
 

 何度も書いているが、僕は市役所が借り上げている家に住んでいる。その時々の看護実習生とか、なんとかボランティアとか、家が遠いからちょっとだけ泊まりたい職員とか、そういう若いチリ人と同居の状態だ。

 今日はここで、家を使うに当たり、みなさんにスローガンを掲げようと思う。
 

  1. 食器は使ったら洗って、元の場所に戻しましょう。
  2. ちらかしたら片づけましょう。
  3. 深夜はそれなりに静かにしましょう。
  4. 他人の物は、許可を得て使いましょう。
  5. もちろん、冷蔵庫の食材も、他人のは勝手に食べてはいけません。
  6. ゴミが出たら、それなりに処理しましょう。
  7. 家の備品を持ち出したら行方不明にしてはいけません。
  8. 来たときよりも美しく!


 いやね、文句言ってるんじゃないんです。中傷もしません。ちゃんとしましょうよ。子供じゃないんだから。それだけ。まあ、ちょっとおっちゃんは怒ってるけどな。

 チリの人達は、他人にとやかく言うことをしない。子供を叱ることも、あんまりしない。なので、僕もいちいち口をとがらすのをはばかってしまうのだが、いいえ。このへんでどうにかします。

 という決意を胸に秘めつつ、今日は掃除。

 誤解してはいけないが、一般にチリ人はきれい好きである。どの家に行っても、整理整頓が行き届き(物が少ないとも言う)、床はぴかぴかだ。ぼろい家でも同じ。だから、余計に疑問がわいてしまう。
 ようするに自分のテリトリーしか大事に思わないということなんだろうか?それではちょっと寂しいが、そうだなあとも思う節が多いのも事実だな・・・。
 


2000.0611 土曜日
晴れ
 

リサイクル、瓶のサイズ

 そう言えば、昨日は家の近くの広場で青年グループによる「環境の集い」なるものが行われた。環境保護とかリサイクルとか、ポイ捨てをやめようとかいう話はほとんど聞かないお国柄なので、そういうイベントをノガレスみたいな田舎で行ったということに驚く。(自然保護という観点は結構あるように思う)
 日本の2倍の国土に日本の1割程度、1400万人が住むだけのチリ。環境に甘えても十分やっていけそうではあるので、多少ポイ捨てが普通に行われていようが、仕方ないかなという気がする。僕の子供の頃は、そういえばポイ捨てなんかひどいものだったし、工場廃液や煤煙で公害病がたくさん起きていたっけ。

 リサイクルと言えば、ここのビール瓶のリサイクルはしっかりしている。最もスタンダードな瓶は1リットル入りのガラス製で、使用済みの瓶と交換で新たに買わなければ、値段は一気に1.5倍以上になってしまう。これはコーラなどの清涼飲料の2リットル入りプラスチック容器でも同じだ。
 瓶を持ち込めばビール1リットルは500ペソ(100円)程度。350ccのアルミ缶だと300ペソ前後。できることなら瓶を買いたくなるというものだ。このへんもよくできていると思う。

 ついでながら、なぜ1リットルのような、ひとりで晩酌するには多い容量が流通しているのかという点について考えてみる。
 何もチリ人が日本人に比べて酒に強いと言う理由からではない。実際、日本人より弱い人も多い感じがする。というのも、週末のフィエスタと呼んでいるホーム・パーティの時くらいしか、普通の人は酒を口にしないからだ。晩酌などという習慣がなく、飲むならホームパーティでみんなで飲むのが当たり前なチリでは、大瓶が750ccなにがしというのはどうも中途半端な容量なのだと思われる。
 ちなみにワインも2リットル、3リットルという大容量のものが売られている。これはお国柄というものか。
 


2000.0610 金曜日
曇りがち
 

朝ご飯、パン

 このところ、家では朝食をとらず、もっぱら役所の近くの大きめのパン屋へ行ってサンドイッチを買って勤務中に食べている。
 パン・アジュージャという丸くて薄いパンを薄くスライスして、そこへただチーズを挟んだだけのものを頼む。直径は15センチくらい。厚さは2センチ程度。ボソボソとして半分クラッカーみたいな食感だが、慣れるとそこはかとなくうまいパンだ。で、これに大抵パックのオレンジジュースをつける。しめて320ペソ。64円程度。
 ついでなので、パンのこと。
 アジュージャと並んでポピュラーなのは、パン・バティード。こちらは大きめで平たいロールパンといった大きさだが、食感などなど、ほぼフランスパンに近い。焼きたては特にうまいし、フランスパンほど固くないから食べやすい。値段はアジュージャもバティードも、だいたいひとつ40ペソ。約8円。

フォンチョ

 勤務を終えて戻る頃、アルフォンソとすれ違う。あだなはフォンチョ。役所の契約運転手だろうと思う。歳は27くらいだろうか?アメリカのミュージシャン、ドナルド・フェイゲンの若いときに酷似した顔だちだが、音楽的才能は、おそらく当時のフェイゲンの髪の毛ほどしかないと思われる。
 それはどうでもいいか。彼が何故かひとつだけ覚えてしまった日本語があって、僕と会うたび、必ず人差し指をたてながら片方の眉をあげて言う言葉がある。

「ケン、こいびと!」

 こちらからも何度か聞いてみたことがあるが、彼の方には恋人がないそうである。
 


2000.0609 木曜日
晴れのち曇り
 

 どうも風邪気味。喉がおかしくなってきた。用心せねば。

 ここ最近、暇を見ては山崎豊子の「大地の子」を読んでいる。以前、上川隆也主演のNHKのドラマをちらっと見たことがあって、ずっと気になっていた。

 大変大きなテーマを扱った小説なもので、僕にはここでどうこう書くことは到底出来ない。だが、2巻まで読み進んで来て、中国への開拓移住というのは、他の中米や南米への移住と時期が近く、何らかの関連、もしくは移住の全体像というものがあることに気付いた。当たり前のことではあるが、こうして南米に住むことで自分に引き寄せてみることができた気がする。
 何人かの日系移民達と関わりを持つ中で、国の内情や国策と言わず、たくさんの要素が立体的に組合わさって日本人が海外へと出ていき、あるものは成功し、あるものは敗れていったということに、僕は半ば慄然とした思いがする。成功・敗北と一口に言っても、それは生き死にや、殺し、殺されというレベルのことを含んでいる。それは当事者達の間でしか分かり合えないだろう。

 旧満州へ渡ったたくさんの人々は、悪夢をみることになった。中南米は悲喜こもごもだが、現在でさえ、最近報道されているドミニカ移民のように、悲哀の歴史を過去のものにできていないところもある。東南アジアや台湾、朝鮮半島、その他はどうなんだろう?

 全てのものには成り行きがあり、過去がある。
 現在というものは、無数の波紋が重なり合ったひとつの交点だ。その一点にあらゆる過去が絡み合っている。だが、うねり波立つ外洋から凪いだ入り江へ入れば、そんな過去も成り行きも忘れられていく。それでも賢明な船乗りは、静かな水面が、実は外洋と同じ海水のおもてであることを忘れない。
 


2000.0607 水曜日
晴れ
 

 友人Mから小包が届く。彼はモノスゴイ、がつくほどのドライブ狂で、僕もまあ結構近いのだけれど、それでだろう、自動車雑誌とドライブガイドを送ってくれた。

 知らない間にいろんな新車が出ている。おかげでこちらチリでも日本車のシェアは3割は越えているだろうと思う程に高い。
 人気があるのは室内の広い、レジャーユースに向いた車のようだ。僕は昔からこういう車へと、窮屈でスタイリッシュなセダンやクーペから需要は移行すると思っていたが、それはたんに所有する喜びというものから、車を使って過ごす時間の方を大切にしたいという思いへと、車の役割が変化したことを示していると思っている。
 では、この先、どういうふうに変わっていくのだろうか?
 


2000.0606 火曜日
曇り時々晴れ
 

 多目的コートの図面をマキシモに渡す。さて、その他の仕事にかからないと。

 メールとブラウザのソフトをマイクロソフトのものに変えてみた。いままでずっとネットスケープだったので違和感があるが、いろいろな部分で動作がスムーズだなと感じる。近くネスケも新しいのが出るそうだが、この際、今やスタンダードなこれらのソフトに乗り換えようと思う。使っているパソコンはマックだが、これもいつまで続くだろうか。
 


2000.0605 月曜日
曇り
 

 午後、JICA事務所へ。後任隊員の要請にかんする書類などを受け取る。

 先日も少し触れたジンバブエだが、JICAは国外へ退避することにしたという。欧米の機関は、すでに撤退したところもあるらしい。これは、ようするに植民地支配以来の問題が、大統領選挙をきっかけに解決を譲れない段階に入ったということらしい。
 協力隊員は、南アフリカに避難するそうだが、任期の残り少ない隊員は、日本へ帰国してもよいきまりになっているという。実際のところ、僕が聞いている限りでは、選挙自体、実施の日程のめどが立っていない。だから隣国で待っているのも甲斐があるかどうか分からないということになる。
 同級生のYの任期は、あと1年近くある。なんとか円満に仕事ができるように。そして、なにより仲間のシャマリ(ジンバブエ人)が、安心して暮らせる世の中が戻ってくるようにと願う。

 いったい政情の安定とは、決して当たり前にあるものではない。あの平和な日本だって、つい半世紀前は惨禍の中心だったのだし。
 平和というと分かりにくいが、つまりは安心だ。不安の逆。生活が安心してやっていけるか、それとも否定されているかだ。そう思うと、政情が安定していても、たとえば生活に窮乏があってはいけないし、いろいろ思い当たることがあるだろう。
 生活が、人生が「なんとかなる」ような世の中が当たり前であるよう、「なんとか」しなければ・・・。
 



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