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Diary
日々の記録
km: gato negro
アルゼンチンにて
2000.0521 日曜日
曇り
午後、国立美術館に行ってみた。サンティアゴは曇っているうえ、名物のスモッグがひどい。すぐそこのビルやアパート、並木がみんな霞んで見える。
入り口を入ったホールでは、中国の焼き物や青銅器が、兵馬俑も含めて展示されていた。
チリではほとんど中国のことは理解されていないと思うのだが、これらの作品の素晴らしさと作製の年代を見て、チノ(中国人)達がどんな文明を持っているか、持っていたかをチリ人に知って欲しいと思った。というのも、見渡したところでチノっぽいのは僕しかいなかったので、日頃冷やかしや揶揄の対象としてしか登場しない中国のことを、今ここで思い出させるのは僕のこの東洋人の顔だけだからだ。だから、「知って欲しい」というのは、ちょっと「思い知って欲しい」という、嫌らしい根性から出ていると言えるかもしれない。
僕は中国人じゃない。でも、日本は、中国の子供みたいなものだと思っているから。
地下の大展示室はクリストバル・トラルのアンソロジー。1940年生まれで、現在も活躍中のスペインの画家。結構な巨匠らしいが、美術に疎い僕は知らなかった。パンフレットには、バルガス・リョサが文章を書いている。
大変精妙な描写の油絵が多い。そのカンバスの、磨き上げられたような平滑で光沢のある表面が、僕には印象的だった。モチーフは、女、時として山のように積まれた旅行鞄、野菜、引っ越し直後のようなちらかった、けれどがらんとした部屋などである。リョサがなんと紹介しているのか僕の語学では分からないが、ともかく「旅支度」とか、野菜のしなびていく運命みたいな「一時性」といったイメージを感じる。それは、今日のサンティアゴの白く霞んだスモッグみたいに、いずれ記憶に留まるかどうかもしれない、そんなぽっかり空いたような寂寥感になっていく。
少し早足で美術館を出てバスに乗り、モールへ。買い物をして帰る。ちょっといいワインも買った。もうすぐ来る誕生日の、自分自身への祝い。この夏南へ行ったとき飲んで以来忘れられないTorreon
de Paredesの、今日はカベルネ・ソービニョン1995。フレンチ・オークの樽仕込み。なんか知らないけど、うまそうに聞こえる。
2000.0520 土曜日
曇りがちだったような気がする
終日家を出ず。スパゲッティで焼きそばを作り、昨日の残りの赤ワインを飲む。さえない組み合わせだなと思っているうち、日が暮れた。
昨晩は、たくさんメールを書いた。手紙というものをあまり書いたことがない僕だったが、このメールはよく書く。今になって、こんなに文字を連ねるようになるとは思ってもみなかった。僕でこうなんだから、作家は自作を上回る書簡を書くもんだという話もうなずける。
同期の仲間が、ひとり帰国するという。お疲れさまとだけいいたい。
2000.0519 金曜日
曇り
午後、先週もお邪魔したハラモト教授のところへ。今日は研究所でなく、学部の教室である。
日本なら2年生に当たる建築の学生の課題提出日。自分の学生時代を思い出す。あの時の僕らの製図室と何も変わらない。・・・なんというちらかった教室だろう!足下は雑多な種類の紙、紙、紙。そして模型の材料の切れ端のボードやプラスチック、針金などなど。
日本と違うのは、さすがチリと言うべきか、期限の3時になっても、まだ作業をわいわい落ち着いて続けている学生達の姿だった。日本で言えば東大にあたるこの大学の学生にしてこれだから、なるほどなというところ。まあ、自分も提出前の数日を徹夜して、駆け込み提出ばかりしていたが。ともかく、そんなアトリエの様子を見て懐かしくいとおしいような、そんな気持ちになった。
学生33名は、ひと家族のための住宅。8名は低所得層のための6戸が入る集合住宅。これが課題である。各自展示用のボードに自作を貼りつけると出ていった。先週はプレゼンテーションをするときいていたが、チリらしく先送り。今日は先生が成績をつけるだけになった。けんけんがくがくを期待していた僕は、かなり残念。
住宅課題:サンティアゴ、セントロに近い、閑静なアパートメントが連なる古い一角。広場の前の角地。入居する家族は各自設定。
集合住宅課題:住宅課題に準ずる敷地。ただし、敷地の間口は25メートル、奥行きは12メートルほど。
どちらの課題も模型が必須。
以下、感じたこと。全体の傾向などだ。
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2年生というのもあってか、構造的な部分には無頓着だし、構造面でのアイデアがない。
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薄い壁でスペースを分節するやり方が多い。今風。
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ボリュームというよりは板の構成でフォルムを作る傾向が強い。要するに角が閉じていないように見せている、というだけだが。
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思ったよりも空間自体のおもしろさを追った作品が少ない。それよりも形である。
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空間の構成要素は、いずれにしても壁であって、用途などは全部決定されている。ドミノシステム等によるユニバーサルな空間をアクティビティで意味づけるようなやり方はみられない。
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造形も全て壁による。柱を大きく扱ったものはなかった。日本とは違うなあと感じる。
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平面計画(間取り)はステレオタイプなものが多くて、平凡な家庭像しか見えてこない。日本人の僕から見て新鮮な住宅像、家族像を感じることはできなかった。
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日本の学生の作品とは、それほど違いを感じない。むしろ雰囲気的には、チリの方が似通ったものが多い気がして意外。日本は、例えば和洋のスタイルの別が今も強く生きているし、社会は変化するものとされるが、こちらはなにもかも硬直しているからだろうか?というと言い過ぎ?多様性がない。
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2年生のわりに、いわゆるデザインは達者かも知れない。
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この学年ではコンピュータの利用は少ないらしい。実際ひとりもなし。きまりによるものではないとのことだが、体を使ってものを作るのは大事。
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荒唐無稽な設定とか、無理があるような元気のいいアイデア、思い入れを見て取ることはできなかった。建築は、全く「もの」として扱われていて、物理的な操作の対象。生活のパッケージングというのか、そういう意味ではどれも普通すぎる。
たぶん、学年があがるにつれて、だんだんこなれて来るし、ステレオタイプから抜け出たアイデアのある作品が作られるようになるのだろうと思うが、それにしても最後に書いたように、もうちょっと元気のいいものはないのかな?と思った。チリの元気のなさみたいなものが、ここにも見える気がした。
ここまで書くと、じゃあ俺はいったい何様だという思いもするけれど、それはそれだ。
2000.0518 木曜日
晴れ
明日の準備で夜のうちにサンティアゴ着。まともな食事はしていなかった。まとめて夕食で栄養をとる。ひとりでちょっと高級そうな中華料理店へ入り、隊員連絡所から持ち出した文芸春秋の2月号を読む。
この間来たときもこれを読んでいた。立花隆の「残された世紀の謎ツングースカ大爆発を追う」、瀬名秀明の「パラサイト・イヴの作者、ロボット開発最前線をゆく 鉄腕アトムを作れ!」が、読みやすく面白かった。
ツングースカ大爆発は、子供の頃、何かで読んでいたのだが、やっぱり未だに謎のままだったのが、何か嬉しくもどかしい。また、気味の悪い話だ。知ってます?この事件。
ロボットの話。この中で、IBMのコンピューター「ディープ・ブルー」が1997年に初めてチェスの世界チャンピオンに勝った時の話が載っていて、これがおもしろい。
このコンピューター、基本的には絨毯爆撃的に選びうる手を高速で読み、これも世界的なチェスの名手に最適な手の選び方を教え込まれていて、愚直かつ確実なプレイをする構造を持っている。で、その手の選び方については、何パターンかの高度な判断の「癖」をオペレーターが指定できるようになっている。
何が面白かったかって、負けたゲイリーが戦いの後に言った言葉が凄いのだ。「人間とは違う知性をディープ・ブルーに感じた」というのだ。瀬名氏はこれを聞いて背筋に鳥肌が立ったというが、いやあ、僕も立っちゃった。なるほどなあ。6ゲーム制で試合は行われるので、ゲームとゲームの間の流れでオペレーターが「癖」を変える。特にこれが、ほとんど人格の変化みたいなものとしてゲーリーには感じられたことだろう。彼は、ぎょっとするような不気味さを覚えたはずだ。
知性の本体というか、本質って何なのか知らないけれど、チェスという一定のルールの中でのコミュニケーションも、高度化すると知性を機械に帯びさせるようになる。なんともいえない、面白い話だ。
蒸し餃子とあんかけ麺の一種を注文。ビール。食い過ぎた。体重はそんなに増えていないのに、なんだか最近腹の肉が気になってきている。こりゃまた太るぞ。
2000.0517 水曜日
曇りのち晴れ
妙にあたふたするいちにちだった。こういう日であればあるほど、そのいちにちの終わりをどうにかしていい感じにしめくくりたい。数日来読み進めている本を手に取るとか、最高の美酒を、これもグラスに入れて手に取るとか、ほかになんかないかな?
みんな、どうやって過ごすんだろうか?僕など、そうこうしているうちに真夜中もいいところまでいってしまう。きりの悪い性格。
2000.0516 火曜日
快晴
晴朗そのものの快晴。生涯最高の、爽やかな空を見た。
役所へ着いたらリカルドに呼び止められた。
「おう、ケン!電話があったぞ。」
「誰から?」
「ママだよ!俺、おまえのママの電話とったの、これで3回目だ。」
「かれこれ、そうだね、そんなに?」
「最初さ、スペイン語で話したんだけど、全然通じなくってさ、英語にしたんだよ。でもやっぱりだめ。ぜーんぜん通じない。」
「彼女に分かるわけないよ。」
「日本語の会話のマニュアル作ってくれよ。今度はなんとかしたいからさ。何時頃ケンは来ます、とか、そういうの。」
母のことは、スペイン語でもママという。
親としては、たまには息子の声も聞いてみたいらしく、こっちへ来るときは月に一度くらい電話してくれと言われていた。まあ気が向いたら出来るだけ意に添うようにしてきたんだけれど、慣れてきて異国からの電話に相手が新鮮味を感じなくなってくると、どうもなあ。
それより今度は親の方が、外国への電話にチャレンジするのが楽しいらしい。去年のクリスマスだけ成功したが、それ以来、僕が不在だったりでどうもうまくない。
いや待てよ。ひょっとして今日のは不幸でもあったんじゃあるまいな。
夕刻、妹の携帯にメールする。大丈夫だとのこと。便利な時代になったもんだ。
パウラが南部へと引っ越していった。僕の寝室の隣は彼女の部屋だったが、早速次の主が入ってきた。彼も市役所で勤める男で、ホルヘという。英語でいうとジョージ。小柄で、なんとも個性的な奴だ。彼はノガレス東部のラ・ペーニャの人。美しいところだが、すごく不便な集落だ。道路は未舗装だし、インフラは電気くらい。でも水が豊かなので救われている。近くのガレトンという地域なんて、電気もなくって砂漠のような瓦礫が続くから。
ラ・ペーニャは木が鬱蒼として連なり、なんだかほっとする。このノガレスでは、僕の一番好きなところだ。
2000.0515 月曜日
曇り
雨上がり。晴れないまでも、もくもくとした雲。
明日、パウラがうちを出る。青少年活動の担当だった彼女なので、別れを惜しんでたくさんの若い子がつめかけてくる。フィエスタになる。飲んでギターを弾いて、歌って、喋って。楽しそうだ。
眠れませんよ。こっちは。
2000.0514 日曜日
曇りのち夜半雨
遅くまで眠り、ゆっくり過ごす。本も読まず。
夜遅くなって、雨が降り出した。秋が深まった証拠だ。夏には一度降ったかどうかの雨。雨が珍しいというのは、例えば雪が降って交通が麻痺する東京と同じ様な頻度の事象であるということで、その位少なくなってしまうと、もうチリの雨には情緒を見いだすことができない。
2000.0513 土曜日
曇りがち
夜。隊員連絡所にて、Tさんの送別会。彼は隊員ではなく、専門家の調整員である。スペイン語のプロということ。
まだ三十台で僕らとも年が近い彼は、いろいろと隊員の世話を焼いて下さった。つい3月末の国立環境センター主催によるセミナーに参加させてくれたのも彼だ。
大阪出身で阪神タイガースファン。どこを切っても大阪人の彼は、実際ひとくせもふたくせもある。でも、ほんまのことしか言わない。真剣な目を持っている。だから本音で話ができる。付き合い上の社交辞令ばかりでいらいらさせられる人の多い中、これは美徳だ。
またお会いできるのを楽しみにしているが、そのときの僕が、あんまり彼を心配させるような境遇でないように。
こういう場では当然、何本もの高級ワインを空ける。とはいっても、高級なものでも1本千円くらいで買えてしまう。飲まなきゃ損なのだ。
サン・ペドロというブランドの、モリーナという銘柄の赤がうまかった。少し甘く、味が濃すぎる嫌いがあるが、渋みが味わい深く、また薫り高い。このレベルなら、いつ買っても外れない1本だろう。なんちゃって。
チリに暮らせば、本当に誰でもワインのうまいまずい位は分かるようになる。これは、うまいワインがあって、しかも安いからだ。フランスじゃこうはいくまいと思うのだが。
2000.0512 金曜日
曇り
首都サンティアゴ。地下鉄カトリック大学駅の近くに、チリ大学建築・都市計画学部はある。お昼前、元学部長だったエルウィン・ハラモト先生を訪ねた。JICA事務所のS氏の紹介だ。
名の通り、先生は日系人。ハワイ移民の子として育ったが、生まれは神戸だそうだ。しかし、日本語はしゃべれない。五十台半ばは過ぎておられるようす。
先生は現在、大学の住宅研究所の所長。大学でも教鞭をとっておられ、ゼミも持っている。今日は、建築家としてチリの住宅にかんする権威である先生に、恥ずかしながら自作を見ていただきつつ、途上国における貧困と住宅の問題について、いろいろ教えていただく。
どこにも優秀な人はいるものだと思う。チリを甘く見てはいなかったか。
自分にどのような可能性があるというのだろうか?という、基本的な問い。あきらめの悪さがとりえだったが、まだ全く前が見えない。薄笑いを浮かべて、いつの間にか目を閉じているような状態。自分にできそうにもないことを夢想してもがくことはやめなければ。できることから順に、ひとつづつ拡張するように、着実に。
先生に会って、そういう風に思った。
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ハラモト教授への質問
私達建築家には、いくつかのやるべき重要な仕事がある。そのひとつに、住むべき家やまちを求めながら、それを持たない人に対して、どのような住環境を提供していけるか、設計あるいは創造をするという仕事も含まれると考えている。しかし、その仕事をしていくには多くの困難が伴う。
なぜなら
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建築家は、ある程度の収入が必要だ。
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そのような計画を立ち上げるには、相当の時間が必要になる。普通、貧困の問題はどこか暗く見つけだしにくいところに隠れるように存在するものだ。
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費用や予算を確保し、また計画を遂行していく間、維持するのが難しい。
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予算の不足によって、結局、できあがる住環境が貧しいものになりやすい。
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優秀な建築家は、多く先進国で活動している。彼らの力をより必要としている場所は、途上国あるいは第三世界にある。しかし、途上国には彼らの関心を呼ぶような計画がほとんどない。こういう状況なので、結局のところ、先進国はより美しく変わっていくが、第三世界にはほとんど変化がなく、以前からあった美しいものもその姿が失われる傾向にある。途上国が面積や人口において多数派であることを考えると、これは大きな損失である。
しかし、だからこそ
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第三世界で十分な仕事を遂行できる能力を持った建築家が必要だ。
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経済学には、開発経済学があるように、建築にもそうした新しい分野を作っていく必要はないだろうか。
回答
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>チリにおいては、まとまった研究はそれほどされているとはいえない。建築的な問題は、どこまでも個別のものであって、一般化しにくい。私の研究室では低所得者層向けの住宅にかんする課題を扱っていて、そのなかで、できるだけの建築計画学的なアプローチや研究成果をまとめている。例:各所要室の最低寸法、一定面積の縦横の寸法取りと平面計画の実例など。もちろん、そういった計画的なもの以外の建築的課題も。個別の計画であれば、多数の実例がある。(ただし、ほとんどが都市部に限られるようだ)
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>POLITICA HABITACIONAL(住環境政策)という分野がある。これは政治プログラムのなかで住環境(とくに貧困層向けの)を捉えたもので、こうした問題に取り組むために必要なアプローチだ。建築・都市計画そのものよりも、より根本的で、実際的に重要になるともいえる。
その他の質問
あなた以外にも、上記に述べたような、貧困と建築の問題にかかわっている建築家はいるか?
>開発建築学というような分野はないが、いままで述べたようななかで、多数の教授がそうした仕事を行っている。ここチリ大学にもたくさんいる。
教授の、今までの仕事について教えて頂きたい。
>上記のように、今は主に学生と研究室をやっている。(活動をまとめた冊子を示す)
少なくとも建築行為にかかわるなら、事情に知悉しておかなければならない。つまり、どのような時期に、どのような場所で、どのような事情で、どのような人々に対して仕事をするのか。また法律や補助金等の行政プログラムについても精通するべきだ。前年、私の研究所で行ったセミナーでは、そのあたりについて触れているので、要約の冊子を持っていくといい。
:「社会開発住宅にかんするセミナー、貧困家庭のための選択肢」1999年6月、チリ大学住宅研究所
最初に述べたような仕事をしていける建築家になるためには、基本的な資質の向上が必要だが、それ以外にどのようなことをしていけばいいと思われるか。
>日本では、建築家としてのタイトルをとった人を対象にした、大学の講座はないのか?まさにチリ大学などではそういった開かれたコースを設けて、積極的に活動を行っている。参加を勧める。また、いつでもここへ来ればよろしい。学生との交流も、刺激になるだろう。:今月19日金曜日は研究室のプロジェクトレビューなので、参加してもよい、等
JICAの事業を利用した日本との国際協力による技術協力もよいが、基本は近隣諸国間の協力体制が重要ではないか。例えばLA
RED IBEROAMERICANA (cooperacion iberoamericana、イベロアメリカ協力機構(?))の一部署であるCYTED
(シテッドciencia y tecnologia para el desarrollo、開発のための科学・技術分科会)のように。
イベロアメリカ:中南米スペイン語圏諸国にスペインを加えたもの
>実際、イベロアメリカ間の交流は活発といっていい。それは、上記のCYTED
を介する活動など多方面、多分野に渡る。シンポジウムを開く等してたくさんの専門家が意見交換している。ただし、資金が乏しいため、費用のかかる交通費は悩みの種だ。また、具体的な建築作品に直接結びついた成果があるかというと、そういうものはまだ乏しいと言わざるを得ない。
ほか、たとえば現在CYTEDでは、住宅と都市の開発に関するコンペを行っている。
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2000.0511 木曜日
晴れ
明日、人に会う約束があって、その準備に忙しい。
今日の昼食もカレーライス。
ごっちゃんが来た。手に持った紙袋の中には、プロである彼女の作品になる花のアレンジメント。勤務先の農業学校で調達して作ったとのこと。2軒隣のマガリーおばさんにプレゼントする。チリでも母の日があって、カーネーションなどをプレゼントする習慣がある。日曜に来れないから、今日渡した。主人のラモンさんが帰宅。夫婦して大喜び。花と妻と、そして僕らを入れて写真を撮る夫。
2000.0510 水曜日
快晴
首都の日本大使館にて、在外選挙名簿に登録する手続きをする。国政選挙には、去年から国外でも投票できるようになったもので、来月噂のある(もう決まったのか?)衆院選に向けて、いっちょ登録してやろうと思ったのだ。が、手続きの終了までは2ヶ月ほど必要という。来年は参院選がありますよと担当の方は言うけれど、その頃にはもう帰国してるぞ。ああ。三足ほど遅かったか。ちなみに他の隊員は、正月の安全対策会議のときに済ませている。僕だけ風邪を引いてできなかったのだ。
夜、カレーライスを作る。来週ノガレスを発つパウラの送別会だ。贅沢なほど肉を入れた。ルーは母親が送ってくれたものの残りと、サンティアゴで買ったものを。おいしいと言ってくれた。そりゃまずく作るのが難しいわな。
1年同じ屋根の下で暮らした我々だった。奇跡的に(?)何事も起こらずに来てしまったけれど、さすがに名残惜しい気持ち。ここのところよく来るアンダンテのクラウディオって奴とはどうするんだろう?別れるしかないか。アンダンテとは、付き合ってる相手のことだけど、それはお気軽な間柄であって、ふたりの間には浮気も本気もない。この明確なカテゴリーの存在がおそろしいというか、魅力というか。懐の深いチリである。クラウディオは本気そうだったなあ・・・・
カンパメント
一緒に食べたのは、ほかにアレハンドラとイングリッドの女性ふたり。アレハンドラは、僕がチリに着いた頃、パウラの前任として(だと思う)うちの役所で働いていたし、一緒に住んでいたから顔馴染み。抱えてるプロジェクトの加減で、ときどきうちに来る。
この数日やっていたのが、カレラ市の河原のスラムの実態調査。インタビュー程度だったそうだが、チリ人ソーシャルワーカーであるさしもの彼女たちも、ちょっとびっくりの実態だったらしい。
カレラ市のほぼ真ん中を、東西に横切って行く川がアコンカグア川だ。水量こそ大したことはないが、広大な犀の目河原をえんえん引き連れて流れている。名の通りなら、南北アメリカを通して最高峰であるアコンカグア山に源をたずねられるはずだ。
ノガレスからカレラへ行くと、その川を渡る長い橋がある。渡りきる頃河原沿いに目にするのが、彼女たちが行ったスラムだ。チリではスラムをカンパメントと呼ぶ。キャンプの意だ。以下、彼女たちから聞いた話をまとめる。
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二十歳台半ばで3人4人と子供を産む女性が多く、彼女らの老けようには驚く。もう40を越えているように見える。
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橋の近くはともかく、ここには下水道はもちろん、電気・水道・ガスなどのインフラがない。危険な河原は本来居住地域ではないから、将来とも開発されることはない。
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男性の多くは失業者で、女性も知る限り仕事をしていない。
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アルコール中毒、ドラッグ。若い世代がひどい。
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全部で70世帯はある。ひと世帯3人としても、200人は越える人数だ。カレラ市の人口は5万人台。
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トイレは素堀。確かではないが、カレラ市の飲料水の取水は井戸からで、カンパメントから割と近い。大丈夫か?
状況の説明は、ちょっと聞くだけだしどうやっても暗くなる。ただし、コミュニティのリーダーがゲイであるとか、傷害事件を起こしてもシラを切るのがうまいとか、人間には元気が残っている。
市としては以前住民を移動させたことがあったそうだが、いつの間にか元通りになっていた。
住民はみな流れ者だ。都市流民と言っていいかもしれない。交通の要衝で商業の盛んなカレラにみんな吸い寄せられて来て、そうしてドロップアウトしていった。もう二世、三世が出てきている。
思うに、流れてきて頼るものがなく、しかも漂着に失敗してしまったら、生活していけるのはもう河原のような「余り」の空間しか残っていない。仕事にありついて出ていったものの後には、順番待ちをしていた人が入って来る。綺麗に掃除でもするように立ち退かせたとしても、あとからあとからやって来てははじかれる人達が行くところはどこか。そこしかない。つまり、ここのスラムはドヤ街と同じだ。ただし、彼らが不法占拠(スクワッター)をしているのは、いったん増水すれば流される、危険な場所なのだ。
もしも、このスラムの貧困や惨状を改善しようとしたら、それは果てしなく続く仕事になるだろう。また、もしも住環境を改善したら、かえって危険な環境にがっちり定住させてしまうことになる。つまるところ、どっちにしろ必要なドヤ街は引っ越しをはかり、救急的に貧困対策を練り、市内外の経済・雇用の状態を地道によくしていく。それしかないのではないか。しかしカレラ市にとって、それは無理難題というものだ。
数十年経てば状況もよくなっていくというのは、ただの楽観。チリにいると、それは永遠に変わらないような気になってくる。よくなるとすれば、それはよほどのことだ。その「よほど」が、日本ではできたんだろう。ただし、それは僕らの前の世代によってであって、僕らの世代が保証されているわけではない。
チリにいて、日本の足下が少しだけ見えるようになった気がする。正確に言うと、不確かさに不安を覚えるようになったということだ。
2000.0509 火曜日
晴れ
夜、わが第5州の州都、バルパライソにある国会へ。オミナミ上院議員との会見がある。僕を含めた5州の隊員5名と、JICA事務所や大使館から関係者が招かれた。
これは、カレラの千春さんが最近実らせたプロジェクトで、貧困層の女性を対象にした支援センターが落成を見たので、その活躍ぶりを耳にしたオミナミ氏が協力隊に興味を持ったことによるもの。
チリの首都はサンティアゴなので、以前そこに国会はあった。軍政時代、時の大統領ピノチェトが作ったのが、バルパライソの国会だ。モダンだが、建築的にどうこういう作品ではないと思われる。
議場を含め、館内見学。終えて、美しくゴージャスなオンセ(軽いチリ風の夕食)が用意された一室へ。
チリ人はお高くとまっていることを嫌悪する。オミナミ氏も大変フランクで親切そうだ。地位のある日本人だとこうはいくまいと思うが、トップはこういうものなのかも知れないとも思う。
協力隊について説明したり、仕事について、仕事上の障害についてなど話す。1時間ほどの会見。丁寧な対応と感じた。
オミナミ氏は経済相を勤めたこともあり、この間の大統領選では、勝利に終わった現ラゴス大統領の選挙対策本部長を務めている。中道左派連合「コンセルタシオン」の中心人物のひとりだ。で、実は日系三世である。
祖父、父は軍人だった。二世である父は、しかも空軍の司令官(将軍?)である。まあ、すごいエリートなのだが、それよりもなによりも、チリの、外国人に寛容なところに驚いた。日本にも朝鮮半島系の議員はいる(過去形かも?)が、人種まで違う人っているかな?氏のように三世ともなると、もう日本人の顔とはいえなくなるが。
こうしていわゆる偉い人と会ったりすることは、儀礼や社会勉強の意味はあっても、それ以上のものにはならない。今の仕事に結びつくものになるかというと、どうか?帰国したら、思い出以上ではなかろう。それでも相手の顔を見、手を握り、場の雰囲気というものを感じてくることには、たんに興味を満たすというだけじゃないものがあるはずだと思っている。
2000.0508 月曜日
晴れ
えらく寒い日。夜も冷える。こたつ。こたつが恋しいよ。
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