Diary
日々の記録

 
  

 

Plaza El Melon
メロン広場

協力:ごっちゃん、マガリーおばさん、カティ
緑を作ってくれました。
ありがとう。

2000.0330 木曜日
晴れ
 

 CENMA(せんま)とは、Centro Nacional del Medio Ambiente、つまり国立環境センターのこと。このセンター主催の国際セミナー「ラテンアメリカにおける環境管理」が、サンティアゴで行われた。メキシコ、ペルー、ブラジル、アルゼンチンからも使節や研究者が来ていた。
 当センターは、機材はもとより人材面も含めて、日本のJICAによって大きな援助を受けていて、ラテンアメリカのパネリストに混じって、日本人も多数発表している。日本という国が持っている影響力を知る思いだ。日本からの出席者は、いずれもWHOなどの国際機関で活躍されているか、ないしは国の環境政策にかかわってきた人達。

 会場はCEPAL(せぱる)と呼ばれる、ラテンアメリカ・カリブ経済委員会の本部(?)で行われた。もろインターナショナルスタイルの、なかなかおもしろい建築だった。普段入れない建物だけに、これだけで得した気分。

 同時通訳を介しても、前日1時間しか眠れなかった僕の頭には、発表者の言葉はなかなか入ってこなかった。そもそも環境管理とか環境政策の示す世界のアウトラインさえ、全く捉えていないのだから当然だ。もっとも、世界中で模索中の動きでもあるそうだが。
 CENMAのTさんがお世話下さって参加させていただいたもので、しかし、やはり大変にいい経験になったと感じた。彼も協力隊員に見て欲しかったという。感謝してもしきれない。

 強い印象を残したのは同時通訳の女性2人だった。メキシコ在住の日本の方だった。プログラム終了後、立食パーティの席で親しく話を伺う機会に恵まれた。
 お二人とも日本とメキシコの国際舞台で活躍される、トップの通訳者で、日本の皇室を招いた晩餐会で大統領の通訳をされたり、日本の首相の通訳をされるなどの経験がある。しかし、全く大変に気さくな方たちで驚いてしまった。
 セミナー中、恐ろしく専門的な話題を展開するパネラーの発表はもちろん、その後のランダムな話題の飛び出す質疑応答にも、しっかりした通訳をされていて、語学と扱っている話題の高度さに、全く空恐ろしいような思いがした。才能と、環境。両方が彼女たちをして、こういう能力を発揮する人間に仕立てたということらしい。話していると、どうもそういうことらしかった。

 他にも、協力隊の大先輩で、今や環境政策の実務の第一人者となっているT氏、パーティで腕を振るっていた日本料理店の店主、国家環境委員会の元委員、センターで働く若い研究者や事務員などなど、それはそれは、たくさんの人達と出会った夜だった。

 たくさんの国や地域の人間が、こうして環境という一点に、またチリやラテンアメリカという一点に焦点を結んで、かくもダイナミックに動いている。そういうことを目の当たりにして、僕は頭も胸も一杯にならざるを得なかった。

 僕の職種は、都市計画である。またアーキテクトとして扱ってもらっている。その仕事の持つイメージの広がりを思った。

 明日から3週間、任国外研修旅行。準備はなんとかできている。今日出会った人々の暮らす天地を、じっくり見るいい機会だ。

 しばらく更新できません。あしからず。
 


2000.0329 水曜日
晴れ
 

 午後、ごっちゃんが我が家に来訪。自転車の交換をする。彼女の自転車はでかすぎるし、僕の自転車は少し小さかったから。
 しばし歓談。玉露のお茶を楽しむ。

 夜7時半、vivienda basica、基本住宅とでもいうのか、この数日取り組んできた貧困者住宅の一般図をあげて、市役所を出る。僕が任国外研修旅行で留守をしているあいだ、住宅担当ソーシャルワーカーのクラウディアが統括して、住宅地全体のコストプランニングをする。
 2階建て、というのが吉と出るかどうか。住民達は、どうしても平屋のコートハウス(中庭式の住宅)を好まない。独立住宅にしてもなおかつプランのせせこましさから逃げるには、立体化するしかないように思えた。

 30分で荷造り。あさって31日の旅行に出る前に、明日30日はサンティアゴで国立環境センターのセミナーに出るのだ。一応僕も都市計画の人間だから。
 このセンターは、JICA(国際協力事業団)の強い援助を受けている。ここで働く専門家のTさんが、僕に席を取ってくれたので参加できるのだが、その倍率は2倍を超えるという。

 それにしても、3週間もの南米周遊旅行への準備が、30分でいいのだろうか?とても不安。
 


2000.0328 火曜日
晴れ
 

 2号報告書をやっと終える。やってみると、なんともしょぼいものになっている。3号に期待しよう。これは、任国外後にすぐ書かねばならない。本当なら、12月か1月に書かなければいけなかったのだから。

 夕刻、散髪へ。いつも行くノガレスの店へ。
 珍しくすいていた。混むのは週末だとのこと。
 日本じゃ髪を切ってもらう間、世間話なんてほとんどしなかった。おじさんやおばさんが、床屋でなにやら喋っている様子というのは、子供の頃、大人の世界のやりとりという気がしていた。それを今、僕はチリでやっている。

 夜半、仕事をしながら、剣菱の最後の1合をカニの缶詰で飲む。これでしばらく日本酒とはさようなら。
 


2000.0327 月曜日
晴れ
 

 家から出ることなく、終日貧困者住宅のスケッチなど。

 連日夏のような暑さ。去年はもっと涼しかったと思う。
 


2000.0326 日曜日
晴れ
 

 次の金曜日からは任国外旅行ということで、同期の仲間達と、彼らの任国で会うことになる。工芸品の市で土産物をまとめて買う。
 続いてモールへ。少々買い物。

 生活が乱れているせいか、なんだか頭がぼーっとしたままだ。いや、いつもぼーっとしているのだが、焼き芋屋みたいにあたまから「ぴーっ」と湯気を上げているような気分。
 


2000.0325 土曜日
晴れ
 

 午後、土木・建築系隊員分科会として、第5回となる「土木・建築サロン」を行う。隊員連絡所にて。
 今回は、前回から親しく連絡をとってくれたラミレスさんが講師をして下さる。テーマは「チリの伝統建築」について。
 彼は国立サンティアゴ大学などで講師をする建築家。ふだんは建設コンサルタントや設計者として働いているそうだ。

 コダックのスライドカートリッジのシリンダー4本分の大量の写真を見せてもらった。
 チリは4千キロメートル以上の長さを持つ国だ。北はペルーやボリビアの影響の強い砂漠地帯だし、南部はまだまだ未開の高緯度森林地帯。その環境も人々の伝統や気質も、大きく南北で異なるこの国を、主に建築の目から縦断する。
 合間に、彼の故郷で、チリ中部の良い典型を示したアルウェ村が、1985年の大地震前後でどう変化したかを見た。

 主な内容、というか、印象。

 チリ北部。砂漠と、乾燥した高原地帯。
 内陸の高原は、もろボリビアそのもの。麦藁の山高帽を被った、色鮮やかなスカートの婦人がたくさんいる。いずれの集落も小さく、石や日干し煉瓦、泥でできている。乾燥地帯の風景というのは、どことなく世界中似ているような気がした。これが北アフリカだと言われればそうとも思える。

 同じ北部の海岸沿いの港町。イキケ。かつての硝石の出荷を担って、取引先のイギリスやアメリカの影響が強い。アメリカの木材でできた建築がたくさん。砂漠の港に木造文化というのがおもしろい。

 チリ中部。首都を含む、スペインの影響の強い文化だが、田舎へ行けば、その土地でとれる材料で、それぞれ工夫して建物を造っておりおもしろい。
 tapial(たぴある)と呼ばれる乾燥させた泥の大きなブロックによる工法が目新しかった。その他、日干し煉瓦などは多いが、意外と日本のような木造と土壁という組み合わせも多かった。

 南部。ドイツ系の移民の多い地域。tejuera(てふえら)と呼ばれる木片による鱗壁が多い。とにかくなんでも木造だ。丸太で屋根を葺いたものもあった。

 出席は10人ほど。もう少し多い方がよかったが。

 反省会は、パブでビールを飲みながら。分科会は、結局隊員の役に立つか、とにかく楽しいか、その両方か、でなくてはならない。この辺で活動についてよく考えないと、マンネリ化しそうだ。
 


2000.0324 金曜日
晴れ
 

 市役所の人に言われて気がついた。今日は、先日取材にやって来た地元紙「える・おぶせるばどーる」の発売日だった。毎週火曜と金曜の発刊である。で、僕が設計し、模型を作ったメロンの広場の記事。これが載っていたのだ。

 30ページほどの紙面が、1ページだけノガレスに当てられている。その3分の1位を使って、記事は載せられていた。模型の写真が大きく出ていた。

 何度もいうが、メロン地区には、チリのまちとして欠くことのできないはずの広場がなく、またこの地区は都市基盤の整備が遅れたまま膨張してきたという歴史がある。だから新しい広場には、単に待望の憩いの場を提供するというだけでなく、新しいダウンタウンを誘導し、まち全体を整備していく魁としての意味がある。だからこういう新聞報道は、市民の意識を高めてプロジェクト実現への勢いを固めていくうえで、結構な効果があってありがたいと思う。

 個人的にも、ほとんど実現した計画を持たない人間として、せめて新聞に載せてもらって慰められたなという思いだ。
 親にでも送ってやろうか・・・・。

 夜遅くから、数人でごっちゃんの誕生祝いをする。25日に日付が変わる瞬間を祝おうということで。
 ベリー類がこれでもかというほど載ったケーキを、ワインやお茶で食べた。これで、彼女の祝いをするのは2度目となる。
 自然、同期の他の国で活動している仲間達はどうしているかという話になっていった。
 


2000.03223 木曜日
晴れ
 

 夜遅く、市役所を出る。役所で夜を守るカルロスと少し話した。

 ノガレス市役所は緊急に備えて、夜間も人を受付に置いている。若いカルロスと50近いセルヒオの二人が日替わりで、その役目を負っている。

 カルロスは多分僕と同じ様な年。非常に誠実な印象を受ける。小柄で眼鏡をかけている。今日の彼は、誰もいなくなった受付のこぢんまりしたホールにギターを持ち込んで練習していた。セルヒオだったらテレビをつけていただろう。カルロスのギターは4年目だったかな?、ということで、そう上手でもなかったけれど、なんか満足そうだった。
 いいな。ああいう弾き語りできる和声楽器には、とても憧れる。
 


2000.0322 水曜日
晴れ
 

 貧困者住宅の設計。いいアイデアが浮かばない。時間がない。

 仕方ないから報告書でも書くか。本来赴任6ヶ月目に書くべき2号報告書と呼ばれるものを、今頃書く。不良協力隊員。税金で派遣してもらってるんだから、これくらいやらねば。にわかに反省。

 夜通し報告書に費やした。空が白むまで。また寝坊するだけだな、こりゃ。

 オンセ(軽い夕食)は、久方ぶりにアボガドペーストとパンで。ペーストにはタマネギやニンニクのみじん切りが入っていて、ビールと合う。この日、結局1リットルを飲んだ。
 


2000.0321 火曜日
晴れ
 

 サンティアゴで働くジュキの同僚、エイデルがうちの役所にやって来たのでびっくりした。アニタやカルメンと話していた。挨拶する。どうも、うちの農村観光計画と、関わりを持つことになるらしい。彼女はそういう関係の機関に年間契約で働いているスペイン人である。チリ人ではない。

 エイデルのオレンジの長い髪は、強く波打っており、まるでオレンジ色の羊のようだ。中背で細い癖に、とてもグラマー。スペイン北部の、独立運動で有名なバスク人。都ビルバオの女である。
 その地方の人は、こういう風に喋るのだろうか。とてもエレガントな発音だ。チリ人の発音に慣れた僕には、とくにcやz、sの音が耳につく。野暮ったいような、暖かいような、チリのスペイン語と違って、洗練された響きがある。
 以前からジュキを通じて知り合いだったので、彼女の打ち合わせが終わったら、街で一件だけあるプールバーに行き、ビールを飲んだ。結構喋ったと思う。とても感じのいい、頭の良さそうな子だ。

 バスク地方には、バスクの言葉がある。スペイン語とは全く異なった言葉だという。スペインの内戦後、長く続いたフランコ独裁政権では、喋ることが禁止されていた。そういう悲しい歴史の裏には激しい抵抗もあった。そのせいか、チリ人には、バスクというとすぐにETA(独立派武力集団)のことを言われると言っていた。

 最近ビルバオに、グッゲンハイム美術館の立派な建物ができた。これはアメリカのフランク・O・ゲーリーの作品で、銀の波がたくさん寄せ集まったようなというか、そんな、不思議でもの凄いインパクトのある建築だ。
 僕は、この斬新で巨大な美術館が、ビルバオにフィットするものとして人々に迎えられているのか知りたかった。なにしろ歴史ある街だから。
 彼女の答えは、美術館に好意的なものだった。新しいものと古いものを共生させることについては、ヨーロパ人は手慣れたものを持っている。ビルバオでは、どういうふうか実際に見るまで分からないが、とにかく歓迎されているらしい。もしそれが正しいなら、ゲーリーのもの作りはしっかりと土地を見る目に裏付けられているということになるだろう。バスク人は、そう簡単に新しいと言うだけの薄っぺらな建築を受け入れるとは思えないからだ。
 


2000.0320 月曜日
晴れ
 

 日中、通して全く爽やかな一日。日射しはくっきりとし、風は優しい。半袖が時に涼しく、肌をなでる空気はつややかさを感じる。秋が来る。
 空を見上げたら、いつものように青い空。僕がもし、このノガレスを愛するとしたら、それはこの気候によるものが大きい。いい若い男が、こうしばしば天気の話なぞするのは、全くここの気候の良さのせいだ。

 広場の件がとりあえず落ち着いたものの、次はまた貧困者住宅の設計が待っている。去年の暮れにやったものと同じ敷地に建てるのだが、今度のは少しだけお金がある人達の為の住宅だ。多少の差別化をしないといけないという。予算にはそれほどの差がないのだが、所得などの違いから補助金の出所が違うのだ。それを入居する住民達としては、はっきり表現してもらいたいらしい。私達は「違う」のだと。
 この手の仕事は、チリに来るに当たって最も望んだものではあった。しかし、実際に取り組むとなんと難しいものかと思う。これまでの問題点について、新たに見るべき回答となる設計をする。あるいはそのような概念等を示す。それは本当に難しい。ただ、こちらの人間も僕も、共に現状には不満があって、それだけは確かなのだ。

 先日ごっちゃんのホームステイ先の日本人入植者、加藤さんから納豆を頂いたので、夜、残りわずかな剣菱の肴にした。唸るほどうまかった。大げさじゃない。ただの納豆が、久しぶりに食べる僕にはご馳走になるというだけなのだが、しかしうまかった。
 僕は大阪の人間だが、納豆は好きだ。こういう人も結構いることをご存じだろうか?
 帰国したら、とにかく好きなものを好きなだけ食ってやる。そう決めている僕がいる。何を食うのか?納豆、ラーメン、サンマ・・・。あれ?貧しいんじゃないの?ちょっと。

 2000.0315の日記の歌は、利休のものではなかった。藤原定家の歌だとのこと。あやさん、ご指摘、ご教示ありがとうございました。
 今度は漢字仮名まじりで。
 

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ


 これを書く頃には、もう日は落ちて久しい。明け方を待つ方が近い。今日は満月。
 

から衣うつこゑきけば月きよみまだねぬ人をそらにしるかな
貫之
衣をうつ砧の音が空に響くのが聞こえる。今夜は月が明るいので、まだ眠らずに遠くの人を思う人があるのかと知れた。(川口久雄訳を参考)


 実際の我が家は、表のパンアメリカン・ハイウェーを通るトレーラーの轟音くらいしか耳には入らない。しかし、月の明るさは古今集の時代の日本と、そうは変わるまい。
 



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