Diary
日々の記録

 
  

2000.0109 日曜日
晴れ
 

 サンティアゴの空港でマキちゃんと別れる。今度会うのは、僕がボリヴィアへ行くときになるだろう。
 彼女、僕の実家とは、ふた駅だけ違うご近所さんだった。マキちゃんは、大阪市のディープな地域で保育所の保母として働いてきた。若いけれど、見るものは見てきている。

 マキちゃんのボリヴィアでの活動については、今回それほど聞くことができなかったが、印象に残った点について。
 ボリヴィアでは、保育所や幼稚園は、位置づけからして日本のそれとは大きく違っている。ある種の幼児保育施設は自宅を開放して設けられているが、これは補助金を生活費として当て込む性格が強い。また、預ける方も、提供される食事を最もありがたく思っている。保育、教育施設としての性格はほとんどない。教育というなら、むしろ乳児に栄養源としてコーラを哺乳瓶に入れるような母親たちのほうが問題だとのこと。チリの現状はどうだろうか?良く知らないが、はた目には日本に近いことはできていると思われる。といって、日本で何が行われているか、良く引き合いに出される欧米はどうなのか、僕は何も知らないのだ。
 子を思う親の気持ちというものは、実は大きく見ると地域で差が、相違があるのはここチリにいても分かるし、また他国の協力隊員の報告によっても確かだ。しかし、とにかく幼いうちだけでも、子供たちは幸せの中に埋もれるみたいにして育って欲しいと思う。途上国における極端に苦しい世間では、どんなものも優先権は大人の方にある。だけど、少しでも楽になるようなら、その優先権が子供にも譲られていくようにと願う。

 午後、知り合いのおばさんの誕生日のお祝いへ。ファナさん。愛称でファニータと呼んでいる。54歳になったという。旦那さんも同い年。なんだ、うちの親と同じじゃないか。
 彼女はとある厨房で料理長的な仕事をしている。当然今日の食事もおいしかった。満足。彼女の娘や孫達は海へ遊びに行ったとのこと。会えなくてちょっと残念。
 


2000.0108 土曜日
晴れ
 

 ビーニャからサンティアゴへ、マキちゃんたちと移動。僕は一時別れる。

 隊員連絡所へ。改めて書くと、これは上京時の隊員の宿舎である。なんのことはない、高級マンション。

 次回4月に発刊予定の隊員機関誌。午後は編集委員会議の予定だったが、遅刻。骨子は既に大体決まっていた。申し訳ない。僕はこの間からお手伝いすることになった身である。

 夜。半年の任期延長を終えて、遂に来週帰国してしまうトシコさんのデスペディーダ(送別会)。山と盛られた心づくしの料理、そして酒でお祝いをする。
 トシコさんは僕の任地から1時間半位の海岸の町パプードで、青少年活動という職種で活動していた。主に学校の体育の授業にかかわったと聞いているが、映画祭を開催するなど、バイタリティー溢れる活動ぶりだったようだ。地域の人たちとの交わりも深くて、僕には最もチリの言葉、空気を身につけることができた隊員だったと思える。

 置きみやげとばかり、彼女の自転車をもらえることになった。アルミの赤いマウンテンバイク。やっと自分の自転車が持てる。税金で買ったものなので、僕のものではないけど。

 トシコさんはスポーツをする人らしく、ど、がつくほどさっぱりした人である。率直で元気一杯。僕は手放しで褒めたい。どうか、どこへ行っても太陽みたいなトシコさんであって欲しい。
 


2000.0107 金曜日
晴れ
 

 ビーニャ・デル・マルの広場で待ち合わせ。昨日から来ているはずの同期のボリヴィア隊員マキちゃんと落ち合う。ジュキとは相部屋だった訓練所で同室の仲間。親友みたいなものだ。また、日本から彼女の友人のIさんも来ている。長期でチリやボリヴィアなんかを旅するらしい。

 これで任国外研修旅行の同期隊員をアテンド(世話)するのは、3度目になる。毎度、首都近郊ではビーニャ・デル・マルやバルパライソを案内しているが、案内している方としても、その度この町を知ることができてうれしい。やっぱり一人じゃ来なかったりするし、入る気にならない店もあるし。

 海岸近くのレストランで海鮮料理を。パラグアイと同じく、海のないボリヴィアの隊員にとって、チリは憧れの海の幸のある国である。パイラ・マリーナ(ソパ・デ・マリスコス)は魚介のスープ、セビチェはマリネみたいなもの。その他もろもろのおいしい料理で遅い昼食。

 ペンタブレットのためのアダプターをレストラン近くのコンピュータショップ、セルコで受け取る。この会社こそ、僕のパワーブックを修理預かり中に盗難で失って以来、今まで補償を終えることのできない会社。これで、あとは日本語のシステムの入荷を待つのみとなった。

 バルパライソへ移動して青空美術館を見て歩き、港で風に当たり、海岸列車に乗った。Iさんは日本から着いたばかりで疲れだけでなく時差ボケで辛そうだった。時差ボケって、日本とは時差12時間(夏時間時)もある世界一遠いチリでは、さすがにしんどいものなのだ。加えて今日はバルパライソ、ビーニャに似合わずとても暑い日だった。Iさん、夕食をとりつつ今にも寝入りそうだった。

 一年ぶりのマキちゃん。もっと太っているかと思ったが、かえって少しスリムになったのではと思うくらいだった。相変わらず明るい声の大阪弁で話す。チリでは関西弁を使う女性に出会ったことがほとんどなく、大阪人の僕は久しぶりにリラックスしてお喋りできる気分だった。ま、普段でも大阪弁だけど。

 日記で共通語(あるいは文語体?)を使っているのさえ、もどかしく思うことの多い僕である。日本語を使えない時間は、慣れてきたけれど、僕にはまだ負担だ。  言葉を使う上で本当のカタルシスを得られるのは、べたべたできたない大阪弁(北河内弁?)を使える時だけのように感じる。それには、あと1年待つしかない。

 みんなでホテル泊。
 


2000.0106 木曜日
晴れ
 

 調子が悪くなった昨日。起きてみたら、まあまあ良くなっていた。

 週末など、何らかの用件があって、その日のうちに日誌を付けられないことがある。その日、その時のことを覚えていられるのは、3日のうちが僕には精一杯だ。今日の日誌は11日に書いている。で、手帳を頼りにすると、今日は市長の演説について話し合うはずだったが、来週に延びた。とだけしか書いておらず、何をしたのかよく分からない。
 たしか、レトルトのカレーを、これまたレトルトのご飯にかけて食べたように記憶している。
 


2000.0105 水曜日
晴れ
 

 午前、SECPLAN(企画局)で集まる。2001年度の事業の予算申請に関する説明があった。ひきつづき、みんなが抱える、あるいは暖めているプロジェクトについて話し合う。僕のような外人には難しい事柄だ。ただ、後半はおもしろく聴いた。

 午後、担当する貧困者住宅地では一番新しくかかわった「サンタ・マルタ」の予定地を見に行く。これも、前に訪ねたルネサンス地区と同じく、ポリゴノ地区に張り付く形だ。ただし、サンタ・マルタは傾斜地ではあるがごく緩やかで、まあまあの条件だった。ここもウニオンやルネサンスのように草と灌木が少し生えているだけのステップだった。
 風がとても強い。いつもこうなのか?

 連れていってくれたソーシャルワーカーのクラウディアの車。止めていたら、ホイールのキャップが盗まれていた。遠目に自転車に乗った少年が二人うろついているのは見えていて、彼女も気にしていたが、全く油断も隙もない。あんなもの盗ったって金になんのか?

 下痢気味。どうも風邪みたいだ。就寝前、こうして日記を書いていたら熱っぽくなってきた。やばい。
 


2000.0104 火曜日
晴れ
 

 去年から作りかけのまま、結局やらず仕舞いだった市長へのアンケートを午前中に慌てて完成させ、午後、市長とSECPLAN(企画局)局長のアロンソ二人との会談(?)に望む。これは昨日突然に市長に呼び出されたものだ。

 新しい年に入り、日本から呼んだボランティアの建築家は勤務10ヶ月を過ぎた。そろそろ勝手も分かってきただろうから、彼なりの忌憚のない意見というものを聴いてみよう。話し合ってみよう。そういうことらしい。
 フェルディナン・ガチョン・ヘレス市長は、少なくとも閉塞したような退屈でアイデンティティに欠ける、チリの平凡な農村であるノガレスには飽き足りないようで、僕のような若い奴でもそこそこ成功した日本から来たのだから、なんか新しい、チリ人とは違った視点でものを見、考え、働いてくれるんじゃないか、そんな希望を持っている。で、具体的な政策や事業に反映させたいと思っているようだ。
 恐縮するばかりである。どこの馬の骨かも知れない、この東洋の島国からやって来たお人好しの若造を、なんでまたそんなによく扱ってくれるのやら。

 さあ話せ、話せとしつこい。いきなりそんなこと理路整然と語り出せるほどの度量はないのだけれど、ここですっこんではつまらない。

まちづくり、道の駅

 都市計画、あるいは広義にまちづくりについて。30年程度まで視野を大きくもったまちづくりの具体像と、10年、5年、3年といった単年度のプロジェクトの規範となる中期整備計画なんていうのは、いくら貧しいとはいっても、そろそろチリの農村なら作ってしかるべきではないか。それがないからちぐはぐで思いつきばかりで、行き当たりばったりの整備状況になる。
 豊かで元気のいいノガレスって、どんなのか?どんなプロジェクトをしていきゃいいか?そんなことを突然質問する市長に、やっぱり結果を求めるなら、逆算してその種を蒔かないとだめですよ、と言う。幹のない葉と実だけ付くリンゴじゃなくって、ちゃんと根を持ち、太く立派な幹を持ち、葉を茂らせてこそ甘い実もたくさん生って、みんなも集まろうというものだ。

 まえまえから、ノガレスの中央部を通る、チリ最大の幹線道路国道5号線、別称パン・アメリカン・ハイウェーが、なんら経済利用されていないのが気になっていた。ちょっと枝葉末節に飛んでしまうけれど、具体像を得やすいからここで市長にネタを振っておく。日本でそこそこ定着した「道の駅」を作ってはどうだろうか?田舎へドライブに行くとよく目にする、あのサービスエリアみたいなやつだ。
 「道の駅」は建設省などの日本の省庁が横断的に協力して進めてきた補助金付きの事業で、主要鉄道は通らないけれど、しかし地方幹線道路を持っている田舎の町では有効な事業。終日開放された駐車場とトイレに、地元産品をアピールするレストランや売店、町の歴史や観光にかんする案内所、場合によっては資料館とかホールも備えている。要するに地元のイメージをアピールすること、地域振興の拠点であること、道路利用者の満足度の昂揚をはかること等を期待して作られる施設だ。最近は、これに刺激されて市街地版の「まちの駅」も作られ始めている。
 今ひとつ盛り上がらないフェリア(市)や行方も定まらない工芸品販売拠点の計画、地方農村では非常に重要な地域振興のソフト・ハード両面に渡る事業の策定などに対して、ノガレスにおける「道の駅」は、一定の具体像を結ぶことのできる提案だと思っている。また、運営に当たって多方面の組織や大勢の人々が係わって交流する中で、地域アイデンティティの雰囲気位は醸成できるんじゃないだろうか?
 難点は国が主導しているわけでもないのに、一地方自治体が音頭を上げるほど簡単には資金は集まらないだろうし、となると継続的な支援をすることも困難かも知れないということ。でも、ひとりのドライブ好きの日本人として、ここに道の駅がないのは不自然きわまるとしか言いようがないのだ・・・。

 また話を続けようと言う市長。あんまりええ加減なことを言うのは感心しないけれど、まあいいや。楽しいから好きに提案書をあれこれ作ることにした。
 こういうのは、あんまりまじめすぎるのはよくない。本質を押さえてあって、しかも楽しい幻想をみんなで持ち得ることができるような、そんなイメージ、あるいはマテリアルを、市長は東洋の、成長マジック伝説の国、日本から来た青年ケンから得られたらなあと思っている。それは、甘いですよ、市長。
 とは、言わなかったが。

 いろいろあった一日。忙しく、嬉しい一日だった。一念が大切だ。道を歩いても、声を掛けてくれる顔見知りが多い。早足で手を振り笑顔で「オラ!」と挨拶するのが気持ちよかった。こういうリズムを続けたい。
 


2000.0103 月曜日
晴れ
 

 本日初出勤。誰彼構わず「ふぇりす・あにょ・ぬえぼ〜」と言って、おっさんでも抱き合わないといけない。もちろん、女の子もだから、文句はない。

 ときどき役所にやってくるホルヘさんと話す。彼は4月(ほんとかな?)の市長の演説の原稿を作ることになっていて、先日書いたとおり、僕も一枚噛むことになっている。その辺の話。
 10月に市長選があるので、その2ヶ月前と任命されて公務を始める年末まではフェルディナン市長は市長として働けない状態になるとのこと(多分再選は確実)。その辺、大事だから覚えといてね、とも言っていた。10月は上院議員選挙もあるそうだ。
 彼によると、チリの上院は下院の倍くらいいて、改選されない特別な議員、例えばピノチェト元大統領(終身上院議員)や軍幹部など、それらを除いて日本のように半々の改選をするという。ただ、その改選の対象でない議員は3分の1くらいいるそうだ。

 昨日までいたビーニャ、バルパラと比べ、やっぱりノガレスは暑い。日本よりまし、と言っていたけれど、今日は暑かったな。汗が滲む。もちろんクーラーなんてものはない。無くても、なんとかなるものは普及もしないが、ちょっと暑いなあ。そういえば日本並に冷房の効いたオフィスは、僕が知っているのは唯一、サンティアゴのJICA、国際協力事業団だけである。
 


2000.0102 日曜日
晴れ
 

 パラグアイのふたり、マユミちゃん梅ちゃん、それにチリの同期のみんなでバルパライソへ。
 「地球の歩き方」にも載っている「青空美術館」へ。これは急斜面に迷宮のように入り組んだ街路をそのままギャラリーに見立て、普通の家の壁、擁壁などに描かれた絵を楽しむもの。思いがけず覗く眼下の景観、変化に富む家並み、急坂の上に望む教会の尖塔など、魅力的なシーンが、足を進めるごとに開いていくのがまた楽しい。絵自体は、あんまり大したもんではないんだけども。
 次いでバルパライソ港へ。チリ最大の港を、船に乗って巡る。いい歳をした女性が集まっているだけあって、思い切り値切ったのだった。

 港は他、アントファガスタやサン・アントニオ、タルカウァーノなどを見たことがある。数値的に言えないけれど、神戸や横浜といった巨大な港湾地区を知っているだけに、バルパライソの港でも大きいとは思えないというのが僕の印象だ。それは、都市にしても同じ事で、日本から来た僕にはどの町も小さく見える。この国では10万人を越えればそこそこの都会と見なされている。
 近隣の国でもあんまり変わらない。日本の都市や港湾や、経済やといったことどもは、どうも例外的なスケールなんだなという風な気がする。若干の例外を除いて、世界中の人間の営為は、思ったよりも小さな単位で行われている。

 バルパライソも、ビーニャも、海に冷やされて空気は冷たいくらいだ。日陰では寒い。馬車に乗ってみたのだけれど、僕だけ座れなくて御者席に乗って風に吹かれていると夏とは思えないくらいに涼しかった。

 明日から出勤。まだ三が日も終わってないのに。で、パラグアイのみんなと別れた。
 またな。道中気を付けて。

 今日は、親父の誕生日だった。54歳になった。おめでとう。祝ったるから、日本酒送ってくれ、おとん。どうせワインなんて洒落たもん、いらんやろ?
 


2000.0101 土曜日
朝のうち曇り、晴れ上がる
 

 昨日から今日に代わった。更に今日、年が明けた。日本的には去年は大晦日に一年が締めくくられ、また新たなページをめくるように物語は進んでいくのだが、なんかどうもここにいると夏に浮かされていけない。新年を迎えるといっても、バケーションへ向かう楽しい行事の一つくらいにしか、みんな思っていないような気がする。

 しかしそれでも、やっぱり気持ちは改めたい。
 そういえば、去年と今年は、僕の今後にとって、ちょっと特徴のある時期となることは間違いないのだ。いちにち、いちにちと、出迎え、また見送っていくように、大切に過ごしていきたい。

 ビーチでミニテニスなどして過ごす。
 そのうち頭がのぼせたか、ひとりづつ海へ引きずって放り込み合い。水着のマユミちゃん以外はGパン姿だったりしたのに、そんなこと構うものか。僕らは後先考えない協力隊員。
 寒流のチリの海は、肩まで浸かるのも難しいくらい、足の先が痛くなるくらいに水温が低い。漁業系の隊員によると今で15度前後というが、もっと冷たいんじゃないか?と思ってしまう。でも、でも、折角だからばかになって何度も太平洋の波の中へ突っ込んでいった。服のまま水に入って騒いでいた僕らは、結構目立っていたと思われる。

 あけましておめでとうございます。
 今年、だれもが健康で、そしてよい年となるように。
 


991231 金曜日
晴れ
 

 水産加工のJICA専門家、ミツヒロさんの所へ昨日の仲間でお邪魔する。年越しは彼の豪華コンドミニアムで他の隊員や友人と過ごすつもり。なにしろ12階のテラスからは目の前にビーチを見下ろし、太平洋に沈む夕日を毎日眺めることができる。また南にはビーニャやバルパライソの市街を見渡し、夕日の後は金色に輝く夜景を見渡す素晴らしいところだ。書いてるだけで溜息が出る・・・。こりゃ僕だったら永住してもいいなあ。
 ミツヒロさんは、コロンビアの協力隊OBで、まだ三十台。僕ら隊員とも親しくしてくれていて、大変面倒見のいい兄貴的な存在。尊敬できる人だ。

 ビーチへ出てひとしきり遊んで、同じく同期隊員の桜井さんの料理をみんなで頂く。

 カウントダウンは、もちろんビーチへ出て。バルパライソは毎年チリナンバーワンの花火で新年を祝う。ここビーニャの波の音を聞きつつ、時間を待った。いつの間にやら通りもビーチも人で埋まっていた。
 年明けの瞬間、一層派手な花火が始まった。誰も彼も大騒ぎ。僕らもシャンパンをぶちまけてお祝いする。

 去年を除いてここ数年、ひとりで年越しするパターンが多かった。今年、そんなしんみりさは欠片もない。3年前など、大好きな奥琵琶湖で雪景色の湖面を見つつ年明けを待ったこともあったっけ。周りを見ても、ひとりでキャンプしている奴は誰もいなかった。というか、誰もいなかった。また、もう一度位そういうのもいいかな。でも、年越しじゃなくてもいいな。そりゃさみしいわ。

 きっとよその南米諸国、ラテンアメリカの人々、あるいは同じキリスト教圏のところに比べたら、チリの新年の迎え方はおとなしいだろう。素直に「わーい」と騒いだら、みんないつものように家に帰って、家族や仲間で寄り合ってフィエスタだ。今頃シャンゼリゼはシャンパンの瓶のかけらで埋まっているだろうな・・・。それから・・・、いや、大抵どこもとっくに新年を迎え終えているのか。今頃日本は、きっとどこの道路もひっそりと静まり返って、おせち料理をつついているか、初詣への人手で、これまた「静かに」賑わっているかなんだろうな。

 あ、紅白見たかった。特に西条秀樹がエンリケ・イグレシアスの「バイラモス(踊ろう)」、郷ひろみがリッキー・マーティンの「アッチッチ(じゃなくて、題名を知らない)」をカバーすると聞いていたから。どうでしたでしょうか?
 


991230 木曜日
晴れ
 

 バスにてカレラを経由してビーニャ・デル・マルへ向かう。今日が仕事納めのうちの役所は年が明けて2日まで休み。今日は一足先に休みをもらった。

 ビーニャ・デル・マルは、葡萄農園・の・海、ということであり、海の葡萄園の意。いわれは知らない。古い港町バルパライソに隣接して発達してきた比較的新しいまちだ。ここばかりは、チリらしくないほどお洒落で美しいところである。ちなみにバルパライソとは、天国の谷、を意味している。

 先日やって来たしげやんと同じパラグアイから、またふたりの同期隊員が任国外研修旅行でやってきた。マユミちゃんと梅ちゃんの女性二人。ビーニャで待ち合わせ。
 彼女たちはふたりともすらりとした長身で、結構かっこいいコンビである。それ以上にお喋りの止まらない、姦しいコンビなのだが。まゆみちゃんは体育の先生。梅ちゃんは家政隊員である。しげやんと同じく、海のあるチリで、存分に楽しんでやろうという魂胆。僕は一緒に歩いて楽しむ魂胆だ。年末年始は、ビーチでリゾート!

 梅ちゃんの1年切らずにいた髪の長さが、時間の経過を物語っていた。マユミちゃんも髪をそめたりピアスを開けたり。日本じゃ公立中学の先生だから、ここだけの楽しみなのだ。
 ジュキ、ごっちゃんとともに今日は5人でバスク料理を食べ、ホテルを借りてパラグアイから持ってきたセットでテレレをする。テレレの振る舞い方も堂に入っているふたりだった。さすがはパラグアージャ(パラグアイっ子)。
 


991229 水曜日
晴れ
 

 お昼を食べにエルミニア婆さんの家に向かおうと役所の外へ出たら、なにやら行列が練り歩いている最中。先頭は御輿に載ったヴィルヘン、つまり処女マリア。今日は役所の斜め向かいに新しくできた養老院(というのか?)の開所式のようだ。めずらしく正装した市長も慎妙な面持ちで加わっている。

 夕刻散髪。正月頭になる。いつも長めなので、今回はさっぱりと男らしく短めに。
 


991228 火曜日
晴れ
 

 郵便物の梱包をする。めんどくさいけれど、始めてみると嬉しく楽しい作業だ。
 何かが届くと、本当に嬉しい。そしてこちらから送り届けることは、また更に嬉しい。

 昨日のさだまさしじゃないけれど、その気になれば手紙やメール、プレゼントを送りつける相手を持ち得ていることに、感謝してしまう。

 昨日今日と、仕事らしい仕事はせず。
 


991227 月曜日
晴れ
 

さだまさし

 先週末届いた家族からの包みの中に、さだまさしのCDが入っていた。いわゆるベスト版で、いずれも彼の代表曲ばかり。母親が最近買って気に入ったのだという。今日初めて聴いてみた。おもわず、しみじみさめざめしてしまった。

 さだまさし。フォークは聞いていて嫌いではない、いや結構好きなのだけれど、CDは一枚も持っていなかった。なんかかっこよさそうな音楽ばかり、好んで聴いていたように思う。さだまさしは、その「かっこよさそう」な音楽のなかには入っていなかった。でもなあ、やっぱりいい音楽だなあと思う。

 以前、ある作家のエッセイに、「神田川」にまつわる思い出を書きつづったのがあったのを思い出した。
 小説家になろうと夢を抱いて、勤めを辞めて困窮のどん底にあった頃、どうしても欲しかった本を求めに行った書店で「神田川」を偶然耳にした。店員に曲名を聞き出して、本の代わりにレコードを珍しく買った。実は彼はプレーヤーを持っていなかった。
 何年かして、つまり小説家として成功して後、やっと自分のプレーヤーで聴くことができたそうだ。そして「あなたのやさしさだけが、怖かった・・・」、これは、歌となって初めて人に何かを与える一節だ、と書いている。
 フォークは詩を聴かせる音楽みたいに、僕は思っていたところがあった。しかし、本当はあの曲に乗って歌われているところが大切なところだ。歌は、歌である。

 推敲というものについても、なんか考えてしまった。さだまさしの歌詞カードを見ながら、ちょっと変えた方がいいところがないかどうか見たのだが、無かった。あたりまえか?「防人の歌」などに至っては、シンプルで強い歌であり、どこも動かしようのない完成度だ。(戦争を扱った映画の主題歌だったか?聴きようで、右っぽく聞こえなくもない。でも、ええ歌やなあと思う。)

 さだまさしを異国で聞くと、全く見事に望郷の念に襲われる。それは、日本にいようが故郷を離れ、馴染んだ仲間と離れていれば同じ事だ。
 多く親子や兄弟の絆について、時間軸を追って描く彼の歌。無条件の思いやりとか心配とか、否応ない哀切とか、小難しい理屈の入りどころのないもの、人情としてみんなが共有できるものについて、時間の経過を、ヒストリーをもって表現してみせれば、誰もが持っている、かつて持っていた、いつか持つことになるだろう、それぞれのヒストリーを誰もが想起することになる。
 彼の歌は、聴く人をして、その人自身のもっているヒストリーを引き出して、その人の中に歌を作らせる。彼は、歌の中のヒストリーというよりも、聴く人のもつヒストリーをこそ歌っているとは言えないだろうか。人の心の琴線に触れるとは、そういうことではないか。一つの歌が、数え切れないそれぞれの人の個人的な歌を歌い出す。共感というものの持つ力の、ひとつのかたち。
 



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