Diary
    日々の記録

     
      
     

    991226 日曜日
    晴れ

     年末年始と海岸の砂浜で過ごすつもり。なぜかそういう場所で見かけるのがミニテニス。そう呼ぶのが正しいのかどうかは知らないが、卓球用のラケットを大きくしたようなので、テニスボールを打つ、羽子板のような遊び。昨日閉まっていた店も、ぱらぱらと開いている。で、このゲームのセットを買う。

     連れとちょっと公園で遊んでみた。見ず知らずの小さな男の子が寄ってきた。
    「お兄ちゃん、名前、なんていうの?」「その遊び、見たことない!」「僕もやりたい」
     なかなかボールがラケットに当たらず、代わってもらえなかった。

     結局今年のナビダー、つまりクリスマスはこのまま終わってしまった。これからチリはアニョ・ヌエボ(新年)の準備に入る。年末の行事なんてものはない。年間を総括する機会は、結局無い。ものぐさな僕には、勝れていい習慣・習俗。
     


    991225 土曜日
    晴れ
     

     さすがにクリスマス当日、店は開いていない。わずかにファーストフードや薬局などが開いているくらいだ。2年前、ローマでこの日を迎えたことがあったけれど、さすがはカトリックのお膝元、あそこはあらゆる店が閉まり、昼から地下鉄もバスも止まってしまってびっくりしたが、チリはそこまでやらないようだ。
     午後、歩き回っただけ。クリスマスらしさは、時々見かけるイルミネーション位。全くお祭りとしては盛り上がりがない。要するに家族で過ごす祭事なのだ。大抵の恋人たちも昨日今日ばかりはそれぞれの実家へ戻り、リビングで穏やかな時間を過ごす。夏至の太陽は、夜9時まで明るい。

     夜、暑かったから冷やしうどん。その後ケーキやシャンパンを。
     


    991224 金曜日
    晴れ
     

     朝、隊員連絡所を出て、ノガレスへ向かう。
     しげやんとは、ここでお別れ。彼はこれからチリ南部の氷河を見に行き、その後アルゼンチンを通ってパラグアイへ戻る。今度会えるのは、任期が明けた2001年の正月か、いや同期で集まるつもりの2月の伊豆か。また会う日まで、元気にやっテレレ。

     午後市役所でクリスマスのセレモニー。今日はイブだから、はんどん。同僚に呼び出された。電話。実家の母からだった。全く偶然だが、チリでは家族で過ごすべきこの日に電話をくれた。スペイン語ができないのに、よく僕のことを呼び出せたものだ。家族はみんな元気。近所の孫代わりの「つかさ」君にあげると宣言したチリのプレゼントはまだか?父親の話はそれだけだった。こっちはね、段ボール探すのも一苦労なのよ。もう少しお待ち下さい。
     


    991223 木曜日
    晴れ
     

     小学校、IERノガレス校見学。
     午前、しげやんをノガレスの義務教育の学校であるリセオに連れていく。先生をしている彼に見せたかった。かく言う僕もまだ入ったことさえない。ごっちゃんも一緒。で、すぐ近くのごっちゃんが教えているIER(農村教育センター)ノガレス校にも行ってみる。
     貧しいなりに、ひととおりのものはあるのがチリの学校。教師たちも、結構きちんとしてる。

     しげやんは現在町の7つの小学校の体育を巡回指導している。斜面の校庭、ボール一つ、はちまき一つないところも珍しくない。先生たちの意識は、日本なら考えられないくらい低い。敬意を出来るだけ払ってはいようが、彼曰く「最低」な環境だそうだ。
     例えば算数ではプリントを作れないということで、1日5問板書の問題を解かせておしまいにしたり。1年生を3回4回と落第させることもあるが、これはろくな指導もしないまま試験だけは厳格に行うからだそうだ。コンピュータ室を備えたチリの学校を見て、ため息の出そうなしげやん。しかし、子供は世界中同じで、かわいいことには全く変わりがないという。最終的な希望の担保は、子供にある。

    テレレ

     午後、サンティアゴの隊員連絡所へ。たまたまタイヨーさんがパラグアイから任国外旅行を終えて帰ってきた。さらに、彼、「テレレ」のセットを持ち帰ったという。
     「テレレ」。アルゼンチンを中心に良く飲まれるマテ茶の、アイス版。パラグアイの夏には欠かせない。
     マテ茶ってどう飲むか?
     コップ、しばしば専用のものを使う。ここへ直接、たっぷりとマテの葉を入れる。そこへ金属などで出来たキセル様のストローを突っ込む。熱いお湯を入れ、砂糖を入れ、ストローで飲むのだ。ストローは先端が茶こしになるよう、小さな穴が開けられていて、大抵個人持ち。味は緑茶の渋みを弱くした感じで、日本人にも馴染みやすい。チリではサンティアゴ以南でよく飲まれるようだ。つぎつぎお湯を足して回しのみすることも多い。
     さてテレレ。これは熱いマテ茶のお湯を、単純に水に代え、砂糖を入れないというだけのもの。ちゃんと出る。とっても爽やか。そしてテレレは、絶対に回しのみをするものなのだ。

     しげやんに聞いたパラグアイの習俗の中でおもしろかったのは、やっぱりテレレだ。いつでもどこでも、仕事中でも、授業中でも、テレレは始まってしまう。こだわるのは冷たい氷。どんな田舎にも氷は売られていて、誰もが氷水を入れるプラスチックの魔法瓶を抱えているという。交差点の向こうのおばさんも、そこに止まってるトラックの運転手も、である。
     死ぬほど暑いパラグアイの夏にテレレが無かったら、もう本当にパラグアイは滅びる。それくらい全国テレレだそうである。会議もテレレ。テラスでテレレ。友達とテレレ。恋人ともテレレ。テレレ、テレレ。きっとテレレで世界は平和になるんじゃないか?そんなテレレな夢もテレレになるくらい、テレレはテレレなんだそうである。
     パラグアイの隊員の方々、怒らないでテレレ。

     夕食はテレレで膨れた水っ腹をゆらしてフライデーというレストランへ。気が付いたら近くの席にチリテニス界のスーパースター、マルセロ・リオスが座っている。彼、愛称チノ・リオは、そう遠くないかつて、世界ランキング1位になったことのある現役プレーヤーである。
     帰り際、テニスでは腕に覚えのあるジュキが話しかけてみたものの、相手にしてもらえなかった。僕も世界レベルのプレーヤーの手に触ってみたかったなあ。ああ、テ〜レレ。
     


    991222 水曜日
    曇りのち、時々晴れ

     ごっちゃんとともに、繁やんを連れてビーニャ・デル・マルへ向かう。サンティアゴからはバスで2時間弱。海のないパラグアイへ派遣されている繁やんだから、とにかくチリの海をみせてやりたかった。
     ビーニャ・デル・マルからバスで海岸に沿って北上すると、20分くらいでレニャカの町。ここは大きな砂浜のあるリゾートの集落。海産物の料理を食べて、砂浜に降りる。チリは美人が多いことで名高いが、彼に言わせるとそうでもあらへんな、ということになる。僕もそう思う。もう真夏だけれど、まだ女の子が集まって来るには早いようだ。来月くらいからアルゼンチンのバケーション客が押し寄せてくるらしい。楽しみ。

     海岸回りで地元のローカルバスに乗ってノガレスへ向かう。我が家に繁やんを迎える。
     サンティアゴ、ビーニャ・デル・マルでは、こんな国、協力隊がいるんかいなと連発していた彼、ノガレスへ近づくに連れ、バスの客層が変わってきたのを見て、なんかパラグアイと同じ感じやないか、と安心した様子。農作業で真っ黒な顔、汚れも構わない服装、誰彼構わないようにさえ見えるほど、出会った人同士親しげに挨拶し、談笑する。

    Feo

     夜、しげやんとふたりでカルメンの家へ。我が部局SECPLANのクリスマス会。あらかた終わってしまってた。パラグアイのことをいろいろ聞かれた。なんだかんだとチリは進んだ国ですよとパラグアイを引き合いに褒めてみせる彼だが、カルメンが調子に乗ってパラグアイのことを「feo(フェオ)」と言ったのには、ちょっとかちんときていた。その場で彼女を責めはしないけれど、後で口惜しそうにしていたしげやんである。
     ふぇお、とは「醜い、不快、みっともない」などといったことを指す。

     2年しかない任期。1年を終えて、パラグアイ隊員は誰もが「後1年で帰れる」と言って喜ぶとのこと。厳しい気候、変化に乏しく興味を引く刺激のない自然と社会。任地はあまりに貧しく、改善の難しい現状と戦う隊員たちの苦労は、チリ隊員である僕には想像の世界のことでしかない。経験しなくては理解できまい。そして隊員でさえパラグアイのことを「No quiero(ノーキエロ)」、大阪弁で言えば「もうええわ」と言う。
     それなのに、チリ人に「ふぇお」と言われて腹が立つというのは何だろう?結局のところ彼だって、好きになれないでいようがパラグアイに少なからず帰属しており、そしてあの土地に愛着を持っているということなのだ。僕が前に小説「イル・ポスティーノ」を読んで感じた、あの同じ愛着、帰属意識に、彼は悪口を言われて気付かざるを得なかった。

     僕の家のリビングで、彼の知る限りの同期隊員たちの近況を聞く。まるでこの間卒業したばかりの仲間たちの消息を聞くような気分だ。たくさん改善を要するところがあるといっても、僕はこんな出会いと楽しい時間を持つきっかけをくれた協力隊プログラムには感謝している。また、彼、しげやんその人こそ、そんな出会いを深いものにしてくれた当の本人。彼にはろくにありがとうも言えなかった。日誌の中くらい、感謝してみせたい。
     しげやん、げんきでなによりやったなあ。ちょうしもよさそうやしなあ。ありがとう、がんばってや。
     


    991221 火曜日
    晴れ
     

     サンティアゴの国際空港へは、セントロからバスで30分余り。しげやんを迎えに行く。
     彼とは1年ぶりの再会。この間の日曜に作った歓迎用の横断幕を構えて、同期のジュキ、ごっちゃんと国際線の到着ロビーでボリヴィアのラ・パスから来る飛行機を待った。

     訓練所時代の日記にはSさんとして書いていた彼。今日から「しげやん」でいく。
     長身で真っ黒、でも親父っぽくてとぼけた顔つき。ど、が付くほどのこてこてで人情熱い神戸の小学校の先生。なにやかやと訓練所の仲間の生活を楽しくまとめてくれた良い兄貴だ。パラグアイで随分やせたと聞いていた。腹はへっこんでいたかな。相変わらずだるそうに、のったらくったら歩いてロビーに出てきた。

     Los Adobes de Argomedo(ロス・アドベス・デ・アルゴメド)へ。セントロの外れにあるレストランで、生のバンドとダンスが見られるところ。「地球の歩き方」にも載っているらしい。出し物、料理、サービス、それから値段。どれもなかなかいいな、ここ。

     こんな立派なレストランやら、瀟洒な住宅街のなかの隊員連絡所、地下鉄、身綺麗なひとびと。サンティアゴの一部では当たり前な、こうしたひとつひとつの物事が、田舎の国パラグアイから来た彼には目に付き鼻につくらしい。
    「こんな国、協力隊要るんかいな?」
    「パラグアイの牛肉、まずいねん。ほんま。1年ぶりにうまい牛肉食わしてもろたわ。」
    「あんたら、ほんまええのう。」等々。
    ほとんどひがんでいる。

     パラグアイはアルゼンチン、ブラジルに挟まれた内陸国。夏は死ぬほど暑いそうだ。38度くらいまで上がる気温と、高い湿度。さらに豊かな土壌と雨は、放っておけば何でも実らせてくれるらしい。だからかどうか、ほんとにみんな働かない。夏はみんな昼夜、仕事中構わず、冷たいマテ茶「テレレ」を回し飲みしているという。
     田舎の人同士ではみんな現地語の「グァラニー」を話すそうで、しげやんにはほとんど分からないとのこと。
     大河はあるが、海のない、しかもほぼ全域が平原ということだ。彼がいうからそうなんだろうな、「ほんま、ひまな」国だそうである。

     久しぶりの客人。周りの乗客など構わず、ダンスも見ず、傍若無人にわいわい飲んで話して笑った。お供の赤ワインは定番の「Casillero del Diablo」や「Tarapaca」、「120 Tres Medallas」など。パラグアイでもチリワインはよく飲まれているとのこと。自慢できるものがある国はいいものだ。すまんのう、しげやん。
     


    991220 月曜日
    晴れ
     

     アロンソから、僕の係わった全プロジェクトの状況の質問シートの回答をもらった。大抵のプロジェクトは、予算の出先を得られず足踏みのまま。

     夜、貧困者住宅地計画、サンタ・マルタの住民集会へ行く。自己紹介だけで帰ってきた。
     ここの購入組合はbien organizada、とてもよく組織化されている。毎度の如くとても素朴な人たちの集まりなのだけれど、代表者はあらかじめ数種の図表を作って、それをもとに何かの状況説明を行っていたし、議論や応答も活発だった。
     


    991219 日曜日
    晴れ
     

     パン・アメリカン・ハイウェーをノガレスから南へ行くと、すぐカレラである。そこからさらに南へ辿った町がHijuera(イフエラ)だ。ノガレスのような農村。ここに日本人入植者の加藤さんが住んでいる。

     ペルーやボリヴィア、ブラジルなどと違って日本人移住者の少ないチリにあって、加藤さんはかなり成功した人である。彼の経営する「サクラ農園」では百を数えるひとびとが働いており、主に花の種を生産するほか生花や野菜も作っている。

     今日はごっちゃんの下宿先である彼の家へ、じゅきと共にお邪魔している。来週、任国外研修旅行でパラグアイからやってくる同期の協力隊員Sさんを空港で迎える横断幕を作ろうと集まっている。

     加藤さんがチリへやってきたのは、1956年のことだ。ちょうど二十歳だった。外務省関係のプログラム「海外実習生」制度の第1期生として近くの町La Cruz(ラ・クルス)の日系入植者の農園で勉強して、のちにここへ移ってきたそうである。
     今63歳になった彼には、チリ人の妻と、4人の子供たち、8人の孫がいる。長男の娘、マユミちゃんは、ほとんど人形か天使のようにかわいい5歳の女の子で、彼女とスペイン語でやりとりする加藤さんは、ほんとうに幸せそうだった。

     若い日本の男が来たということで、お酒の好きな加藤さん、僕を邸内のバーカウンターへ招いて、秘蔵のお酒を振る舞って下さった。ご自身は体調のことがあって、あまり飲んではいけないはずなのだが、僕があれこれ質問するものだから杯も進んでしまったようだ。
     東北人である彼、僕のグラスにも迷わずスコッチをロックで入れてしまう。私は氷を入れるのも、ほんとうは好きじゃないんですがね、等と言いながら。

     頂いた酒のうち、やはり自慢されるだけあって格別だったのは、ワイン樽のミニチュアで1年以上寝かせて琥珀色になった特製のピスコ(葡萄で作る焼酎)。70度あるという強烈なもので、グラスに顔を近づけて飲もうとするだけで鼻に香りが浸みてくる。口の中に含むと、瞬時に蒸発するのか、舌触りがない。一気に頬や喉、胃の中へと広がっていく。それが、なんともいえず柔らかでうまい。強いのではなく、まるで体に親和していくような、そんな優しく上品な味わいがあるのだ。
     さらにありがたくも、ひいきにしているという少量生産のビーニャ(葡萄農園)の赤ワインを1本プレゼントして頂いた。ああ、来てよかった。

     南米といえば日系移民の大陸、というひとつの連想をしてしまう僕だ。ちょっとぶしつけな質問だとは思ったけど、聞いてみた。僕など30になってしまったからか、もしも今からここへ残ることになったら、日本恋しさに耐えられるか自信がない。加藤さんやほかの入植者の方は、若かったからできたという側面もあったのではないか?
    「チリはね、第3志望だったんです。コロンビアやアルゼンチンに行きたかった。ブラジルは気候が厳しいですしねえ。」
    「本当はね、もっと南の緑の多いところで畜産をしたかったんですがね、ここに慣れたら動けなかったですよ。チャンスもなかったしねえ。(いくら入植してきた人間でも)私には無理でしたよ。」
    「いやあ、私もね、そりゃ気が狂いそうなくらいに恋しかったですよ。仲間にしたって、半分くらいかなあ、残ったのは。」

     丸く柔和な顔立ちの加藤さんの目は、穏やかで厳しい。風雪というしかない何かがたたえられている。しかし、僕とも実に率直なお話をして下さる。この地で、彼を通して日本人を知ったチリ人は多いだろう。それが、僕には誇らしく、またそんな土台の上に暮らせていることにありがたさを感じている。
     (変な話だが、例えば同じ東洋人でも、中国人と日本人の評価のされ方は大きく違っている。それがどのような事実や偏見や印象に基づくものかは知らないが、実際にそういう面でも僕はありがたく思わないわけにはいかない。)
     


    991218 土曜日
    晴れ
     

     午後に起きる。カレラのネリーさんの家に、アサードに呼ばれている。昨日の夜からろくにものも食わずにいた。たらふく肉を食べ、サラダを食べ、ワインなどを飲む。

     カレラからの帰り道、夜遅くまで夜店が開かれているのを見た。日本のものと、はた目からは全く違いが無い。

     コレクティーボ(路線タクシー)を降りて仰いだ空には、昼から出ていた月が西へ傾いでいた。半月を過ぎ、柔らかく満ちている。静かだ。
     


    991217 金曜日
    晴れ
     

     僕の住む家の表には、チリで最も大きな道路が走っている。ドアを開け、前庭を通り、スチールの門扉を開き、人ひとり分だけのコンクリートの歩道と、未舗装の、車1台通れるばかりの余白のような側道を越える。するとガードレールも無しに、わずかばかりの法面のうえを突然パン・アメリカン・ハイウェーの4車線道路が走っていて、ぱらぱらとではあるが小型大型問わず車を行き交わせている。時折鉱石か何かを積んだ牽引車付きのトレーラーが、家を揺さぶって通り過ぎて行く。

     今の僕には、とりあえず道というと、毎日拝まなくてはどこにも行けない、このパン・アメリカン・ハイウェーのことが頭に浮かぶ。

     そんなことは、あんまり、どうでもいいか。

     生きているということを、いま道を歩いているという風に喩えてみる。そうすると、道の分岐よりも、ほかの道が合流や交差をしてくることがあるということが、僕にはむしろ気になる現象に思われる。
     生きている道は、本当は一本ではない。別の道をも自分は歩いている。そうしていろんな別々の次元をうろうろとしている別々の自分の姿を載せた道が、ある日、なぜか交差したり合流してくるということがある。ある自分が、いつか別れた自分と、交差点で出会う。たまには3本も4本もの道が交わって、ややこしい交差点のようになり、そこでそれぞれ違った来し方を持って共通するところの無いように思われた自分自身というものたちに、いちどきに出会ってしまう時がある。今日は、そんな日だった。

     昨日から何故か手にとって読み始めたのは、水上勉氏の古い小説「越前竹人形」。昼食後も読み、夜感動のもとに読み終えた。この間チリの婦人に差し上げたのは人形ではないが、数日前、日本の母から届いたばかりの福井の竹細工だった。
     生来どこか抜けたところのある僕は、竹人形とタイトルに聞いても、まるでこの間の竹細工を思い出すことができず、小説も半ばになってやっと思い当たった。越前の竹細工には、そのいわれに誰かの運命もまとわりついていた。事実か小説の中の虚構かは知らないが、ついの先日の出来事に魅力的な注釈をもらったようで、それがともあれ僕にはあまりに偶然な、なにか奇遇な出来事に思われたのだった。

     午前、JICA事務所のSさんが、現地のビデオ撮影会社のチリ人スタッフ2人を連れてノガレスへやってきた。JICAのチリにおける活動を紹介するビデオに、僕の活動風景もマテリアルとして加えたいという。
     メロンの教会や、ロデオ競技場であるメディア・ルナを訪ねた。たまたまいたからこれ幸いと連れ出したグラマーなカルメンと一緒に、あれこれ仕事風景風に現場を歩き、撮影してもらう。
     市役所でも、CADで彼女と仕事しているという場面をでっちあげたり、あるいは市長にインタビューをする。
     合間に、Sさんと話す時間があった。彼の来し方を本人から聞いたのは初めてとも言えた。ひとづてに聞くのと、その人の口から語られるものを受け取るのでは、おのずから質も次元も違ったものになる。彼はこの土地の妻があり、彼女との子があり、永住するつもりだが、その彼からチリ大学の建築学部長を務めた日系建築家のことを聞き、紹介していただけることになった。その方は一線は退かれたものの、現在、問題の多い貧困者向けの住宅について仕事をされているという。曲がりなりにも、今後ともどうかやっていきたいとしてきたテーマのひとつである。嬉しさよりも、粛然としてしまう。本気か?と。

     何急ぐ仕事もなかった。午後、急ぎで書くべきだと思い、一つのメールを書く。疲れた。覚悟みたいなものを伴ったが、この先それが長い落ち着きを与えてくれそうな気がする。

     夜、貧困者向け住宅地、ルネサンス地区の、住民集会へ出かける。クラウディアの紹介を受けて挨拶し、拙いなりにひと演説ぶってやった。僕のような日本人には信じがたい位にみなさん人がよく、大過なく終われた。だが、彼らひとりひとりの生活を載せるに足る、そんな家々が本当に作れるのか。確信が必要だ。その確信が無い。
     驚いたことに、参加者の半数は敷地に行ったことが無いという。ほとんど愕然。できるだけ早く行ってみて下さいというのが精一杯。

     夜遅い食事の後「越前竹人形」を読み終え、サイド・キャビネットの上のものを片づけているとき、なにげなく手に取った文庫本は宮本輝のエッセイ集「命の器」。水上氏とはちょっとしたゆかり深い彼だったと思い、何度となく読んだこの小さく荒削りな小品を今日も読む。
    「命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備はってゐるものだ。この思想は宗教的である。」
     小林秀雄の「モオツァルト」の、この一節が数カ所出てくる。観ずる、の、その「観」とは、まさしく宗教的なまでの意義を備えた言葉だが、少なくともこのエッセイ集を書いた頃の宮本氏の文章には、それをよしとする風が読みとれる。

     ここで暮らした時間はわずかに1年であって、僕の陥りがちな感傷を楽しむにはいささか早い。でも、これまで書いた一見ただ単なるエピソードの羅列が、何がどうとは書くわけにいかなくても、どれもが僕にとって大切な繋がりを持って今日のこの日に合流し、交点を結んだのを見て、そのむなしいまでに広い交差点の真ん中でまわりを見渡さずにはいられなかった。
     今日は細々したものの集合だったけれど、そのうち大切な、内的必然を観ずるのを待つような、そんな交差をみることが僕にも起こるだろう。その期待を、どうぞその時の僕が裏切ることのないように。
     


    991216 木曜日
    晴れ
     

     このページの一番下に、二つの左手が上下して置かれている。これは何に見えますか?ミケランジェロの描いたシスティーナ礼拝堂天井画、「アダムの創造」と呼ばれる、あれの、部分拡大ですね。そんなあほな。
     ペンタブレットを買って嬉しかったので、2年近く前、矢印のつもりで自分の左手を見ながら描いたものです。
     最近のものと、過去のもの。全てのページは、結局過去のなかにあるけれど、そんな過去の中の時系列を指し示し、バトンタッチしている。そんなつもりで描いた二つの手。見ようによっては、おつりを渡しているようにも見える?

     修理に出していたパワーブックが盗まれて、新型が代償として手に入ったのはいいけれど、ポートが変更になっていて、ペンタブレットが使えないことになった。アダプターを弁償してくれるはずなのに、3ヶ月経っても来ない。
     急にそんなことを思い出し、こんなことを書いたのは、年賀状の作成が気になってきたからだ。ちょっと遅いかな。

     久しぶりに弁償してくれる業者へ電話すると、同時に入荷を約束していた日本語版OSのCDがうまく動かなかったので、別のを送ってもらっているとのこと。ひと月以上なんの報告もなかった。入荷予定は1月だと。もう次のバージョンがでているというのに。
     アダプターについては、これから探すという。こういう対応はチリでは一般的なのか、実は一般的である。ああ。
     日本の商人はえらいよ。
     


    991215 水曜日
    晴れ
     

     暑いが爽やかな一日。

     昨日打ち合わせた通り、朝からルネサンス地区の住宅地造成予定地を見に行く。クラウディアに購入組合の代表たち2人と共に。

     敷地はノガレス地区から程近いエル・ポリゴノ地区のはずれにあった。中程に小さな谷ケブラーダが貫く、急傾斜地だった。勾配は平均30%くらいあるように見える。歩いてまっすぐ登れる限界を、若干越えるような凄い斜面だ。面積は1ヘクタール余り。ここに家を建てるのか? どう考えても、住宅地向きじゃない。ほかにもっといい土地はいくらでもあるじゃないか?誰が買ったんだ?
    「前の代表者が買ったのよ」
    とクラウディア。いやはや、買い直したほうがいいのでは?

     ここへどう道路を通し、区画を割り振るか。どんな住戸が設計できるか。かーなり特殊になるなあ。ちょっと暗い気分になってしまった。
     


    991214 火曜日
    晴れ
     

     夜、市役所の会議室にて。また別の新しい貧困者向け住宅地の計画があり、ここで僕を紹介して貰う。前にも書いた、Villa Renacer(ビジャ・リナセール)、ルネッサンス町の計画だ。これ、ちょっと変な名前だから、ルネサンス地区ということにする。
     会議には購入組合の代表、アウロラ婦人を含め、3人が来ている。ここはこの間までかかりきりになっていた組合ウニオンの人たちとは違って、素晴らしく素朴だった。お人好しの僕が言うくらいだから、相当なものだ。
     明日、敷地を見に行くことになった。

     先週やっと手に入れたラテン・アメリカ産(メキシコ製)の絵本を訳してみる。粗訳というのか、そういうのはもうしてあるから、今度はそれらしく訳すのだ。人にあげようと思っているので、それなりに気をつかって訳す。コレクターでもなんでもないけど、絵本や童話は好きなので、へたにやっては名が廃る。
     ところが、文字にするとこれが難しい。子供向けなのだし、漢字はごくごく簡単にと思うが、どのくらいの年齢に合わせるのか想定して、使用できる語句や漢字のレベルの線引きをしなくてはならない。それから、この絵本は小学校低学年までの範囲に入るだろうと思っているけれど、仮に幼稚園レベルであれば、ほとんど漢字が出てこないように留意する必要が生じ、ひらがなばかりでは必然的に単語の間にスペースを置かないといけなくなるだろう。単語の切れ目が分からなくなるからだ。
     言い回しだって、それこそ幅がある。やってみるとおもしろいものだ。きっと子供を持って、枕元でお話をしてあげたり本を読んでやるようになれば、それなりに簡単なのだろうが、今の僕ではなんだか「ごっこ」そのものだ。
     絵本のタイトルは「マルティンの山羊」。山羊って、子供は読めないな。内容についてはここには書かない。ただ、日本的ではないお話かと思っている、とそれだけ書いておく。
     


    991213 月曜日
    晴れ
     

     午前、サンティアゴの国立図書館へ。雑誌を閲覧。眠くなる。

     真昼のノガレスへのバス。暑くて暑くて。ちなみに今日のサンティアゴ近郊の気温は、大体最高30度、最低14度。夜で湿度40%。乾燥している方だが、真新しいバスは毎度空調が無く、天井に3つほど付けられた換気用のハッチを開けているだけ。強い日射しの中乗っているのは辛い。

     そういえば、僕が今一緒に住んでいるのは女の子3人だけ。僕と同じく市役所で働いているパウラと、3ヶ月だけインターンで来ている看護実習生のフェルナンダとエステルだ。あと2人来るはずだったが、実習先のうちの市の診療所には通える範囲に住んでいるということで、来ないことになった。

     で、フェルナンダに昨日の大統領選挙に行ったか聞いた。
    「行ったわよ。でも、グラディスは全然だったわ。」
    「グラディスって、共産党の?」
    「そうよ。」
    「結局ラゴスとラビン、どっちが大統領になるのかな?」
    「ラゴスでしょうね。そのほうがいいわ。ラビンは右だもん。」
     僕も個人的にはラゴスの方がいいんじゃないかと思っている。とりあえず安定しているチリ経済なので、今しばらくは保守である中道左派に政権を持って貰っているのがいい。ラビンはその後でもいいのではないか?

     ラゴスの選挙中のキャッチフレーズは「Crecer con Igualidad」、つまり「平等なる発展」である。
     ピノチェトは軍政をもって、疲弊したチリ経済を力ずくで立て直した。民政移管後の連合政権コンセルタシオンのエイルウィン、フレイ両大統領は貧困者の生活レベルを引き上げることに尽力した。例えば義務教育の機会均等をほぼ実現しつつあるのは、ひとつの成果である。底辺の掬い上げから、現在はさらに上へ目標を移しつつある時期のようだ。そこへラゴスは「平等」を説く。
     ラビンのキャッチフレーズは「Viva! El Cambio」だった。「さあ、改革だ!」といったところか。「平等に・・・?もたもたしてる場合じゃない」といった風に聞こえなくもない。ゆっくりとした改善は、ほとんど停滞としか感じられないのもまた事実。ラビンには現政権に飽き足らない、さらなる成長を要求する声が集まったのだろう。

     僕は政治に特に関心を持っている方ではないが、例えば選挙の投票は一度も欠かしたことはないし、不在者投票にも行ったことがある。それくらいの意識だけは持っている。持っている株の会社の経営に無関心な株主みたいにはなりたくないからだ。

     外国の選挙戦を眺めていて思ったのは、日本も首相を公選制にできないかなということだ。そして政治屋さんと呼ばれようが、それはプロフェッョンとして誇りを持って貰って、政治家には困難でも公人にふさわしい、潔癖なまでの高潔さを求められるべきじゃないかということだ。なぜなら、さもなくば人々には、自分の所属している世の中というものが、不透明で健康的でない、どろどろしたもので、それゆえ政治などは自分の関わり難く、係わりたくもない世界として感じられてしまうだろう。危ないのは、不潔や不透明を嫌悪する心理を無関心を煽るために利用しつつ、株主や社員に背信を続ける経営者のような政治家が往々にしてのさばってしまうことだ。こういうのは必要悪じゃない。病気みたいなもので、あくまでも否定し、追い出すべきだと思っている。
     だとすると、少なくとも僕らは正直に政治的課題を言う人間を疎ましく思わず、歓迎しなくてはならない。問題を表沙汰にせず、内輪で決着をつけることを不透明というのだ。患者や家族ががびっくりするからと病名も治療方針も告げずに処置をし、金を請求する医者が悪人とされるのなら、政治も経営も同じだろうに。だったら、説明と治療を受ける方も、それなりの勇気と理解力がなければならない。また、医者には説得力が必要だ。
     実際のところ、これが難しいのだろう。直面している不定形で複雑で重篤な状況の説明が、耳障りが良く理解しやすい場合は、まずない。よほど優秀な人やシステムでないと大衆の不興をかってしまうし、意見をまとめることもことも困難だろう。この辺で、大衆(ひとりひとり)には賢さが問われ、政治家には優秀さと人を惹きつける何か大切なものが必要となる。

     大変当たり前な話だと思うのだけれど、日本は全く逆ではないか?
     なので、せめてチリ並に、偽善者かというくらい潔癖な政治家のイメージの標準化と、リーダー中のリーダーである首相の公選で政治的な興味の牽引くらいやってもいいのでは?と思った次第。
     ただし、潔癖なリーダーの出現を待たずに首相公選制を導入するのは余計にまずいと思っている。不潔なリーダーを選ばなくてはならなくなれば、もう政治はその中心から本質的に悪だということになってしまうからだ。今は魑魅魍魎の割拠する国会で勝手に決めているという風に考える逃げ方があるが、公選制だとそうはいかない。だから、日本の場合、まだまだ導入できないことになってしまう。あれ?

     妹の手紙によると、今日本では「カリスマ」という言葉が大流行とか。衆愚でない限り、カリスマ、どんどん出てこいと思うんだよな。
     



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