
990513 木曜日
曇り
午前、診療所の資料を読む。
午後、昨日行かず終いになったカレラの見本市会場へ行く。
なんだ、乾草なんか使って、可愛く出来てるじゃないか。どうも、僕はアドバイスだけしてやればよかったみたい。
見本市はノガレスやカレラを含むQuillota(キジョータ)県の自治体や企業の合同によるもので、会場設営など、なかなか綺麗に出来ていた。こういうことを請け負うイベント会社が、ちゃんとあるんだろう。今年が初回。
夜、またカレラへ。いつも仲良くしてもらってるおばさんの誕生日。プレゼントを持参していく。Mからもらった日本の鞠。彼のお婆さんの手作りの鞠。赤と白の、可愛く綺麗なその鞠は、とても喜んでもらえた。ほんとはアントファガスタでのホームステイで世話になったジャジャにあげたかったが、まあいい。
このおばさんは、ネリ−という。アルゼンチン人。息子と娘が一緒に住んでいる。娘のモニカは家で魚の目やタコの治療士(!)をしてて、今は独り身になってしまったが、ふたりの子供がいる。
ネリ−さんには、多分このチリでの生活が続く間、ずっと世話になりつづけるだろうと思う。何歳になったんだっけ?60位だと思うが。激しく、強い意志のある、とても強い女性だ。多分、どんな困難も、彼女をへこたれさせることは出来ないに違いない。彼女に会うと、元気が出る。
アルゼンチン仕込みのアサードと、世界一のチリワインで祝う。
帰宅後、元気が出たついでに、Kの両親宛に手紙を書いた。
Kには何も言えないが、彼には言葉に尽くせぬ恩義を感じているので、せめて親に一言言いたかった。
990512 水曜日
晴れ
五月、地球が丸いばっかりに・・・・
かなたの春が、こなたの秋であるということ。
この土地の秋の、やさしくかわいた冷たい空気の中で、かなたの春を思うと、それはみずみずしいまま結晶していく。
五月、あの美しい春の生まれであるということを、時には支えとしてきたが、こっちじゃ秋の生まれだった・・・・
いつかこうしよう。
もしも、ふたたび過ごすかなたの春に、僕や僕らの舟が淀みの中で身動きできなくなってしまったら、この秋生まれて結晶しているものたちを、みずみずしく暖かな春に解かしこんで、解放してみることだ。
晴れとはいえ、春なら花曇りとでもいいたい天気。
今日から隣のカレラ市で見本市があるとかで、ノガレスの産品が役所内に若干運ばれてきた。焼き物や椅子等の木工品、さらに装飾用の胡桃等。ほかノガレスを点描する写真。
この日は市の開発基本計画の会議に出るようにいわれていたのだが、ギジェルモが、この見本市の飾り付けのアドバイスに行けというので予定を変更した。で、午前中は嘘でもいいから2案ほどスケッチを作った。
しかし、どういう主旨の見本市か、今日開催されるのに、今日から飾り付けでいいのか、準備はどこまで進んでいるのか、これから必要な物を揃えるつもりか、等の疑問には誰も答えない。分からないことを、チリ人は正直に答えないことが多い。唯一分かっているのは、もうひとり、飾り付けには婦人がやって来るということだけ。
結局、この日は会場に行くことがなかった。段取りという概念が無いのか?いつも、なんとなく話が持ち上がり、なんとなく動き出している。言葉の問題だけではないぞ、これ。
今日も昼食では、面白いことがあった。
今日は公共事業課長のアニタと同席した。彼女は50歳くらいの女性。一見上品そうなおばさんだ。彼女の発言。
ケン、中国と日本は戦後50年が経ってくっついたでしょう?それで経済が混乱してて大変なのよね?
??????。
何度も、中国と日本がくっついた?そう言ってるの?と、聞いてみる。果ては彼女、中国と日本は昔一つの国だったんでしょ?と言う始末。
更に確認すると、ねえ、ケンは私の言葉が分かってないわよ、と隣の人に言っている。
結局、それは香港の話で、日本は2千年もの歴史のある、中国とは違う独立した文化のある国だということを、なんとか納得してもらった。彼女のような、社会的な立場のある人間がこれでは、日本人でもなんでも、チノ(中国人)と呼ばれるはずだ。白人を見ればアメリカ人だと思う式の反応。日本人だって、そう変わらないが。
ひょっとしてチリの人は、コレアーノもハポネも元は全部中国だったと思っているのかも知れない。で、時々僕は彼等にこういうことがある。中国は日本の親で、コレアは兄だ、と。でも、どんな国も、移民で出来たと思っている人の多いこの国の人は、数千年にわたるような、この家族関係を想像することができるだろうか?
まあ、僕がこうしてここにいるからには、細かい話もちゃんとするべきだろう。が、一方で、狭くなったと言われるこの地球でも、地球の裏側の事は全然分かってないんだ。まだまだ、世界が均一化することはない。そういうことが分かった。
990511 火曜日
火曜日
トシユキさんからfaxが届いた。先週送った土建分科会の準備会合の議事録の補足などについて。午前はこれに基づいて議事録の書き換え。コンピューターもワープロも無いから、もちろん手書き。そして午後、電話で打ち合わせる。
この迅速な対応を見よ。暇だから出来ること。
分科会はとにかく、一回目を終わらせることだ。
我が上司ギジェルモ企画調整局長によると、来週提案書が出そろうはずのメロン地区地域一般診療所の件だが、20近くの入札参加があって、僕とベルナルドでそれを選ばなくてはならない。彼としては結構心配らしく、資料をよく見て勉強しておいてくれ、と念を押されてしまう。良く見てるのかな、資料を読むのは辛くて。
帰宅後、近所の日本語が話せるカタリナの頼まれ仕事をする。彼女の兄のトン(クラウディオ)のあのワープロを預かって、彼女が書いた日本語原稿を修正しつつ、入力してあげる。漢字を扱うのが難しいのだ。交換留学生としてチリにやってきた日本の高校生向けの、手作りの生活マニュアル。
結構なボリュームで疲れる。ときどき意味不明のフレーズにでくわす度、意図を推理して書く。これでも僕のスペイン語よりはましか。
このところテレビのニュースを騒がせているのは、政府と先住民族のマプチェの間の小競り合いだ。
マプチェは南部の水の豊かな地域に多く住んでいるインディヘナで、ペルーを中心としたインカとは違う、独自の歴史と文化を持っている。現在では、実際はサンティアゴ近郊の方が人口が多いとも聞く。ピサロによって大インカは征服されてしまったが、勇猛なマプチェは現在に至るまで一度も外国からの侵略に屈して隷属したことがない。
和睦によって、今では平和に暮らしているマプチェだが、なにかと問題は起こってきた。ここへ来て持ち上がったのがダム建設にかかる用地の問題だ。既に事業はスタートしている。聞き取りに間違いがなければ、そこは彼等の聖地だという。テロやゲリラ等の手荒なことはしないけれど、連日、激しい抵抗運動が続いている。
日本のアイヌに似ているか。アイヌの聖地も、ダムの底に沈んでしまった。いや、まだ完成していなかったか?こころなし、その民族衣装も似ている。
これは利権の問題じゃない。尊厳の問題だ。しかし、また一方でダムの建設は安全や利便にとって不可欠であるのかも知れない。確かに治山治水に関していうと、明らかに日本よりは遅れている。
もうひとつ。
昼食をとっているエルミニアばあさんの家に、珍しく客が多かった。この家の奥さんの勤めている(いた?)会社の関係の人たちだが、そのうちのひとりのチリ人男性から、日本語で話し掛けられて驚いた。彼はサンティアゴのオフィスから来ているISO9000などの品質管理や改善についての技術者で、日本へ研修に行った18年前に知り合った奥さんと暮らしている。もちろん日本人女性だ。研修自体は1年だったけれど、さすがに日本語がうまい。かなり高度ないいまわしができる。とても自然だ。研修は大阪で受けていたという。僕の出身地やないの。世界は狭いのか?
990510 月曜日
晴れ
午前中、仕事もそこそこに日記を書いた。
そう言えば停電だが、先週の金曜日に1時間あったきりなくなった。また来週から始まるという噂だが。
午後、身辺の整理をするなどしたら終わってしまう。
夜、今週もカレラの友人のところへ。いつもながら自分の語学力にはほとほと呆れる。特に語彙が決定的に足りない。少々落ち込んだ。
帰宅11時。ほどなくしてPaula(パウラ)が帰って来た。彼女が今日からの同居人だ。もちろんシェアするわけではない。この家は市役所が借り上げている、僕らボランティアの為の、無料の家だからだ。
Paula Andrea Fuente Fuente(パウラ・フエンテ・フエンテ)、24歳のSociologa(社会学者)、まあコミュニティー・ワーカーってところ?日本人の僕には、とても落ち着いて見える。なかなか明晰そうな感じで、端正な顔立。第三州の砂漠の中の街で生まれ育って、州都のLa
Serena(ラ・セレナ)に移り大学までを過ごした。大学は南部のネルーダゆかりのテムコで学んだと言う。テムコには6、7年いたらしい。ノガレスには市役所の市民課で働くボランティアとして来た。彼女もチリ自慢の国内向け協力隊、セルビシオ・パイ−スのひとり。
今度旅行に行こうと思っているラ・セレナの周辺情報を聞いたりして過ごす。
一緒に住むには、なかなかいい感じだ。つんとした冷たい感じもなく、べたべたしたものもなく、親切で安定した雰囲気がある。しかし、外人の男とひとつ屋根の下なんて、恐くないのかな。日本じゃ考えられないが。
990509 日曜日
快晴
今日も正午起床。
昼食。御飯、味噌汁、卵焼き。
この間掃除してもらってきれいになった裏のパティオで、椅子にもたれて休む。足も無いことだし。
暇にかまけて本を音読。喉の調子はまだもうひとつ。風邪にしては喉だけが痛くて、声がおかしい。変な病気じゃなければいいが、なんて心配症になるのは、やっぱり外国で暮らしてるからか。
午睡。
夕食は夜半。肉じゃが様のものを作って食べる。日曜は酒屋が早くしまってしまうのを忘れてた。残念。酒なし。
990508 土曜日
曇り
昼に起きる。
来週が明けて月曜日、我が家の新しい住人になるPaula(パウラ)がやってくる。その前に寝室をきちんと移しておかないといけない。役にたつわけでないたくさんの専門書と、これまた何の役にもたたない大量の読み物を移す。奥のフリースペースで埃を被っていた、プラスチックの棚に気が付いたので、これを使う。
取りあえずかっこだけつけて、もとの部屋はそのままにする。あとだ。
シーツの手洗い。絞るのも手だから、大きいシーツはいい加減手が痛い。リビングの掃き掃除も。
夜、友人が来る。一緒にシーフードカレーを作る。今度は生ではない。缶詰。問題なし。大量に作ってしまったはずなのに、平らげてしまった。
990507 金曜日
晴れ
チリの秋空は雲が出る。夏には快晴続きだったが。
スペイン語でイジャペル視察の報告書を書いて、ギジェルモ局長に提出したのは、もう夕方になった頃だった。草稿はいつものようにマキシモに訂正してもらう。思うにシンプルな表現のほうがいい結果になるようだ。こねくりまわした表現は、日本語だっておかしなことになりやすいからなあ。ジンバブエへ行ったY田の語学担当講師の指導もそうだったという。
この報告書は、うちの部局に1台だけあるMacで書いた。他がうまっていたからだが、このMac、白黒のクラシックなのだ。なんともかわいい。ワープロのWordは5.1。アメリカのピースコーが入れていったソフトのようだ。
彼はジョンといったらしい。僕は彼に恥ずかしくない働きができるだろうか?
夕食。玉ねぎとチョリソという、こっちの腸詰めを入れた、これまたペペロンチーノを作り、さらに玉ねぎとニンニクのスープを添える。どうも喉がおかしいままで寒気がする。風邪が長い。
現代の詩人シリーズ
中央公論社に「現代の詩人」というハードカバーのシリーズがあり、戦後の代表的な(ポピュラーな)詩人ばかり12人を選んで編んだコンパクトな全集となっている。
文学少年でもなんでもないが、高校生の頃、それなりに多感な時期を僕なりに消化しようとしたものか、若干センチメンタルな趣味だけど短めの詩ばかり好んで読んだものだった。
このシリーズは安野光雅が装丁しており、カバーをつけない表紙のクリーム色そのままを見せて手にとった感じも美しかったし、ページをめくれば「鑑賞」と称して、本文の下に緑のインクで解説を載せていた。各巻とも、それぞれの詩人に馴染みやゆかりのある人によってそれは執筆されていて、作品そのものの他に、その鑑賞も楽しむことが出来たから、詩人の作風の違いだけでなく、鑑賞との間のやりとりのようなものも、それぞれの本で違っていて楽しかった。
協力隊の訓練所時代、情報収集日で歩いた神田の古書店で思いがけず見つけて買った(981119)、全巻揃えで5千円のこのシリーズ。責任編集は大岡信と谷川俊太郎だけど、詩編を実際に選んでいるのは鑑賞者である。
戦後という呼び方をされる時代。そんな時代があった。来世紀を間近にひかえて、過去形でそういってみることは、勇気のいることだろうか。確かに戦前から戦後、そして現在もなお積み残し先延ばしにし、あるいは放置されたり無残に忘れられた問題は多いが、でも、これらの「古典」となった戦後詩の詩編を眺めつつ、戦後と一般に呼ばれる時代も、これら古典作品の背景としてまた、過去のものとなってしまっているように思われる。現在というものをはかるための、影としての過去。
突然、変なことを書いた。
さらに、自由に書く。
チリには7冊ばかりを持ってきた。あのころ、気に入った作品は少年がよくするように、ノートに書き写したものだ。今でもそれが残っている。15年近く経って、現在の僕なら何を取り上げ、何を捨てるか。青い青い僕でさえ、あの頃と何が変わったかを確かめることができる。あの頃好きだった黒田三郎や川崎洋、飯島耕一の、いずれも平易で演歌的とさえいえる叙情は、やっぱり今でもいいなと思う。好みは変わっていなかった。
彼等の作品には、ようするにそんな味があると思っているのだが、だからというか、自然、恋愛だとか性愛についてのものが結構多いし、優れたものがある。扱う題材が同じ、こういうものであっても、黒田はどこか無頼だし、川崎はどこまでも優しい。飯島は率直で「青春」してるなあ、と思わせる。もし感傷を滲ませることがあっても、彼等は恥じることが無い。僕はそんなところが好きだ。
高校生の僕は、彼等の詩を憧れの目で見、そして読んだ。未だ不定形とはいえ、今僕は幾らかの実感や共感と言ってもいい感覚でもって、これらの作品に触れることができる。さらにこれから20年もすれば、全集の中のいずれの作品も経験の中に相対化されたものになっていくのかな、と思う。いつの間にか彼等が作品を書いた年代に追い付き、追い越しする中で、作家の「個」と時代の間、「個」の辿る成長やら堕落やら跳躍の軌跡を、自分と相対化させてみる。そうして見つける、追い付いたものが最初に感じるそんな若い喜び。そのうちそんなことも自明のものとして、演歌みたいに楽しめるようになるだろうか。憧れによるものとも、到達によるものとも違ったさらに先にある喜び。
きっといつか日常として獲得されていく生活のリズムが、それに気付かせずにはおかないはずだ。ここにある、今は老人となり、あるいは故人となった人達の作品には、いずれも初めに憧れがあり、次にせめぎあうような叫びがあるが、そういうものが影をひそめてアーチを描き、虹のようにまた下降線を描きつつ生を完結させようとするときにも、それでもなお歌おうとする姿がある。
どの世代の歌により価値があるか、ということは比べても仕方あるまい。彼等でさえ、必死でそのときそのときを歌ってきたのだ。
人は歌うもんだ、というのが、これら全集全12巻の背表紙の厚さが語るものの、最大のものだろうか。
いや、俺もなんか分かってきたで。やっぱり最後は演歌かいな・・・・。
990506 木曜日
晴れ
日本の黄金週間も終ったか。こちら胡桃市ことノガレス市。今日は昨日や一昨日ほどの冷えは無い。
仕事が切れたのでこれ幸いとサボリまくり、日がないちにち、手紙を書いて過ごした。親、妹への礼状兼近況報告、M、Kへの手紙を書く。
僕は文字を書くだけならかなり早い方なのだが、その分なかなかに素晴らしい乱筆ぶりで、読めるように全部書き直さないといけなかった。親当てには、今回初めてこちらの写真を入れておいた。
受付の気のいいおじさん、ルーチョ(ルイス)にAutoCadのマニュアルの全文コピーを頼んだ。めんどくさい仕事だし、端が切れないようにきちんとやってくれるか心配だ。
帰宅後、カタリナの家へワープロを返しに行ったらオンセに呼ばれた。軽い夕食のこと。ラッキーである。ひとしきり喋って帰る。これでも赴任当初よりは聞き取りも喋りも少しは進歩したように感じた。
990505 水曜日
晴れ
朝のうち、靄がでて非常に冷えた。
午前、メロン地区の地域一般診療所の現場説明会。入札に参加する業者を集めて車で繰り出した。みんなで顔を合わせてしまって、談合されないだろうか?
午後、イジャペルでの議事録を仕上げて向こうにfax。
夜、今日も客。カレラの千春さん。友人の為に日本語で文書を印刷してあげたいというのだが、彼女の環境は、なんと全て英語やスペイン語なので、日本語を扱いさえしていないという。さすがは語学で名を聞かせるだけはあるなあ。で、2軒隣のカタリナの家からワープロを借りているからそれを使う。
で、今日もついでにコシヒカリで食事会。ネコ飯に近いけど、なつかしくておいしいんだよなあ。
今日は早めに寝てしまうことにした。
990504 火曜日
晴れ、雲多し
朝遅くサンティアゴを発つ。ノガレスに戻ったのはちょうど昼食の時間だった。久しぶりの地元での勤務。Tanto tiempo!(ひさしぶり!)の連発だ。
取りあえず急ぎの仕事は無いから、イジャペルへの視察の報告書を書く。JICA向け。土木・建築系隊員分科会の話をしに行ったのだし、あとあと公費を出してもらえる組織にしていくなら、これくらいはせんと。
昼下がり、客人。ジュキである。先週末に会ったばかりだが、こんな田舎までどうしたんだ?びっくりした。彼女の勤務先は農村教育センターの本部。今日は、管轄の学校を幾つか視察に行った帰りとのこと。ついでに僕宛の郵便物を持ってきてくれた。
わがノガレスにも農村教育センターの学校がある。で、そこで働くごっちゃんのところへも届けに行くとか。僕もついていくことにした。
ここは女子校だ。高校生に当たる、もう最高にきゃぴきゃぴした年代の生徒達が、基本的には寮生活をおくっている。図書館でごっちゃんを待つ間、かしましい声に囲まれて、ジュキと数人の生徒でドミノを教えてもらったりして過ごした。明るい声に包まれながらの活動は、ごっちゃんに、どんな楽しいものをもたらしているだろう?
夜、ついでだからうちで3人して食事した。日本の米を炊いて。ごっちゃんは、涙を流さんばかりだ。おかずなしで、狂喜する彼女。
9時から11時までの停電。ろうそくを囲んで、おしゃべり。
990503 月曜日
曇り
サンティアゴは午前中停電。予定していたパワーブックの修理出しは午後にした。その間、桜井さんのパソコンのネットへの接続環境を整える作業をする。いろいろ聞くこともあるだろうということで、彼女も特別に休みをとってきた。ほんとはよくないけど、チリへ来てから5ヶ月を過ぎて、まだ接続出来ていなかったんだから、その気持ちは良く分かる。
今度の業者はSERCO(セルコ)という。メトロのPedro de Valdivia(ペドロ・デ・バルディビア)近くの、小さなところだ。
帰りに桜井さんから、午前中のお礼代わりにと食事をおごってもらう。セルコの近くにあるFone
Box Pub。エントランスが電話ボックスになっている。落ち着いた大人のパブ。綺麗な古書店や工芸品店が取り囲むパティオの一角にある。桜井さん、珍しく酔っていた。
990502 日曜日
晴れ
午前中出かけた。某所で寸劇をするはめになった。喝采を頂く。
午後、スーパーに寄ってビールを買う。隊員連絡所に戻って、桜井さんの持ってきた横浜のシュウマイで飲む。ああ、うまい。
昨日ほとんど寝ていなかったので、今日は眠い眠い。晩御飯まで寝た。ひと眠りしたら、出なかった声が少しはましになった。
990501 土曜日
晴れ
珍しく午前中に起きた。
ジュキの家へ行く。よほど器用でないと泥棒が入れないと見たのか、彼女の部屋の窓にはカギが無い。で、取り付ける事に。ひとしきりたらたらしてから、二人でアルト・ラス・コンデスへ。大きなショッピング・モール。
今日はメーデー。エル・ディア・デ・トラバハドーレスである。複数形でよかったかな。そのためだろう、専門店や百貨店は閉まっていて、目当てのホームセンターとスーパーマーケットしか開いていなかった。
ホームセンターは日本以上の品揃えといってもいい。器用とはいえないチリの人々だけれど、大抵の事は自分でやってしまうからだろう。鍵は引っ掛けるだけの、ごくごく簡単なものにした。
モールの中のセルフサービスのレストランで食事。パエリアとサラダをジュキと食べる。
帰りのバスの中から、週末のサンティアゴを見ている。これから冬の間、この街はひどい大気汚染のスモッグに包まれる事になる。まるで気体のコーヒーというものがあって、三方を山に囲まれた巨大なカップに注いだようなことになってしまうのだ。ジュキは日に日に悪くなる空気のせいか、頭のこの辺が痛いのと、指差して言う。いやほんと、世界中探したって、冬のサンティアゴのひどさは三本の指に数えられるはずだ。山に囲まれている上に、無風になってしまうからだと聞いている。山でも削って風が抜けるようにしない限りは、いくら数の多いバスを減らしたって無駄のようだ。
彼女の部屋へ戻って鍵の取り付け。これで一安心。
ついでに友人達から送られた彼女宛のメールなどを見せてもらった。みんなそれぞれの活動を楽しんでいるらしい。ハンガリーへ行ったU君は野球隊員。今はいちチームのカントク兼コーチ兼選手だ。アマチュアのクラブチームなのか、練習はいつも夕方から。で、昼に起きればいい生活だという。なんと羨ましい。
990430 金曜日
晴れとも曇りともつかない
イジャペル2日目。
遅く出勤。ノリヒコさん、トシユキさんと建築系隊員部会を立ち上げる相談をする。今語学訓練中の都市計画隊員を含めると4人になるから、このへんで作っておきたいと思い、自分なりの草案を書いてきていた。みんなそう言う事は考えていたようで、この際、部会はきちんとしたものを作る事となった。つまり、広大なチリでは集まる時の交通費はばかにならないし、公休をもらうにも組織として公に認知してもらう必要があるだろうということだ。そうすれば、JICAからの予算を引き出す事が出来る。
他の国でも類似職種の隊員が集まって作る部会や分科会がある。チリでは今の所、たくさんいる農業隊員分科会がある程度だ。これとて半年に1回の開催だ。
僕らは2ヶ月に1度程度の意見交換の場を中心に、専門家との懇談会やテーマごとのディスカッション、あるいは調査やその発表、また各自の仕事の報告や相談の機会を作って行こうとしている。更に、後任の人々への情報の集積は大きな意味を持つから、とりあえず地域差の大きい業務・専門用語の集積や用語集の編さんをすることも重要だ。また他人の持っている書籍などの情報の公開をするのは、既にさっきの農業隊員部会を中心に行われつつあるが、我々も追随したいと言う事になった。
活動の結果を報告したり、成果について発表する事も大切な事なので、ニュースレターの発行もやりたいということになった。印刷やメール、あるいはホームページなどの媒体があるが、検討して行けばいいだろう。
ノリヒコさんとペンシオン、ようするに普通の家でやってる食堂?で食事。大量。げっぷ。
午後、チリではほぼ100パーセントのシェアのAuto Cadの使い方をノリヒコさんに聞く。
昼、地震があった。少し恐いくらいに大きく、振動が細かい、加速度が大きいというのか、そんな地震だ。阪神大震災を思い出した。震度は4程度。落石が気になる。岩のゴロゴロした山裾には、違法に建てられた貧困層の住宅がたくさん張り付いているから。うーん、ここは地震国だ、ほんと。
風邪がひどくなってきたか、微熱が出てきたように思う。明日寝込んでもまずいと思い、これでイジャペルを出る事に。お二人に礼を言い、苦労してバスを捕まえる。
これがひどいもんで、山並のなかの夕焼けの赤さに感動したのも束の間、空席ができるはずが僕を含めた数人分の席がなくなってしまい、夜のサンティアゴへの道をずっと立つはめになった。車掌め、へましたな。
更に追い討ち。首都目前70キロくらいのところで、やっと座れたと思ったら、これも束の間、バスのエンジンが止まってしまった。砂漠のなかで立ち往生だ。既に夜も10時前で、乗り換えのバスも通りがかってくれず。結局2時間近くを外で震えることになった。そうしたらどうだろう、サンティアゴから同じバスが振り替えでやってきたではないか。はじめから応援を頼んでいたのだ。それならそれで、客に連絡するべきではないかと日本人の僕は思うのだけど、無い。客にしたって、一言も謝る事も無く説明もしないバスの乗務員に対して、何の文句も言わない。それどころか笑っている。全くしょうがないなあ、わっはっは。そんな感じだ。そんな状況を見て、更に、しょうがないなあ、あーあ。と憤るのは、僕だけのようだった。
連絡所着は1時も近かった。風邪引きで咽がおかしい。ビールを飲んで寝た。
990429 木曜日
晴れ
正午のバスで北隣の第4州、イジャペル市へ出発。ノガレスだって結構砂漠っぽいのだが、更に更に乾燥地帯らしくなっていく。第4州に入ると海岸線に出るが、その後、イジャペルへはパン・アメリカン・ハイウェーからそれてアンデスの方へ向かう。大味な九十九折れの道を行く。最高のドライブツーリングコースだ。遠くにアンデスを見渡すようになると、ほどなくイジャペル着。
ノリヒコさんがターミナルまで迎えに来てくれた。彼は市役所の建築家として働く協力隊員。僕よりも半年と少し先輩だ。だからチリはもう1年になる。
オフィスへ着くと、僕より1年先輩のトシユキさんが作業中だった。彼は都市計画隊員。実際に実務もしていた人で、僕のような建築設計しかしていないインチキ都市計画隊員とは違う。ふたりとも、企画調整局勤務。
今回のイジャペル行は、先輩隊員達の様子を見る事と、関連職種の部会を作れないか、という相談をするのが目的だ。
ノリヒコさんが、辺境の学校の工事の検査に行くので同行させてもらった。1時間近く、大きな谷あいの未舗装路をピックアップで行った集落だった。意外にも綺麗で立派な校舎が完成しており、ノガレスよりも工事のレベルは上だなあと思う。と言っても、日本の比較の対象にはならない。仮校舎で遊ぶ子供達と話し、写真などを撮る。
夜、皆でレストランで食事。トシユキさんは既に活動を1年していて、協力隊事務局から費用を出してもらえる任国外旅行へ行っている。その時の話などを伺う。
風邪ひき中で、もともと弱いのに、さらに酒に弱くなっていた。真っ赤になった。
ノリヒコさんの家に泊めてもらう。レンガとコンクリートのかわいい、綺麗な家だ。高台から大きく谷を見渡す所にある。彼は静かに独り暮らし。
朝方まで僕のプロジェクトのことを相談させてもらい、話は更に脱線していく。彼だって久しぶりの建築談義に違いない。つまらない発言などしないノリヒコさんだけど、大阪で働いているうちに変わったのか、寡黙な人じゃなかった。
イジャペルは人口3万人程度で、そう大きな都市ではないが、近くには街がないうえ、どちらかというと、分散した集落の中心都市として機能しているらしく、商店やレストランの数がある、ちょっとした都会だった。ただし、首都からはバスで5時間半くらいかかるし、州都のラ・セレナへも遠い、便利とはいえない土地だ。役所の人を見ていると、やっぱり地域差というのだろうか、ノガレスのほのぼのとは違った、また別の田舎の陽気さを感じた。
990428 水曜日
晴れ
そうら、今日は風邪が治ってる。さすがはアホパワー。坂田利夫ではない。阿呆でも風邪は引くが、風邪にアホ(ニンニク)は効くのだ。ただし、寝起きに無理せず、ちょっと遅めに出勤。
いちにち製図板に向かって、更衣室のスケッチを描き上げる。明日からマキシモがCADで清書することになる。ちょっといいかげんなスケッチだが、まあいいだろう。
明日からの2日間、イジャペル市役所へ出張ということになる。都市計画と建築の隊員がいるところだ。楽しみである。
カレラに所用で出る。ちょっとした都会であるカレラは、今週は夜9時から11時まで停電なので、ちょっと物騒に見える。治安のいいチリだから何も無いのだろう。ちなみにノガレスでは昼3時から5時だ。
昨日から全く使い物にならなかったパワーブックの調子が戻った。急いでメールを送受信。読みたいページも多いのだけど、なにしろお忍びで市役所の回線を使っているので、あんまり長時間もねえ。
そんな中、間もなくジンバブエへ協力隊で派遣される大学時代からの友人Yが、ようやくホームページを開設したとかで、早速見る。なんかお洒落そうにしてるぞ、こいつ。がんばろな、Yよ。
990427 火曜日
晴れ
昨日から鼻やのどの様子がおかしかったのが、今日になって微熱が出た。風邪を引いたようだ。午後から力も抜けてきたし、早退する。食中毒にはなるし、最近弱っとるぞ。
郵便物が届く。JICA事務所からまとめて来る。ほとんど郵便なんてない。だがしかし、昨日から気になっていたKからの葉書がはいっているじゃないか。2月の消印。なんでこんなに時間がかかったんだろう?相変わらず汚い字だなあ。このころは元気にしていたのか。
夕方からひと眠りして、食事。風邪を直す薬なんてないので、とにかく精をつけるのがいい。ビタミン剤も飲んだりするけど付け焼き刃。こういう時はスペイン語で言うところの「アホ」。つまりニンニクに限る。カツオのフレークを玉ねぎと炒める。これにニンニクのみじん切り1個分。ペペロンチーノに、これも1個分。それに赤ワイン。気分が良くなったところで煎茶。茶漉しがないから葉っぱごとカップには入っている。これがうまい。
なかなか眠れず、まだ片付けていない船便の箱の中から、文庫本の小箱を出す。しかしスペイン語も読まねば、と取り出したネルーダの小詩集の1編を読む。音読。とっても身体的な表現がよろしい。
続いて文庫本。リルケを拾い読み。おお、深い。しかし、気分が違う。で、何故か手にとってしまったのが松本清張の「点と線」。こういう本って全然読まないのに、古典くらいはと思って持ってきていた。全く意外なくらいの平明な文体、素直な書き方にほだされるように一気に7割位読み終えた。で、遅いから寝る。
松本清張って、あんな顔だったし、もっと深刻で厳格な文章を書くものと思っていた。爽やかでさえあるな、あれは。ほんと意外。
990426 月曜日
快晴
昨日の雨も上がって、なんと爽やかな今日だろう!日誌ではまだノガレス模様は載せていないのだけど、これは写真を撮っておきたいとさえ思った。実は何故かまともな映像を全然撮っていない。いつでもできそうなことって、いつまでもできないものだ。大学は京都だったけど、あの時も名だたる名刹のうちどれだけを見て回ったかというと、恥ずかしくなってしまう。
製図板で更衣室の図面の下書きを描く。
午後、実家から小荷物が届いた。最初首都のJICAに届いて、そこから宅配で転送されることになっている。転送が遅れて1週間余分にかかってしまっていた。
いまやワープロや表計算のスタンダードソフトと言えば、いや昔からか、マイクロソフトのワードとエクセルだろう。そのマニュアルである。僕には家族がいて、こういうことをしてくれるので、実に助かる。
同封してある手紙は母からのものだ。僕はホームシックからは遠く、まるで平気なのだけれど、妹が神戸へ就職で引っ越していったので両親は寂しいらしい。僕よりも、実質もう帰ってくることのない妹には、嫁にやるのと同じ思いだったとのこと。分かる。だが、それも親の喜びのひとつだろう。親離れなんて気楽なものだが、子離れはそうは行くまい。
友人のKのことで心配なことが書いてあった。
出来ることならば、すぐにも飛んでいきたい。なんてことだ。遠く離れてしまえば、出来なくなることは多い。そして大きい。離れていても大丈夫なんて言葉を聞くことがあるけど、そんなのは嘘だと、昔から思っていた。
傍にいてさえ出来ないことはある。でも傍にいなければ何も出来ないではないか!今、俺に何ができるだろう?あいつが、だれより遠慮なく話のできる相手は俺ではないか?そして俺自身何かとあいつには世話になってきたのではないか?感傷するんじゃない。落ち着いて、彼のために何をするべきで、ほかの皆がどうしているのかを考えなければ。今すべき行動をちゃんと動くことだ。
協力隊に来ていて、最も恐いのは、実にこういった事態ではないだろうか?恋人と、家族と、友人と離れること自体は大したことじゃない。ただ、いざというとき自分が無力になることを覚悟しなければならない。あるいは、自分の身に降り掛かったことに対して、周囲の人達に無力感を味わわせ、さらに心配をかけるかも知れないのだ。
とにかく午後残った時間は、同僚達には分からないことをいいことに、連絡のメールを書く。
カレラへ出かける用があった。こんな時こそ出かけるんだ。
明るいチリの友人たちよ。遥かに年長の彼等、彼女等には、苦難は受けて立つ覚悟がある。それを誇らし気に語ってやまない。
バスに揺られて向かう道で、そして帰る道で、僕と僕につながりをもつ人々の事を考える。万一、僕自身に何かがあっても、いいかっこをして思うのではなく、僕は僕自身のことをそう大したことには思わないだろう。ただ、僕がかけがえなく思い、あるいは心をかける人々とのあいだのつながりが危うくなったり、報いることが出来なくなることが恐ろしく、また口惜しいのだ。
この「つながり」とは何だ。結局つながりのなかにだけ、何かがあって、一方的にそれが潰えていくと言うのは、許し難いことではないか?大切に思えるそれらも、なんだか頼りない支えしかもっていないのかも知れない。そうでありながら、それらは少しも儚くない。ただし、その支えが確かである人は、力のある人間だということは言えると思う。
ネットに流して、読んで欲しいからこんなことを書くのではない。?と思う人もいるだろう。僕は、書いておきたいのだ。
蛇足。たまたま流していた曲の言葉が心にとまる。
大貫妙子:FRIENDS, album "TCHOU", 東芝EMI 1995
曲の最後、もう長い間、というフレーズが何度も繰り返されるところが好きだ。
一度ではない。いつだって、そして、もう、長い間。そういうことが、重さを与えるのではなかろうか?