980606 土曜日
晴れ
「愛別離苦」。生きていくうえで最もつらいものの一つ。憎しみに身を焼く苦しみではなく、愛するからこそいつかは受けなければならない苦。
喪失が与えるものの大きさを知っている人は、つまり同時に尊厳を知っていると思う。多分喪失を知らなければ、「尊厳」をイメージすることはできないのだと思う。
後輩のT君のお母さんが亡くなった。御夫婦で車に乗っていての事故のために。お父さんは肩を骨折された。
3日程意識不明の状態だったが、そのまま死んでしまったのだ。
喪主の代わりにT君夫妻が通夜で挨拶をしていた。しっかりとした口調であり、残された者としての決意のようなものが感じられた。
ある文献に因ると、臨終の際に成仏の相を示した例として「半眼半口」「色が白くなる」「大変軽い」「肌が柔らかい」等をあげている。中学生の頃からお世話になった人なので、その臨終の相を見たいと思った。
会場の公民館は混んでいて、それはかなわなかった。でも事故死亡にもかかわらず、棺桶の蓋は顔の部分をちゃんと開けてあったのが見えたので、きっとあのお母さんらしい温かな微笑みをたたえているのだと思う。
故人と遺族の意志により、明日の告別式は友人葬となる。仕事で俺は行けない。
>「死ぬ瞬間」E・キューブラー・ロス 読売新聞社
>「対象喪失」小此木啓吾 中公新書
980602 火曜日
雨
梅雨に入った。
協力している事務所であり、出身アトリエである永田・北野建築研究所にて午後から千本中立売の集合住宅の詳細図の作製。6枚7枚の図面を同時平行で仕上げてゆく。結局終わったのは夜中の2時になった。最終は来週でよい。明日は(いや今日だ)施主との打ち合わせのテーブルへのる。
あたふたと作業が混んでいても、夜が更けると気持ちが溶けだすようになって、所員のH岡さんと話し込む。視線はそれぞれの製図台やテーブルに落としたままで。
配色の参考にとル・コルビュジエの作品集を繙きながら、彼自身かの建築家に心酔していることもあり、我々の仕事の作品性についてコルビュジエを鑑にして色々と。建築の作品としてのクオリティは、クライアントやその要求条件や或いは法規によって、ある程度制限されるのだと思うようになってしまいがちだが、所詮は建築家の一存だというのが結論だ。この事務所にとっては設計業務への時間を含めたコストマネジメントの稚拙さが、作品性を保障しにくくしている一番の問題点であるように思う。といってもたまにはホームランのような作品も出しているのだが。
建築史上に名を留めるような名建築は、果たして共通して建築家にとって甘い条件を備えたものであったのか。答えは否だと思う。
翻って今俺が線を引き、詳細を決定するこの「マンション」は、その本性として「作品」には成りえないか。否。でも、敢えて言うが毎回ホームランにする必要は無い。打たせてとるのも大事というのは本当だろう。
リーダーの永田祐三はタマをゲームをどう見極めているか。俺には分からない。見きってしまうプロジェクトは、それだけの「意味しかない」ということのようだ。その意味というのが、誰にとっての意味なのか。それが今日僕らの間に(いつもながら)浮かび上がった疑問だった。
980601
晴れ
昨日、母の弟一家が何年ぶりかで遊びに来た。俺はいまも親と同居している。そこそこな歳ともなると、親類の歓待にも一役買わねばならなくなる。二つ下の妹共々買い物したりかたずけたり。おかげでひっくり返ったままだったアトリエにしている部屋も整理がついた。
伯父の一家も家族全員で。長女の美樹ちゃんも、もう25歳。長男広宣君も21歳。女は奇麗になるし、男はたくましくなる。この間までお互い子供だと思っていたのに、大きくなったものだ。俺の親爺も親としての感慨を述べて、ビールを口に運んでいた。
長男はその日のうちに愛車のスープラに乗って帰っていった。おうおう、派手なものだ。残りは泊り。
俺はなんやかんやと作業してから、ネットで散歩。たまたま見つけた性格判断をしてみる。二つやってそこそこ認める結果もあるが、なんか納得できない結果も。俺自身はおみくじはやったことないけど、これっておんなじ様なもんやなあ、と思った。しかしやり直してみても、科学は同様な結論を出してくるのだった。俺ってそんなに詰らん奴かあ?いやいや、厳しい答えの方が、関心を引き付けるという読みとちゃうか?なんか負け惜しみ。やってみます?
CUBIC
エゴグラム
今日はいい天気だったのに、明日からの詳細図の作業を思うと、朝も起きないまま昼寝を(?)決め込む。
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