980528
晴れのち雨

 今日も朝から京都市役所。昼間仕事を中断して外に出たので、作業を終えて外に出るともう6時になっていた。

 河原町通りを下る。学生時代を京都で過ごした割には、こんなときちょっと寄るといい店を知らない。
 飯時やし、どないしょうかなあ。思案するうちたどり着くのは、たいてい駸々堂や丸善、ジュンク堂といった書店。立ち読みして出る。あーパワーブック欲しいなあとか思いながら。気分をかえて古本屋へ。みすず書房の哲学もんなんかを見るが、結構高いぞ。美術書は何か少ない。ぴぴっと今の気分に嵌まってくるやつは見つからず。うれしそうに難しい本を探すからだな。

 芦屋の永田・北野建築研究所へ向かう前に、四条通りのモスバーガーで食べる。さみし。二階席から向かいの雑貨屋の入ったビルをながめたり、とあるページで大絶賛してたので釣られて買った「赤毛のアン」を読んだり。そのうち雨が降り始めた。




 家に帰って夕食をとっていると、パキスタンの核実験のニュース。インドもパキスタンも核保有と実験に対する支持はあついらしい。俺は反対だ。
 核保有が聖域扱いされなくなったということで、中東への核の拡散が懸念される。世界が新しい段階へと動きだしたということか。  

 そもそも、核の「不拡散」という概念が、既存の保有国の軍事的優位を固定化する事を肯定するようなイメージを持っている。いわゆる非同盟を標榜してきた国々にとって、国際的な局面での身の処し方とは、ともかく「特別な」国は無いということであり、その軍事的世界観は、現保有国と非保有国とは「二重の基準」で分かれているということだ。
 客観的に考えて、それは正論だ。どんな事情があろうと、それは確かに不平等だ。結局、核の拡散を防ぐことは目的でなく、究極的な核廃絶だけが正しい指標になるのだと思う。保有国はまずそのことを確認して、宣言しなければ、確実に核保有国は増えるだろう。相手を非難することではなく、自ら変わる姿勢だけが主張の整合性を保障するんじゃないのか。

 非核団体の代表者の人々へのインタビューを見ていて思ったのは、高齢であることと、運動を国際的に拡大していそうには見えなかったこと。実際はどうなのかな。
 彼の国々とは核に対する認識に、かくも大きな溝があり、それは自然に埋まるものでない以上、ひどい言い方だが、この現状は非核を唱えるものの声が広げられてこなかったということを示している。

 以上、私見。間違ってるだろうか。
 俺自身としてできることは、友人と対話しながら相互に教育しあっていくぐらいしかないかなあと考えてる。

980525
曇り




980524
晴れ

 今年も5月24日を迎えた。29歳の誕生日。来年30になるのかと思うと、嫌だなあ等とつまらないことばかりしか感慨にない。
 子供のころは、自分の生涯というものの長さを想像できなかったし、これから先がまだまだある、スタートラインにいるんだと考えていられた。この歳になると、長生きしてももう3分の1は終わってしまった。あと10年経てば半分が終わることになる、なんて考えてしまう。カウントダウンばかりしていてもしょうがないが、でも時間の流れの中の存在であることの自覚から来る、自分自身の人生へのリアリティーを噛みしめるのは悪くない。 まだ俺自身が何時かはいなくなるのだということには現実感はないけど。

 二十歳になる前くらいから、三十までに自分の方向づけをしていたいという思いがあった。方向づけといっても、実際それは仕事やら何やら、いろんなものの集合なので、ひとくちにいえないのだが。
 今年の暮れには青年海外協力隊の一員として、遥かチリの田舎町へと飛び立つ。2年間、都市計画を中心に行政側で仕事をするのだ。長いスパンでの判断では、これが実質的な方向づけとしていくつもりだ。

 建築設計を中心に大学、アトリエと勉強してきて、退職したのはちょうど1年前の今日だった。前年の暮れ辺りから急激にアトリエの経営状態が悪化したのが直接の原因だった。
 高校時代に建築を志して以来、開発途上国で住環境問題を軸に何らかの仕事をしていきたいと思っていた。それが安藤忠雄の事務所でバイトしてみたり、永田祐三の事務所で働いたのは、どんな局面の仕事でも建築するものとしての強い志を発現できなかったなら、厳しい状況の地域や仕事であればあるほど、その成果が矮小なものとなるに違いない。いろんな意味で「つよさ」を持った建築家のもとでその仕事ぶりを見ておきたかったからだ。

 事務所を辞めてなんとか建築で日銭を稼ぎつつ、本来やりたかった道へと手探りで進んだが、実際俺が考えるようなプログラムをやってるNGOは見つからなかった。建築家の坂茂さんのルワンダでのプロジェクトにも参加しそこなった。本来住環境整備というのは、基本的人権として国や自治体のレベルで保障すべき問題だし、事業規模としても、とても弱小な民間団体では手に負えないということなのだろう。
 結局ODAを使う、国際間の協力事業としての青年海外協力隊が、俺の学歴や能力で参加しうる唯一のものだった。これを様子見と今後の足掛かりとしていくのだ。

 帰ったら31歳。多分来世紀に入っていることだろう。俺自身は得難い経験と思い出を作っているだろうし、新しい千年に期待する風が世界を包んでいるだろう。だがどうにもならない境遇の中で生きる人々には、詰まるところ何ほどの変化もないに違いない。それを俺は変えていくための微風に加わりたい。その先にだけ自身の方向づけを支える何かがあると思うから。

 酔ってるわけとちがうけど、ごっつうこそばいこと書いてる。


past
 
 

-kmdesign home-