2004年03月09日
はせぴぃ先生の「お互い更新日記」でピックアップして頂いたようなので、続きを少し書こうかと思う。2つ下のエントリーの続きです。
#なるほどバーチャル霊園というのが既に存在するのですね。
死後のネットのことはずいぶん以前から気にはしていた。パソコン通信の黎明期を含めると、そろそろネットに関わって18年になるわけで、いくらぼーっと過ごしていてもネット上での人の死を知ることもたまにはある。今は亡き日記猿人で印象に残っているサイトが二つある。
一つ目は1998年に白血病で亡くなられた麻酔科医の「名古屋の毒」というサイト。その後何年かはそのままの状態でサイトが残されていたが、その後編集され、今は北大のサーバに1998年10月24日までのファイルが残されている。
二つ目は「卒業式まで死にません」の著者、というよりもリアルタイムで日記を読んでいたので「南條あやの保護室」のあやさん、といった方がいいかもしれない。今は「南條あやの墓標」からたどれるメモリアルサイトが存在している。
残し方に違いはあるものの、2004年の今も故人の書いたテキストは現存するわけで、なにか紙の媒体と違って、作ったそのままなので生々しく感じてしまうのは私だけだろうか。
いや、私の手元にもネットから消し去ったデータを納めた一枚のMOがある。著作権の問題もあるので、日の目を見ることはないだろうが、もしかしたら、寂しがりやのあの人のことだ。どこかにアップしておいてくれと彼岸から頼んでいるのかもしれない。
死後、自分のテキストを残すのか消し去るのかの意思表示は元気なうちに信頼できる人にしておくのがいい。ビジネスとして代行してくれるところがあればそういうところにでも。
2004年03月07日
自分の死後、ネットに残したテキストの処理やwebの友人たちへの訃報など、気になることがたくさんある。ふつうは家族が面倒をみるのだろうが、そうもいかない場合も多い。家族がPCのことをまったくわからない場合もあるだろうし、とくに日記系のサイトなどは家族には内緒で運営していることも多いだろう。
プロバイダの料金引き落としが途絶え、やがては抹消されるのだろうけれど、なにも知らない人たちからは、最近更新されてないなぁなどと最初は気にされるかもしれない。しかし、それも時間の流れが早いネットの世界、すぐに記憶から忘れ去られてしまうだろう。たとえサイトがある日突然消滅したとしても、飽きてやめたかプロバイダを引っ越したと思われるだけだろう。
そういう幕引きももちろんありだろうが、自分の痕跡をメモリアルサイトとして残しておきたいと考える人もいるだろう。あるいは、リアル社会の友人・知人ばかりでなくネットでしかつきあいのない人たちにも自分の死を知らせてほしいと思う人もいるだろう。
生前にそういったもろもろの事後処理を打ち合わせしておき、いざという時には整然と訃報が送られたり、プロの手によってメモリアルサイトが立ち上げられたりというようなサービスがビジネスとしてそろそろ登場してもおかしくないだろう。
去年、ネットで親しくしていた人の死に際し、webでの告知や読者とのメールのやりとり、アカウント削除までやった経験からもそう思う。親しくしていただけにそれはひどく辛い作業だったし、感情が入ってしまうのを避けるのに苦労した。第三者がビジネスライクに処理してくれた方がいい場合もある。ネット墓守というよりネット葬儀屋か。
参考: ネット墓守(関心空間より)
2004年02月11日

吉野家の牛丼が販売休止になったらしい。あいにく最寄駅の近くに店舗がないので食べそびれてしまったが、また再開されるだろうからその時にでも行けばいいかと。
あちこちで吉野家への熱い想いが書かれているところをみると、牛丼もしっかり日本の食文化に根をおろしているのだと思う。創業100年というから、わたしの生前からやっているのだろうけれど、はじめて吉野家の牛丼を口にしたのは今から30年ほど前だと記憶している。
当時は渋谷に住んでいたが、友人たちの間で、新橋にすごく安い牛丼の店ができたと聞いて、バイクを連ねて夜中に食べに行った。牛肉はまだ高価なものという時代だったので、200円代で食べることができるのは画期的だった。
しばらくは夜中の吉野家通いが続いた。その後、趣向がラーメンに流れていき、足が遠のいてしまったが、就職した会社で深夜残業の時によく牛丼弁当を買いに行かされたことを思い出す。
2004年02月08日
友人から廃車寸前のセリカ1600を買ってからというもの、バイトで稼いだ金のほとんどはガソリン代になった。高速代もあまりなかったので、お気に入りのコースは環八上野毛から第三京浜、横浜新道と乗り継いで行く湘南だった。
小さな恋もいく度となくしていたので、ナビゲーターズ・シートに彼女がいることもあったが、ひとりで行くことが多かった。チューニングボタンがガシャっと力を入れて押し込まないとだめなメカニカル式のカーラジオからは大橋純子の「たそがれマイ・ラブ」がいつも流れていた。今でもイントロを聴くとソレックス・キャブレターの吸気音やオイルの焼ける匂いを思い出す。
わけもなく走り回った。漠然と続く未来が怖かった。だからもう終わりにしようとも思った。
Aに
「一緒に行くか」
と聞いた。
「うん、いいよ」
ためらいもなくそんな答えが返ってきた。
季節は冬だった。東名を沼津で降りると修善寺をめざした。ただ夜のとばりがフロントスクリーンにのしかかっていた。星が空から落ちてきそうだった。修善寺からはあてもなく林道のような細い道に分け入り、人の気配がないところをさがした。もう夜明けまでにあまり時間がなかった。
つづく(かもしれない)
少しかび臭い部屋の、かたわらのラジオからは大橋純子の「たそがれマイ・ラブ」が流れていた。
1978年の暮れ。わたしは赤坂の雑居ビルの中にあるその会社でバイトをしていた。毎朝、本をバイクに山ほど積んで都内を配本してまわるのが仕事だった。本といっても「日本の民話」「世界美術全集」「楽しいクッキング」などといったセットもので、毎月一冊ずつ配本していた。そして集金までできてはじめて一冊100円のバイト代が歩合として懐に入った。
営業の人は別にいて、みな凄腕だった。都内の会社をまわり、本の契約を取っていくのである。時代も右肩上がりでよかったのかもしれないが、配達が間に合わないほど契約が取れた。「どうやって売るの?」と聞いてみたが、就業中の会社に入っていき、本を頭上に掲げて大きな声で「この本だれか買わない?」とやるのだそうだ。そんなことで売れるのか不思議だったが、間合いの取り方や発声などノウハウがいろいろあるのだろう。
都内の大手企業ばかりを配本してまわっていると、その会社のカラーのようなものがだんだんと見えてきた。心のゆとりといったらよいのだろうか。毎月届く本を心待ちにして、本を楽しむゆとりのある人の多い会社もあれば、とりあえず契約はしてしまったが、本を読む心の余裕などないほど疲弊している人たちもいる。さまざまな会社のさまざまな人に会うことで、自分の中に会社のランク表みたいなものができてしまった。今、消費者として製品を買う立場で、無意識のうちにその時の評価で買う買わないを決めていたりする。某大手便器メーカーなどは家を建てる時に指定したほどである。